48 悪女の所業
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
永眠してしまうんじゃ? と身の危険を感じたけれど、結局俺はその眠りから無事に覚めることができた。とんでもないビンタだったなぁ……。
その後、辻崎からあれは自分の妹だという説明がされた。
辻崎に兄弟がいる事を、俺はそこで初めて知って驚いた。
そもそも今日この家に他の人がいたんだな、という事も驚いたけれど、もしかしたらあの首に掛けていたヘッドホンで、妹も気付いてなかったのかもしれない。
辻崎ひなつ。中学二年生らしい。
一瞬双子かと思うほど、辻崎の顔によく似ていた。
たぶん三年前の辻崎ゆずの生き写しだ。
あんな場面だった事もあり、しっかりとした自己紹介は出来ていない。
あのビンタの後、妹はずっと自分の部屋に閉じこもっていたようだった。
「月村の服、洗い終わって今乾燥機かけてるから、もうちょっと待って?」
「あ、ああ。悪いな……」
俺が軽く気絶しているうちに、辻崎は一度下へ降りたらしい。
そんなに長く気を失っていたのか?
そう思ってスマホで時刻を確認してみると、もう午後の一時半を過ぎていた。
二十分かそのくらい気を失っていたようだ。
「ううん。それより、お昼どうする?」
「特に考えてなかったけど、そういえばお腹空いてるなぁ……」
「それなら、どこか食べにいく?」
「え? いいのか……?」
「いいって、何が?」
「な、なんかその……本当にデ、デートみたいじゃん……」
「あはははっ!」
辻崎は少しご機嫌なようだった。
男子にお尻を触られてテンションが上がった。なんて表現してしまうと、辻崎が完全に痴女のそれなんだけど。
出来事を整理してみると、そう説明できなくもないところが困る話だ。
「なんでそんな笑うんだよ!」
「えー? だって男女でご飯食べ行くくらい普通じゃない? それとも何? 伊十峯さんとはお茶に行けるけど、あたしとは無理って事……?」
「いや……あ、あれは! 伊十峯のは、手伝いっていうか……」
「手伝い?」
俺は、キノキノで辻崎達と出くわした時の事を思い出していた。
そうだ。あれは伊十峯が小春さんから指示を出されて、その結果として出掛けたまでの事だ。
……あれ? でも、どうして俺はこんなに必死なんだろう。
これじゃあまるで、必死になって理由を付けたいみたいだ。
「手伝い……だよ」
「手伝いって言ってさ、結局二人で喫茶店に行ってたじゃん。……それは、あたしと一緒にご飯に行く事とどう違うの?」
「……」
言われてみれば確かにそうだと気付かされる。
伊十峯と出掛ける事。辻崎と出掛ける事。
この二つに大きな違いなんてあるんだろうか。
俺は一体いつから、異性と二人きりで出掛ける事を、デートだと思うようになったんだろう。
そしてデートじゃないお出掛けに、なぜ何かしら理由を求めるようになったんだ?
でも、理由が無ければ行ってはいけないような気がする。
その行為が「恋愛」のようだと感じてしまっている以上、恋人でもなんでもない辻崎と、公衆の面前で理由なく一緒にいるだなんて。なんだか俺には不自然に思えてしまう。
「ねぇ、確認なんだけど、伊十峯さんとは付き合ってるわけじゃないんだよね?」
俺が色々と考え込んでいると、辻崎がそんな質問を投げてきた。
ちょっと小首なんかかしげたりするから、不意に俺はドキッとしてしまう。
「あ、ああ」
「ならいいじゃん。女友達だよ、女友達! そう思って、出掛けよう?」
「……」
女友達……。
俺は決して、異性間の友情を信じないわけじゃない。
そういう間柄も素敵だなって思う。
そんな間柄の相手を持つ人は、是非そのまま維持した方が良い。
でも俺自身は、その感覚がわからない。
「な、なぁ辻崎……教えてほしいんだけど、どこまでが友達で、どこからが恋人なんだ?」
一緒に食事へ出掛ける事がまだ友達なのだとしても、手を繋いだり肩を寄せるのは友達じゃないよな……?
けれど、小さい頃は、異性だろうと関係なく手を繋いで遊んだりした事があったはずだ。
それを恋人なんて認識はしないんじゃないか?
「え? うーん……。そんなの、「告白したら」に決まってない?」
「じゃ、じゃあ例えばだけど、付き合ってない男と女が手を繋ぐ事は、いけない事なのか?」
「え? ふふ、何その質問っ。……うーん、改めてそう聞かれてると、なんだか難しいかもね。いけない事じゃない気もするけど、良くもないっていうか?」
「そうだよな……。難しいよな。……ごめん、今のは気にしないでくれ!」
俺はパシッと両手を合わせて謝罪した。
俺は、十七歳になっても、ちょっとした行為の恋愛性すら正しく判断できないらしい。
知り合い、友達、恋人、家族。……そういう、本来カテゴライズされるはずの関係性が、ただのっぺりと地続きになっていて、割り切ることのできない物だと考えてしまっている。
セフレや事実婚のような関係が世の中にはあるのだから、本当に線引きがわからない。
その点、辻崎は俺よりもわかっている気がしていた。
言葉で表現できなくても、わかっているんだと思った。
「ねぇ……ひょっとして月村って、前に何かあったの?」
「!」
辻崎は、真面目な顔で俺をじっと見つめた。
それまでの高かったテンションもかなり抑え気味になっていた。
「何か……って?」
「うん。過去にそういう、他の女の子と……何か……?」
「……」
俺がまたしても黙り込んでいると、辻崎はゆっくりとこう述べた。
「それじゃあ今日は大丈夫。月村とは出掛けないよ」
「……いいのか?」
「うん。今話せないなら、それはそれでいい。そのままでいいから。でもそういう所、あたしが引っ張っていってあげたいけどね? ふふっ」
「え? 引っ張ってって……?」
「だってさー、あたしは月村に救われてるんだよ? 悔しいけど。無自覚に救われたの。だからあたしも、月村の背中を押せるようになりたいじゃん! じゃなきゃ「お相子」じゃないでしょ? ふふっ♪」
「辻崎……」
はぁ……。どうしてこんな時だけ、辻崎は綺麗な笑顔を見せるんだ?
いつもの小悪魔みたいな表情とは全然違うものが、そこに現れていた。
俺達はそれから、一階の乾燥機が止まるまでの間談笑した。
「そういえば月村、どさくさに紛れてめぐみのおっぱい揉んだよね。あれわざとでしょ?」
「絶対偶然ですが、何か?」みたいな談笑だった。
その後、乾燥機でホカホカになった俺の服を、辻崎が取ってきてくれた。
自分の服だし俺が取りに行く、と提案したのだが、
「衣装ケースまた見るつもりなの? 変態じゃん」
とあしらわれてしまった。
その服の袖に腕を通す頃、時刻は午後二時を回っていた。
もう昼下がり。お腹が空き過ぎて、逆に空いてるのかもよくわからない感覚だった。
「じゃあな、辻崎。今日はお邪魔した」
「ううん。今日はありがとう。月村のおかげで、めぐみと真正面からぶつかれたと思う。あんな結果になっちゃったけど、それでも気持ちはなんかスッキリしてるんだよね。あははっ」
俺は結局、辻崎と食事へ出掛けない事にした。
特別な理由なく女子と二人きりで出掛けるのは、やっぱりどこか腰が引けてしまうのだ。
そして俺が黒革のソファから立ち上がろうとした、その時の事だった。
――♪~♪~。
「電話?」
「ああ、俺のスマホだ」
俺のスマホから着信音が鳴り響いた。
辻崎に不思議そうな顔で見つめられる中、サッとスマホの画面を確認してみる。
その電話をかけてきたのは、なんと伊十峯だった。
「伊十峯だ」
「え、伊十峯さんから?」
伊十峯から電話だなんて珍しいな。
基本、伊十峯との連絡はキャットークのメッセージばかりだ。
何か急用か? ならすぐに出た方がいいのかもしれない。
そう感じた俺は、辻崎に一応尋ねた。
「急用かもしれないから、ここで電話に出てもいい?」
「え? ……うん! いいよ」
ん? 何か今、辻崎の顔がにやっと綻んだような気もしたけど。気のせいかな?
『はい? もしもし、伊十峯?』
『こ、ここんにちは! 月村君っ』
電話口の伊十峯はどういうわけか緊張していて、声が上ずり気味だった。
『どうしたんだ?』
『う、うん……その、突然なんだけど……。な、夏休み中も! また前みたいに、炭酸水を取りに来てくれていいからっ!』
『…………え?』
いきなりどうしたんだ、伊十峯⁉
脈絡も何も無いけど、もしかしてそれを言うためだけに電話を……?
何か緊張しているのか、その甘くて可愛らしい声もどこか調子が外れているようだった。
『あっ、そ、その……まだ家にたくさんあるから、連絡してくれればいつでも来ていいよっていう事が言いたくて……』
『あ、ああ。もしかしてそのためだけに電話を……?』
『……』
俺がそう質問すると、電話口で伊十峯は何をしゃべらなくなってしまった。
伊十峯が話さないので、同じように俺も話さなくなる。
そんな空気を部外者ながらに感じたのか、辻崎がこっそりと俺に話しかけてきた。
「月村、どうしたの……?」
「……え、いや……」
『つ、月村君?』
『えっ⁉ ど、どうしたんだ伊十峯?』
辻崎に向けて発した俺の声が、伊十峯にも少し聴こえてしまったようだった。
こっちの電話口のそばに辻崎が居る事は、さすがに悟られないほうがいいような気がした。
隠すのも変かもしれないけど、伊十峯に妙な誤解をされたくないしなぁ……。
『う、うん……実はね、これもお姉ちゃんの指示なの……』
『指示?』
『うん……前に言ったでしょ? ほら、私が変わりたいって相談したらっていう話』
『ああ……え⁉』
伊十峯が話を再開し始めたタイミングで、辻崎がまさかの行動に出ていた。
「ふふっ。……しーっ。声出しちゃダメだよ?」
ああっ⁉ ちょっと待って! 待ってくれ辻崎⁉ 今伊十峯と電話してんだから……!
あろうことか、辻崎は電話中の俺の右手を触ってきたのである。
『月村君……? どうしたの?』
ああっ! 俺の右手の甲に、辻崎の指先がちょこちょこと触れている!
『な……なんでもなひぃんだっ……! い、いとみ、ねぇんっ!』
「ぷふっ……」
俺の反応を見て辻崎は笑いを堪えていた。
堪えるくらいならやめろ! 続行しないで!
『そう? あの、それでね? お姉ちゃんに話したら、今は夏休みで皆暇な時間もあるし、キャットークじゃなくて電話で誰かに直接連絡してみたら? って言われちゃって……』
『ああ、なるほどなはぁんっ! そ、そそういうことっかっ……んっ!』
俺の右手の甲に、いよいよ辻崎の手が覆いかぶさってくる。
あぁっ! 手! 手ぇ全体が辻崎の手の温もりで一杯だ!
「がんばれ、月村っ♡」
くそ! わかっててやってるな⁉
俺がこの状況を伊十峯に説明できないと、わかっててやってる! これは悪女の所業だ!
『そうなの……。で、でもごめんなさい……やっぱり、忙しいよね……?』
『ううん! 全然大丈夫! ……っ!』
俺の手に重ねていた辻崎の手。それがさわさわと動いては止まり、止まっては動きを繰り返している。
爪を触らないでください。あと第二関節のとこの小さい皺で遊ばないで。
ていうか、爪って人に触られるとこんな感覚だったんだ。初めて知った。
――じゃなくて! とてもくすぐったいから今すぐやめるんだ辻崎!
電話に支障がぁっ……ああっ!
『そ、それならいいんだけど……。じゃ、じゃあね! 月村君!』
『あ、あひゃっ! あ……じゃあね!』
俺が伊十峯との電話を切ったことがわかると、途端に辻崎は噴き出した。
「あははは! 月村! 顔赤いよぉ~?」
「っ~! 辻崎のせいだろ! 電話中に何してんだよ!」
「あははっ……ご、ごめん、ふふっ。でも、なーんかいじわるしたくなっちゃって~♡」
目を細めてにやりと口角を上げる辻崎。
「……帰ります」
「あははっ! ごめんってば!」
「もう! あんまりするなよ、こういうの!」
「あんまり、ね?」
「もうダメ! 爪はダメ!」
「あはははっ! じゃあまたね、月村~」
辻崎のにやけていた顔が、柔和で純粋な笑顔に変わったような気がした。
手を振っていた辻崎に合わせ、俺も手を振る。
その日はそのまま、一人で家に帰る事にした。
今夜は久しぶりに、ASMR音声を視聴して寝ようと思った。




