47 逃げないで
カチャカチャ、カチャン、という金具か何かの打ち合う音が聴こえた。
ああ、ベルトの音だ。
辻崎は今、ドアの近くでジーンズを脱いでいる。
俺がベッドの方へ顔を向けているうちに。
スカートに履き替えたいという気持ちは、彼女なりに精一杯考えての事なんだと思った。
いやそれにしても、この展開はどういう事だ……。
「ふふっ、あたしの部屋に月村が居て、その部屋の中であたしが着替えてるって、なんだかおかしくない?」
辻崎の声だけが耳に入ってくる。
「は、はぁ⁉ 何言ってんだよ! それを一番思ってるのは俺だ!」
「あはは! うわ、今絶対あたしの下着姿とか想像したでしょ? ふふっ、変態じゃ~ん♡」
「かっ、からかってんなら帰るよ⁉」
「ふふっ……。あたし、知ってるんだよねー」
「え、何を……?」
話し声の雰囲気から察すると、辻崎の表情はにやにやしていたはずだ。
無論、これは想像でしかない。
俺の視界には、パステルピンクのベッドや、その上でなんとか倒れずにいるおかしな配色のパンダくらいしか映っていない。
「知ってるんだよ? ……月村は「逃げない男子」だって事」
「なんだよ、それ?」
逃げないって、ここから逃げないって意味なのか?
いや逃げようにも、ドアの方に辻崎がいるじゃん。
それにこの部屋に入った時点で、割と逃げたかったんだけどな……。
「だって、本当に逃げないじゃん」
「だから、どういう事?」
「ふふっ。……例えば、めぐみが男の子二人連れてきたでしょ? あの喧嘩だって、逃げる男子は逃げてたよ、きっと。……そもそも、公園であたしのために何か予定をキャンセルしてくれたんでしょ? ふふっ。それも言ってみれば、スルーしちゃえたはずじゃん。逃げれたはずでしょ? あとはー……あ、もう着替え終わったよ」
「そ、そうか……」
色々言い連ねたかったらしいが、そこで辻崎の言葉は終わった。
辻崎の言っている事は、間違ってはいないと思う。
確かに、逃げたい気持ちがあっても、なんだかんだで俺はその場に残っている事が多い。
ただその場に流されているだけだとも言えるんだけどなぁ……。
それに喧嘩の件に関して言えば、結局無様にやられてボコボコの雑魚雑魚だったわけだ。
「……お、おお!」
「ふふっ、スカートどう? これ、最近買ったばっかりのやつ!」
俺がドアの方に顔を向けると、そこには短いスカート姿の辻崎が立っていた。
履かれていた藍色のプリーツスカートは、白のTシャツとのコントラストが綺麗だった。
ジーンズよりも青味が強い。おかげで、より一層身体のパーツが上下でくっきりとしていて、引き立たせ合っている印象だった。
辻崎みたいな猫顔美少女は、割となんでも似合うのかもしれない。
スカートによって、急に可憐な乙女みたいな空気が出ている。
「良いんじゃね……?」
「もうー、そこは素直に褒めてよ! あはは」
辻崎は笑いつつそう言ったけれど、本当はどこか怖いんじゃないだろうか。
これから行なう荒療治を思えば、笑えないはずだ。
それは、俺個人の感情だけみれば、赤面必至の大イベントかもしれない。
けど辻崎からすれば、自分のトラウマと向き合いつつ、触れられて大丈夫なのか試してみる行為なわけだ。
その不安を振り払いつつ今こうして笑っているんだから、やっぱり辻崎は心が強くて、勇気が何かわかっているんだ、と関心してしまう。
「じゃ、じゃあ……いいよ?」
辻崎はそう言って、俺に背を向けた。
まぁでも……。
色々と辻崎の感情を思いやってはみたけど、やっぱり俺も一般的な男の子。
俺は俺で、自分の胸一杯に込み上げてくるこの恥ずかしさを、どこへ吐き捨てていいのやらわからない。
「いいよ?」って単語は、こんなに恥ずかしくなる単語だったっけ⁉
魔法かと思えてしまうほど、その単語だけで俺の鼓動は速くなる。
顔だって赤いはずだ。下手すると、耳や鼻まで赤くなっている。
ゆっくりと立ち上がり、背を向ける辻崎に近づいていく。
やばい……。緊張もしてきたのか、俺はなぜかすり足で彼女に近づいていた。
なんですり足なんだよ俺! 実は忍者だったのか⁉
自分で自分の挙動に寒いツッコミを入れたくなる。
そうして、いよいよ辻崎の背後に立ってしまった。
もう十五センチと無い距離。すぐ目の前に辻崎が立っている。
プリーツスカートの裾の先が、俺の履いていたジャージに触れて、ほんの少し揺れている。
きっと俺に背を向けているのは、痴漢された時と同じ構図で試してみたいからなのだと思った。
「っはぁ…………っはぁ……」
「ぷふっ、ちょっと息荒くない? わ、笑っちゃうんだけど」
そう告げる辻崎の言葉尻は、少し震えていたような気がした。
「仕方ないだろ。俺、すごいドキドキしてるし……こ、こんなのもう……」
「へぇ? ドキドキしてるんだー……で、でも……月村は逃げないよね?」
「……」
辻崎の明るいライトブラウンの髪から、俺を惑わせるような甘い香りが漂っている。
目の前にいる、辻崎のお尻を触るのか? 本当に?
別に付き合ってるわけでもなんでもないぞ?
触ってしまったら何かを越えてしまうんじゃないのか?
いやでもこれは考えすぎか……? ちょっと触って終わりでいい?
俺の脳裏に百の問いが浮かぶ。
そんな風に考え込んでしまい、俺が何も出来ずにいると、
「……!」
辻崎は向こうを向いたまま、俺の右手首を自分の右手で掴んできたのだった。
「……お願い……逃げないで。このまま、あたしを触って……」
後ろ向きの辻崎は、囁くようにして言った。
意外にも、その声は震えていなかった。
俺の手は辻崎の手に導かれて、スカートの中へ入っていった。
優しい手触りのプリーツスカートに潜り込んだ俺の手は、俺の位置から見えなくなる。
……おかしな事を考えるな! これは辻崎のためなんだ。辻崎のため!
俺は思わず目をきゅっと閉じてしまったが、視界を閉じたことで余計に自分の意識や感覚が右手に集中してしまった。
スカートの中にあった辻崎のお尻に、俺の右手の人差し指が触れる。
その瞬間、辻崎の身体がびくつくのを、指先で感じた。
辻崎、大丈夫なのか……?
俺のそんな心配をよそに、辻崎は自分の意志で尚俺の手を導く。
指の当たった箇所が軽く沈む。むにりと音がしそうだ。
いよいよやばい……。むにむにしてて、この絶妙な張りと低めの反発力。
人差し指に続いて、他の指も触れていく。中、薬、小指が確かに当たっていく。
柔らかさと暖かさのほど良いバランスが、これも人肌なのだと教えてくれるようだった。
履かれていた下着の布地が耽美なほど柔らかくて、溜め息さえ出そうだ……。
おい、辻崎……もはやこの際俺は触りきってしまうけど、それでいいのか……?
その下着に指の腹を滑らせ、進めていくと、ついに右の手のひらが下着と出会った。
行き止まりだ。辻崎のお尻に、右手全体がぴたりと合わさっている。
これがあたしの輪郭なんだよ、と教えられたみたいだった。
ドキドキしつつも、ただ俺は不思議な感覚だった。
何しろ、右手に力が入らない。かつて触れたことのない張りと柔らかさを前にして。
右手全体に辻崎のお尻の体温がっ……!
それに、心臓の鼓動がどくどくと唸っていてうるさい。
おそらく、辻崎も触られて鼓動を速めているはずだ。
ただ、その高鳴りの持つ意味は、俺と辻崎で少し違う。
「あ、案外大丈夫かもしんない!」
「ひぇっ⁉」
唐突な辻崎の声に、気の抜けた俺の声があがる。
「ふふっ。月村ぁ~、ひぇって何? ひぇってぇー」
「だ、だって辻崎! 今、俺、お前、パンツ!」
「え~? あははっ! ウケるんだけどぉ~! 全然余裕っぽいよ? あたしは♡」
辻崎は本当に問題無さそうだった。
それどころか、俺にお尻を触られていながら少し振り向いて、口元に怪しげな笑みを浮かべたりする余裕っぷりだ。
「よ、余裕なのはわかった!」
――もみゅっ。
「あっ♡ ……ちょっとー? 何さり気なくお尻揉んでんの?」
「~~っ!」
「月村、顔真っ赤じゃん! ぷははは! マジでおもしろいっ!」
「そ、そんな事言って、辻崎も顔赤いからな⁉ 人の事言えないくせに! こ、このっ! この!」
――もみゅんもみゅんっ。
「あ……ちょ、ちょっと……んんっ、やぁめ…………んっ……」
「ふふ、あっはっはっはっは! もう開き直ったよ俺は! 辻崎のお尻がなんだよ。思うままに揉んで揉んで、揉みしだいてやるぅぅ!」
――もみゅんっ。
もうこうなったらやけくそだ。
――もみゅっぷにゅっ。
辻崎の心配をしていたのに、拍子抜けするくらい大丈夫だったとか!
俺の純粋なドキドキを返せ!
――もみゅっ。
あの触る前の、俺の複雑な思いを返してくれ!
――も~みゅっ。
未だ身も心も焦げてしまいそうな羞恥心を抱え、俺は辻崎のお尻に当てた右手を、思い切り動かしていった。
あっ、でもいいな……。癒される柔らかさだ。
ヒーリング効果とかあるのかなこれ。
傷付いた心が癒えるとか、そんなアロマ効果はありませんか?
と、俺の頭のネジが外れ始めていた、まさにその時だった。
――ガチャッ。
「お姉ちゃーん? 帰ってたのー? ……って、え? 何してるの⁉」
辻崎の部屋のドアが開けられてしまった。
「あ……」
「……」
唖然としてしまう俺と辻崎。
開けられた入口に立っていたのは、中学生くらいの女の子だった。
辻崎に顔がよく似ている。音楽でも聴いていたのか、白いヘッドホンをその細い首に掛けていた。
それにしても俺の右手は、思い切り辻崎のお尻をまさぐっていた途中なわけで。
辻崎は辻崎で、触られて問題ない事が嬉しかったのか、若干乗り気でお尻を突き出していたりしたわけで。
結論、二人して変態的な絵面を築き上げていたわけである。
全員がピタッと一時停止していたその瞬間。
なぜか俺の右手が無意識にぴくりと動いてしまった。
――もみゅんっ。
「あっ」
「ひゃあぁっ!」
――バチイィンッ。
「ぐふぁっ!」
辻崎の強烈なビンタによって、俺の頬が音を立てた。
その子に見られた事で、辻崎はかつてない恥ずかしさを感じたのかもしれない。
ビンタを食らった俺は、そのまま流れるようにソファへ倒れ込んだ。
なぜ急に……ビンタを……。
辻崎、俺が一体何をしたっていうんだ?
いや、その答えはもう知っている。こういうのはお約束だ。
最初に触れた時に邪魔が入らなかったから、もうそういう横槍は無いものかと思ってたよ。それがまさか時間差とはな。
なんて罪な脚本だ。脚本家をここへ呼んでくれ。俺がビンタする。
俺が受けたビンタの答えは簡単だ。
お尻を揉んだ。女子高生のお尻をハンバーグのタネぐらい揉んでやった。
触るだけのはずだったし、よく考えたら俺は別に、「揉め」と言われたわけじゃない。
「触って」と「揉んで」は、近い行動のようで全然違うのだ。
両者の間には、深くて深くて底の見えない谷がある。
その谷を渡るための橋も架かっていないというのに、俺は無理矢理「揉んで」の崖へ飛び移ろうとしたわけだ。
それなら谷底へ落ちるのも仕方ない。うんうん。
落ちてしまえば、後は眠るだけ。
月村つむぎ十七歳。高二の夏休み。
辻崎のビンタによって、俺は永い眠りに就いた。




