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46 背中を向けた辻崎ゆず

 それから一通り、俺は自分で傷の手当を済ませた。


 途中、またしても消毒液のおかしなプレイに発展しかけたが、しっかりと俺自身の手で処置をした。あんなプレイはごめんだ。痛いし。


 初めからこうしておけばよかった。

 手当が済んでから、辻崎に出してもらったお茶を飲んでいた。

 飲み終えて空になったグラスをテーブルに置くタイミングで、唐突に辻崎が話し始めた。


「これ、前にもあったよね」

「前……?」


 俺がそう尋ねると、辻崎は床に敷かれたラグの上で体育座りをしながら答えた。

 ビビットピンクの、毛足の長いもこもことしたラグだ。


「うん。ほら、保健室でさー」

「あ、ああ。あったな」

「あの時、月村恥ずかしがってさー」

「いやいや、それは辻崎もな⁉ 俺だけじゃないだろ?」

「うーん? あたしが十なら、月村は百か千くらい顔赤くしてなかった?」


「そんなに赤くなってないから! 大体辻崎の赤い顔から百倍も赤くなるとか、どんだけ俺の顔赤くなれるんだよ」

「あはははは! 確かに!」


 辻崎はケラケラと楽し気に笑っていた。それから「でも」とセリフを続けて、


「これでお相子だねっ」


 辻崎は、にまっと効果音の付きそうな笑顔を俺に向けた。

 確かあの時は、俺が手当する側だったっけ。

 保健室に先生も他の生徒も居なくて、本当に応急処置だった。


「お相子っていうか、恩を仇で返すっていうか……。あの時の俺は、辻崎の捻挫をぐりぐりなんてしなかったのになぁ……」


「ふふっ。……そういえば、あたし、あの時から意識してたのかもね、月村のこと」


「!」


 は⁉ なんで急にそういう話になるんだ?

 意識してたとか言われると、前に公園で告白された時の事を思い出してしまう。


 辻崎は今、わざとそういう話に持っていこうとしていたのか?

 そんな話の流れを作って、一体どうしようっていうんだ⁉


 俺が疑いの目を辻崎に向けるも、彼女はどこか違う方向に目を向けていた。

 けれどその顔は、恥ずかしさで少し赤くなっているようだった。


「意識してた」という単語と、辻崎の表情のせいで、急に俺まで恥ずかしくなってくる。

 その気持ちを紛らわせるために、俺は慌てて別の話題を切り出した。


「そ、そういえばさ! 辻崎!」

「え?」

「前から気になってた事があるんだよ」

「何?」


 この質問で、お互いの恥じらいの熱を鎮めよう。それが一番良い選択だ。

 そう思い、俺は辻崎に質問した。


「辻崎って、どうして自転車通学なんだ?」

「……!」


 俺の質問に、少しの間辻崎の表情は固まっていた。

 ……え? あれ? これそんなに変な質問だった?


「……」


 待って? 本当にずっと沈黙している。

 とりあえず、俺も仕方なく黙り込む事にした。


 でも、なんなんだ? これは何か地雷だったのか?

 よくある軽い世間話の一つ、くらいにしか捉えてなかったんだけど。


「――どうしてって、何で?」


 俺が少し心配になっていると、ようやく重たかった辻崎の口が開いた。

 よかった。何か上の空だったとか、眠かったとか、そういう別の理由だったのかもしれない。


「ほら、降旗は電車で通学してるじゃん? 辻崎も、家が三條駅に近いなら電車通学の方が楽じゃない? ここから自転車で高校までって、結構だるいと思うし」


「……」


 またしても辻崎は閉口した。

 え、どういう事なんだろう。


 俺はさっぱり意味がわからなかった。よほど複雑な家庭事情が理由だったのか……? それなら申し訳ない事したな……。


 ラグの上で膝を抱えるようにして座っている辻崎は、何を思ったのか、ゆっくりとその場に立ち上がった。


「ねぇ……そ、その……実は、月村にお願いがあるんだけどさ」

「……?」


 お願い? どういう事なのか、さっぱり話の流れが読めない。

 まぁでも叶えてあげられるお願いなら、叶えてあげたいけど。

 それから辻崎は、俺に背中を向けた。


「……」

「?」


 何か言うのをためらっているのか、背を向けたまま、またしてもやや沈黙が挟まる。

 ソファに腰かけていた俺の目の前で、辻崎が背を向けて立っている状態が続く。


 ライトブラウンのミディアムサイズボブカット。白のTシャツ。青のダメージジーンズ。


 こうして見ると後ろ姿でもその魅力的な身体付きがわかるな……うわ、お尻の辺りなんか良い感じにむっちりしてて、もうもう、あんなの……。


 いやいや! あんまりジロジロ見ないでおこう。俺のこういう悪癖はなんとかしないと。

 俺が自分の悪癖を振り払っていると、ついに辻崎は沈黙を破ったのだった。


「あ、あたしの……お……お、お尻を触ってほしいの……」


「は⁉」


 聞き間違えか? お尻を、なんだって……?



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 七月下旬。夏休みに入って間もないある日。

 この日一日の流れを整理してみよう。


 朝、降旗に呼び出されてカラオケ屋まで行く事になり、その道中の公園で辻崎と遭遇。

 何やら泣いていて訳あり顔だったのでカラオケはキャンセルし、急遽辻崎の話を聞く。


 成り行きで川瀬を呼び出すも、後ろからイケメン二人がやってきて、五人と乱闘。

 乱闘にあえなく敗北した俺は、負傷した身体を手当するために辻崎家へ招かれる。

 辻崎の部屋で手当が済んだかと思えば、お尻を触ってほしいと頼まれる。(※今ここ)


 どういう事? どこの分岐からこのルートに辿り着く事になっていた? どんなエロゲ?

 あらすじっぽく今日の流れを振り返ったけど、まるで原因がわからない。


 どこにそんなトリガーが?

 なぜか、俺の目の前には、背中を向けた辻崎ゆずがいる。


 いつもの明るい髪色は、今日も元気にゆるく内側に巻いている。

 白いTシャツとダメージジーンズも、後ろ姿ながらに大変よくお似合いだ。


 彼女は顔もかなり可愛い部類だし、ファッションセンスも一部の方面で的確に需要を満たしている。性格だってまぁ馴染みやすいというか、気さくで親しみやすいタイプだ。


 そんな彼女が、どうして俺にお尻を触ってほしいなんて痴女めいた事を言っているんだ?

 よし。状況の整理が完了して、俺は心を無事に落ち着かせる事ができた。

 そして、しっかりと質問してみる事にした。件の発言について。


「あの……辻崎? どういう事なんだ? お、お尻だなんて」

「……」


 辻崎は背を向けた体勢から九十度ほど向きを変え、俺に対して横向きになる。

 それから、恥ずかしそうに訥々と話し始めた。


「じ、実はさ……じ、自転車の話とも関係するんだけどぉ……」

「自転車?」


 ああ、そうか!

 そうだった。俺はさっき、自転車通学について質問したはずだ。


 その後の辻崎のぶっ飛び過ぎた発言のせいで、それ以前の会話の記憶がかなりかき消されていたけど、今思い出した!


「自転車通学か! そうだ。ごめん、それでどうして自転車通学と関係があるんだ……?」


「あ、あたしね……前に、ちっ、痴漢に遭ったの‼ で、電車で‼」


「え……? えええっ⁉」


 辻崎は、少し震えながら衝撃的なその事実を打ち明けた。

 俺の目は点になり、しばらく開いた口が塞がらなかった。


「……痴漢⁉」


 無意識にその強烈な単語が俺の口から飛び出る。

 はっと気づいて、俺は自分の口元を手で抑えた。


 相変わらず辻崎は顔を赤くして、横向きになっていた。


 辻崎が痴漢被害⁉ まぁ確かに胸も大きいし、出るところは出てるから狙う奴もいる……のか⁉


 以前ネットニュースか何かで、痴漢は地味目な見た目の、それこそ眼鏡をかけていた頃の伊十峯みたいな女の子を狙うだとか、派手なギャル系は避けるとか、そんな情報を見聞きしたんだけどな。

 あれは眉唾物だったのか。

 それにここ田舎町だし……。痴漢て、都会にしかいない物だと思ってた。


 俺が困惑の色を隠せずにいると、辻崎は肩を小刻みにプルプルと震わせて続きを話した。


「に、二年に上がる前、一度、ち、痴漢に遭ったんだよ……。それから、電車に乗るのはなるべく控えるようにしてて……」


「……そ、そうだったのか」


 なるほど。確かに自転車通学なら、痴漢される心配はない。

 片道三十分掛かるのだとしても、その交通手段を選ぶ価値は十分あるのだろう。


 俺は辻崎本人じゃないし、ましてや彼女の痴漢被害の悩みと同じ悩みを抱える女子高生でもない。性別すらも違う。


 その選択が、どれくらいの不安や恐怖から弾き出されたものなのか、男子高校生の俺では所詮計り知れないものだ。


「そう……。それでね、しばらく男子と話すのも抵抗ある時があって……」

「……」

 俺はただ、辻崎の話に耳を傾ける事に集中していた。


「電車の中でさ……その、「されてる時」に、そばに居た男子生徒と目があったんだ」

「男子生徒……?」


「うん……。たぶん、上の学年の人。名前とかクラスはわからなかったんだけど……。で、その男子は、あたしがされてるのを一回見たはずなのに、見て見ぬふりしてたんだよね……」


 話の流れからか、辻崎の表情は、恥ずかしさよりも寂しさに移ろいでいったようだった。


「それでさ……男子って、大抵こんな人ばっかなんだろうなって思っちゃったの、あたし……。女子も似たようなものだけど。……誰かが辛い目にあってても、きっと自分に関係なきゃそれで良いって、無関心のまま静かにやり過ごすって。


 ……でもそれはそうじゃんか? だって他人だし、その人がどうなろうと、本当に痛くも痒くもない事でしょ? スルーして当然なんだけど……なんていうか……」


 辻崎の言う言葉には、色んな感情が含まれているようだった。

 痴漢の現場を見ておきながら、何もしてくれなかった男子への怒り。痴漢された事へのショックや悲しみ。


 周囲には他の大人だっていたはずだ。

 その大人が、一人も気付いていなかったなんて事はないんじゃないか?


 きっとその大人に対してだって、その男子への怒りと同じような感情や、呆れにも似た感情を抱いていたに違いなかった。


 それらが、今の辻崎の、この名付けようもない表情と感情を生んでいるんだろう。


「……でも二年になったらね……ちょっとマシっていうか、良いかもって思える男子が居たんだよね」


「……それが」

 俺は、公園での辻崎からの告白を思い出し、自分に指を差してみた。


「そ、そう。月村のことだよ? ……ふふっ」


 辻崎は、それから俺の顔を見て、ゆるりと微笑むような柔らかい表情を浮かべた。


「月村はあの時、伊十峯さんを救っただけじゃないんだよ?」


「……え?」


「あたしも、救われたの。あたしの気持ちも、救われたんだよ。……そんなつもりは無かったと思うんだけどさ。で、でも! だからこそ、あたしは月村の事を意識しだして、惹かれ始めたんだと思う……」


「……!」


 意識しだしたとか、惹かれ始めたとか、恥ずかしさに火を点ける言葉が多い。そのせいで俺の顔は次第に熱くなっていく。


 そんな熱くなってしまう顔はともかくとして、俺は、辻崎の一学期の頃の言動を思い返していた。


 言われてみれば、何かと辻崎に絡まれる事が多かった。

 でもそれは、伊十峯への後ろめたさが理由だとばかり思っていた。

 けど本当はそれだけじゃなくて、俺へのアプローチも兼ねていた……?


 俺はまだ、少しスッキリとしていなかった。

 そんな風に、救われる事なんてあるんだろうか。


 俺が伊十峯を助けた時の行動で、辻崎の中の意識が本当に変わっていたんだろうか。

 俺の頭の中で、そんな疑問がぐるぐると回る。


 そして同時に、伊十峯からの告白未遂の時に聞いた、あの言葉を思い出していた。



 ――月村君は、やっぱり周りの人を変えちゃう力があるんだよね。


 けれど、俺にそんな力があるとは思えない。


 伊十峯の言葉に俺の考えをぶつけるとしたら、それは「お前達に変わる力が元々あったからだ」と、そう言ってやりたい。


 大体、俺自身、自分の恋愛感情に決着をつけられずにいる。

 浮塚林檎の一件から、ずっとそうだ。

 自分が変われもしていないのに、周囲を変えちゃう力があるだなんて、本当に滑稽な話だ。


「そ、それでさ……あたし、男子とその……色々触れ合うのが、こ、ここ怖くなっちゃって……それで、前の彼氏とも別れたんだよ……」


「え⁉ そ、そうなのか⁉」


 男子と触れ合うのが怖いって、じゃあ俺にいじわるしてたのは⁉ 一体どういう事だったんだ……?

 辻崎の衝撃的な発言から、どんどん俺の中に疑問が浮かび上がってくる。


「うん……。肩を触ったりとかそのくらいは全然平気なんだけど、その……もっとくっついたりとか、そういうの……ダメになってて……。で、でも、月村と肩組んだことあったでしょ? あの時、月村だったら怖くない事に気付いたの!」


「そうなのか……?」


「うん……。だから……もっと知りたいの。……月村に、ど、どこまで触られて大丈夫なのかって‼」

「……」


 と、とりあえず、なんとなく事情は読めてきた。

 辻崎の事だから、自分でうじうじと考え、悩みに悩んでこういう結論に至ったんだろう。


 俺を小悪魔的な態度で責めていたのは、元々の性格に加え、自分に対する一種の荒療治とか、そんな意味合いがあったのかもしれない。


 責められている時の俺に、とてもそんな事情を察する余裕は無かったけど。

 それにしても……。


「だ、だからお願い……。まず、あたしのお尻を触ってみてほしいんだけど……」


 辻崎はまた顔を赤く染めて、そんなお願い事をつぶやくように言った。


「っ~!」


 いやいや! だからって展開おかしいだろ⁉


 風が吹けば桶屋が儲かる、とか、そんなことわざみたいな事が起きてる。

 自転車通学の理由聞いたら女子のお尻触れたとか、そんな話聞いた事ない。


 もしかして、またからかわれているだけ?

 前にスカートのたくし上げを寸止めされてからかわれたけど、あんな感じか?

 俺が触ろうとしたら、「変態じゃ~ん」みたいな寸止めが起きるのか?


 ……でも、痴漢に遭ったとか、男子にそれをスルーされたとか、すごくリアルな体験談のようだったし……。一応、自転車通学の理由も、痴漢のせいでって理由は筋が通っている気がするし。


 じゃあ俺が触るという荒療治も、おかしくない……?


 俺がそんな風に逡巡していると、


「――あ、ちょっと待って?」

「え?」


 辻崎は突然、何かを思いついたように、はっとして言った。


「もっと触られた事がわかるように、ジーンズじゃなくてスカートに履き替えるね! あっち向いてて?」


「ええ⁉」


 ちょっと⁉

 辻崎! さらに状況がおかしくなるような事しなくていいから!


 男子との接触を確かめるにしても、荒療治が過ぎると思うんだけど⁉

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