39 誘い水になってしまっていた?
「んあっ……」
俺はドキドキしながら、暗闇を前にして口を開いた。
たぶん、このくらいの大きさで開いていれば入れやすいはず?
よくよく考えてみたら、パクっと行くのは無理だ。
パクつくというより、俺が口をあんぐりとさせ、そこへ伊十峯がハヤシライスを入れるという形。
まさに餌を与えられる家畜の心だ。
俺が家畜というのはそこそこ不本意な気もするけれど、飼育員さんがこれだけ美少女なら、絵面は相当エロティックに仕上がっているはずだ。
……ふむふむ。
俺が受けで、伊十峯が攻め。
この構図は非常にSMらしいと言えばらしいのか?
というか、そもそも俺としては、普通に右手にスプーンを握らせてもらい、左手にハヤシライスの皿を持たせてくれるとばかり思っていたんだけど……。
どこでボタンを掛け違えたのか、まさかの「あーんっ♡」になるなんて!
そんな事を考えていると、ハヤシライスの美味しそうな香りと熱が、鼻先にまでやってきた。
お、おお!
まず下唇と下の前歯にスプーンの底面が触れて、そのままゆっくりと舌の上までスプーンが滑り込んでくる。
まだスプーンはハヤシライスの熱に侵されていないのか、触れるとひんやりしていた。
同時に、ハヤシライスが上唇の下を潜るようにして口内へ侵入。
そうして、頃合いを見計らい、俺は口を閉じた。
スプーンに乗せられていたハヤシライスを口内へ引きずり込み、反射的にそれを味わう。
「あっ……あ、はふっ、あふっ、あふいっ! ちょ、……」
ハヤシライスが……熱いな⁉
「あ、ごめんなさい! 月村君……。ちょ、ちょっと熱かったかもっ……」
暗くてもちろん俺には見えないけれど、たぶん伊十峯のことだ。
謝辞と共に頭を下げているんだと思う。
まぁ、ちょっと熱かっただけなんだけどな。
視界が遮られているせいか、舌先や口まで敏感になっているような気がした。
気をつけていないと、ついオーバーリアクションを取ってしまう。
五感が敏感になっているのは間違いないらしい。
「じゃ、じゃあ! こ、今度はちゃんと冷ましてから、口に持っていくね?」
「え? ああ、うん」
――カチャカチャカチャ。
「……っふ~……っふ~……」
あ、え? 待って⁉
もしかして今、俺が食べる予定のハヤシライスを、伊十峯が「ふー♡」で冷ましてくれているのか⁉
「あーんっ♡」だけじゃ飽き足らず「ふーふー」までやってくれているのか⁉
同い年の女子にこんな事してもらえる日が来るなんて……。
俺は今日が命日か⁉ まだ死にたくないよ⁉
「伊十峯……?」
「っふー……っふふぇ?」
っー! 「ふふぇ?」ってなんだよもう~!
可愛い声で「ふふぇ?」とか言っちゃダメだろ!
「ま、待ってね? はい、あ……あ……あーんっ!」
「ん……んあっ……」
戸惑いなのか、「あ」が連呼される。ちょっとしたフェイントっぽかった。
第二の「あーんっ♡」に、また口をがぱっと開く。
「はむっ……んぐっ、はふっ……んぐっ……っあ、おお、美味しい! かなり美味しいよ、伊十峯!」
伊十峯の作ったハヤシライスが、また口いっぱいに広がる。
ハヤシライスってこんなに奥深い味だったっけ⁉ 本当に芳醇で、こくがあって、豊かな味だ。
そう思わずにはいられないほど、目隠しハヤシライスは絶妙な味わいだった。
「ふふっ。美味しい? よかった~!」
伊十峯の声が聞こえる。
味に安堵しているというよりは、この特殊なプレイでもちゃんと味わってもらえている事にほっとしているようだった。感想の用意とか必要なかったな。
「じゃあ、今度は少し焦らしてみるね?」
「え?」
「はい、あ、あーんっ」
「んあっ……」
伊十峯は少しずつだけれど、「あーんっ」に抵抗を持たなくなってきているようだった。
でも今「焦らしてみるね」って言ったよな? どういうつもりだろう。
「……ふ、ふぁひ? ……ふ……ひぃとみね?」
「はい……もうちょっとだよ? 月村君……んっ……ほら……もうちょっと……だから」
そう言って、伊十峯は俺の口の中に入れかけたハヤシライスを、少し手前に逃がしていった。
ああ! 待って。待ってよ。……離れていかないで!
焦らすって、こういう事か!
「はーい……ほら……あとちょっと……あと少しで、食べられるから、がんばろ? ……もうちょっとなの……がんばって! 月村君!」
「あ……あっふっ……ひ、あふわぁは……」
唇に触れているスプーンを頼りに、俺はハヤシライスを食べようとした。
そうすると、伊十峯はすかさずスプーンを手前にずらし、俺が全部食べられないようにする。
俺はまた、スプーンをくわえ込もうとして口を寄せる。
そんなつかず離れずを繰り返しながら、俺は魚のように口をあっぷあっぷさせていた。
「ああっ! あ……あふ……あふふっ」
「ふふっ……月村君、楽しそう……」
ああっ! この不思議な背徳感はなんなんだ?
してはいけない事をさせられているような……。
あとちょっとで食べられるのに、あとちょっとの所で届かない!
……じれったい! でも心臓の鼓動は速くなっていて、うるさくてたまらない……。
「はいっ、終わり! じゃあ、月村君どうぞ!」
そう言って、伊十峯がハヤシライスを俺に食べさせた。
「あっ……もご……んぐ……ん、っはー……」
「美味しい?」
「あ、ああ……なんだかよくわからないけど、すっごく味は美味しかった!」
「ほんと? よかったぁ!」
伊十峯の安堵する声を再び聞きつつも、俺は一つ気付いた事があった。
先ほどまで俺を焦らしていた伊十峯は、普段の伊十峯とは少し違う。
どちらかといえば、ASMR配信でしゃべっている時の伊十峯。まさにそのものだったような気がする。というか、少し性格が変わっていたような……?
その性格も結構いいなとか思っちゃう俺がいたけども。
俺が目隠ししているからなのか?
相手に見られていなければ、ASMRの生音声も大丈夫だって前に言っていたし。
まぁあの時は失敗しちゃったからな。
あの生音声をやろうとした時も、もしかしたら今のように、ややSっ気のある伊十峯が露呈していたのかもしれない。
「ところで、伊十峯の言う通り、本当に食感というか味覚が鋭くなった気がするよ」
「え? ほんとに?」
「ああ。ハヤシライスって、こんなに味の層というか、広がりがあるんだなって気付かされた!」
「あ、そういう感じなんだ! へぇ~……楽しそうだね。ちょっと、羨ましい……」
「!」
なぜか、伊十峯が俺の立場を羨ましがっていた。
この、ネクタイで視界を遮られている立場が、果たして本当に羨ましいんだろうか?
変態の極致みたいな格好なんだけどな?
よく一線を越えるとかって性的表現があるけど、越える線間違えてる感じなんだぞ?
……いや、おそらく伊十峯にとっては、本当に羨ましいと感じているんだ。
これは、興味本位や好奇心みたいなものだと思う。
なら、俺が言うべきこ言葉は一つしかない。
向けられた水にはちゃんと応えてあげないと。
「じゃあ、伊十峯もやってみる?」
「え? ……わ、わわ私も⁉」
――カチャカチャカチャカチャ。
俺からの提案に、伊十峯はかなり動揺しているようだった。
すくい上げもしないのにスプーンを延々いじっている音が聞こえる。
伊十峯、俺に水を向けておいてそれはないんじゃないか?
……ん?
もしかして、俺の言った感想自体が、誘い水になってしまっていた……?
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
俺が目隠しを外してみると、自分のハヤシライスはもうほぼ残っていなかった。
あの会話のあと「まだ食べきってないから」という理由で話を先延ばしにされていたけど、いよいよもう全て食べきってしまったのである。
「ああ、なんだか部屋がまぶしいな……」
ようやく目隠しから解放された俺は、やや強めに瞬きをしていた。
じっくり瞬きしてみても、まだ少し目は慣れない。
目隠しの最中は、本当にずっと鼓動が高鳴っていた。
あの奇妙なドキドキ感は一体なんだったんだ? いわゆる一種のマゾヒズム?
だとすれば、初体験だったかも……。
「目が暗闇に慣れてたから、それでまぶしいのかも?」
「ああ。たぶん、そうだと思う」
「結構長かったもんね……」
伊十峯は少しだけ微笑んでいた。
けれどその後、俺の手に握られていたネクタイの方を見やった。
ふむ。
このネクタイで……今度は伊十峯の目を塞ぐという話になっていたわけだが、本当にやってしまっていいのか⁉
「じゃ、じゃあ……お、お願いしますっ!」
「本当にいいんだよな? 伊十峯?」
「うん! ……わ、私も……ちょっと興味が……」
っく~! そんな恥じらいながら、なんて事を言ってるんだ伊十峯!
言ってる内容が内容だから、聞いてて俺まで恥ずかしくなってくる。
「い、いくよ……」
「うん……」
お互いに、生唾を呑み込む音が聞こえたような気がした。
攻守交替とのことだ。
伊十峯はクッションの上でぺたん座りをしていたので、その後ろに俺が立つ。
ゆっくりと腰を下ろすと、伊十峯の象徴とも言えるロングストレートの黒髪が眼前にくる。
ああ! シャンプーなんだろうけど、やっぱり髪から良い香りがする!
さて、気を取り直して。
本当にいいんだよな、伊十峯? もう後戻りできないからな?




