37 「空気」が可愛い!
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『初めてのSMは身体に聞こう! ~気持ち良くなっちゃう人体の不思議!~』
大変率直でいかがわしさ満載なタイトル。
そんなタイトルの本を、俺は手にしていた。
頭が一瞬で真っ白になる。
待て待て待て。
おい、一旦待って。
俺は一度、ゆっくりとカバーを閉じた。深呼吸だ。
これは何かの間違いかな?
というか、俺が誤読しているだけという可能性もまだある。
そうだそうだ! もしかしたら本当は、
『初めてのASMRは身体に聞こう! ~気持ち良くなっちゃう人体の不思議!~』
これだ! 本当はこっち!
これしかない。これを単に読み間違えていたんだ。
うんうん。なら納得だ。
伊十峯といえばASMR。ASMRといえば伊十峯。
イコールで結ばれていると言っても過言ではないほどだ。
だから俺が、単語の両端にあるAとRを、読み飛ばしてしまっただけに違いない。
心なしか、副題もASMRで意味が通る気がする。
だから落ち着け俺。
さてさて、もう一度開いて、この本のタイトルを読んでみようじゃないか。
『初めてのSMは身体に聞こう! ~気持ち良くなっちゃう人体の不思議!~』
「……」
んダメかぁ……。
全く、読み間違えてなどいない。
ちゃんとSMについて、身体に聞いてみよっか♪ と軽いノリで提案している。
毅然とした様子で文字も印字されている。
「S」のフォントが鞭みたいにしなってる。鞭フォントだ。そんなものあるのか知らないけど。
伊十峯がSMだって? まさかご冗談を!
SMですよ? スーパーマーケットの事でした。とかそういうオチじゃないのか?
『初めてのスーパーマーケットは身体に聞こう!』
いや尚更意味不明だ。身体に聞いてどうする。
ん? 待てよ?
これを本当に伊十峯が読んでいたんだとしたら……。
学校で俺が、
「おはよう伊十峯~」って気軽に声かけた時とか――。
「今日、教科書忘れてきちゃってさー」なんて話しかけてた休み時間とか――。
「何読んでるんだ?」って本のタイトル尋ねた時とか――。
そういう時、いつも何気なく伊十峯が開いていた本は、SMの本だったってことか⁉
待って待って。さすがにそれはないだろ⁉
いつも読んでた。は無い! うん、さすがに! さすがに無い‼
よしんばそうだとしたら、すごい肝の据わりようだ。
天下無敵のギャル軍団より、よっぽど天下無敵。
というか、言ってやりたい四字熟語としては「安全第一」だ。SMで天下無敵になってどうする。
……待てよ? え、じゃあ最近伊十峯が「変わりたい」と思ってたのって、そっち方面でもアクティブに変貌していきたいとか、そういうダブルミーニングだったって事か⁉
「月村君……。私ね、同時進行で性的趣向も変えたいの……。だからお願い! 一緒にやってみよ……?」みたいなアブノーマル展開が、これから乞うご期待になってたっていうのか?
待ってくれ伊十峯。俺まだ全然ついていける気しねぇよ。
俺、何も知らずにこの部屋に入っちゃったけど、大丈夫かな? なんか指先震えてきたよ。どこかにロウソクとか手錠とか革パドルとか、実は隠されてるんじゃないだろうな……?
俺にだって心の準備ってものが……。いや準備っていうか。うん。もうなんか違くね?
などと心の声を列挙していた、その時。
――ガチャ。
部屋の扉が開けられた。
「月村君、おまたせ! ご飯できたよ!」
「わわわぁっとぉぉぉー‼」
――バタバタバタッ。
突然の伊十峯の声に驚き、俺は思わず本をベッドの上へ放り投げてしまった!
「ああっ!」
「え?」
――バフッ。
投げられた本は、ベッドの上のふわふわな毛布の上に不時着した。
「あ、あれは違うんだよ伊十峯!」
「……?」
伊十峯は手料理の乗ったトレーをテーブルの上に置き、俺が投げてしまった本の方へ向かっていった。
ブックカバーがしてあるので、パッと見はそれほど問題無いが……。
しかしあの本の中身はSMだ! やめるんだ伊十峯!
俺にはまだ心の準備が! まだノーマルへの未練が!
「……」
伊十峯は冷静にベッドの上の本を拾い上げ、念のためなのか本の中身を確認する。
ブックカバーが掛けてあったのはこれ一冊だけなので、すでに中身はわかってそうな気もしたけど……。
そして、
「こ、こここれ……‼」
「本当にごめん! 伊十峯‼ 何となく棚を眺めてたらカバーが掛けてあるの見つけて、……み、見たら悪いってわかってたんだけど、どうしても気になっちゃったんだ! 本当にごめん‼」
膝をついていた体勢だった事もあり、俺は勢いよく土下座した。
フローリングの上に敷かれていたピンクの可愛いラグの感触が、しっとりと手のひらに伝わる。
「う、ううん……いいの! で、でも、これは違うんだよ⁉ 私にこういう趣味があるわけじゃないの! その、よ、読んだりは確かにす、するんだけどね⁉ でも読むだけっていうか……。これは資料なの! 資料の一環で読んでただけ!」
「資料……?」
俺はそう質問しながら、土下座の体勢からゆっくりと顔を上げた。
目の前に立っていた伊十峯は、羞恥心で顔を真っ赤にしていた。
冷房が効いているのに、それじゃ間に合わないといった紅潮具合だ。
「そうなの……ASMRの資料なの!」
拾い上げた本を、伊十峯は抱きしめるように両腕で抱えていた。
「ASMRの……資料?」
それから伊十峯は、焦る気持ちを落ち着かせるように、ゆっくり事情を説明してくれた。
「そうなの! 本当だよ? あの、ASMRって、耳とかそういう所を責めたりするでしょ? だから、こう、責め方とか、焦らし方みたいなのを……その……この……え、えす……え、え……む……とかから学べて……」
どうやら本当にASMRのために買っていた本らしい。
けれど、SMという単語を口にするのがあまりにも恥ずかしいからなのか、伊十峯は顔を上げられないようだった。
ストレートな黒髪が、肩からはらりと落ちる。
右手で左肘の辺りを触っているけれど、癖なんだろうか。そんな仕草をすると、華奢な身体とボリューミーなその胸が、右腕のせいで強調されて……ああ、もう!
可愛いすぎる……。本当にもう、こういう仕草の端々が切なさや愛しさの引き金になる。
思わず抱きしめたくなる衝動に駆られる。伊十峯のせいです。
今気づいたけど、この衝動は本当に危ない。
「し、資料ならいいじゃん? じゃあ俺は気にしない。伊十峯も気にしない! これでいいんじゃないか?」
もうこうなったら吹っ切れた方がいい。
俺は気持ちを割り切り、せめて伊十峯が恥ずかしくならないよう、いつも通り接するまでだ。
「う、うん……そ、そうだよね? 月村君の前で恥ずかしがるなんて……今更変だよね? ふふっ」
「ああ、そうだよ。俺も少し驚いたけど、資料だって聞いたら腑に落ちたよ。そ、そのエ、SMの事は俺もよく知らないけど、責め方がどうとかって話になるなら、ASMRも変わんないのかなって気がするし! すごく納得した!」
納得したってはっきり言ってしまうのも、本来は変なのかも……?
もう何が正しくて何が怪しいのか、俺達は境界線を見失ってる気がする。
「結構、実践的な事が書いてあるの? その本」
正直、本の内容に触れていいのかも微妙なラインだけど。
「うん、そうなの! すごく参考になるんだよ? そういえば月村君て、ASMRはどういう体勢で視聴してるの?」
とても自然な流れで、伊十峯から質問が投げかけられた。
「え、大体ベッドで横になりながらかな?」
「そうだよね。たぶん、他の視聴してる人も皆そうだけど、きっと部屋の電気も消してると思うの! この本に書いてあったんだけど、視覚を奪われると、他の感覚がどんどん澄んでいって、敏感になっちゃうんだって!」
「びんっ……!」
伊十峯に「敏感」って言われると、やけにドキッとするな。
なんだこれ。心臓に悪い……。敏感だなんて、言っちゃいけませんよ。
「へぇー。そういうテクニックとか、コツみたいな事も書いてあるんだ」
「そう! 責める時のコツはね、状況をただ細かく説明するだけでいいとか! そういう、簡潔だけど的確な要点が書いてあるんだよね。それがすごく参考になるの」
「責める時は状況を細かく?」
「うん。……例えばだけど、耳に炭酸水を流すのも、シャンプーをするのも、耳かきをするのも、ちゃんとこれから自分が行なう事を声に出して、相手に言うの。セリフはそれで良くって、あとは自分で抑揚つけたり、言い方をアレンジするだけ!」
「ああ、そういう事か! 確かに言われてみると、ASMRの時の言葉ってそんな感じだよなぁ~」
「ふふっ、そうなんだよね! 他の配信者さんの配信を視聴してる時に、この本のコツを思い出したりすると、すっごく当てはまるところが多くて――」
伊十峯はASMRについて話し続けた。
前来た時と同じか、それ以上に楽しそうで。
あの時は、配信環境についての話だった気がする。
シャンプーの液をボウルの中で泡立てたりとか、配信中に伊十峯が実際に行なっている事。
自分がやっていて楽しい事を、誰かと話せて嬉しいんだ。
この、楽しげに話している時の伊十峯が、やっぱり俺には一番魅力的に映る。
おそらく眼鏡を掛けていても、それは揺るがない。
見た目じゃなくて、発している「空気」が可愛いんだと思う。




