36 パンドラの箱
「ふふっ。ほら、これなんだけど!」
そう言って、伊十峯はソファの横からダンボール箱を取り出した。
中身は入っていない。空っぽのダンボール箱だ。
無論、二か所ほど見覚えのある穴がある。それを開けたのは前回の俺だ。
「え、もしかして……」
「そう! 前、私が上手くできなかったから……。月村君、これやってみたかったんだよね?」
伊十峯⁉ やってみたかったっていうか、ダンボールはちょっと違うけどね⁉
俺はただ、ASMRの生音声を聴いてみたかっただけだ。
ダンボールを被る変態性は、持ち合わせて無かったんだけど⁉
「……あっ、あんまりやりたくない?」
極限の質問。これはひょっとして、今更変態性の露見を恐れるなという圧ですか?
ダンボールを被り、穴から伊十峯に囁いてもらうプレイ。
うーん……改めて思う。このプレイは真の変態っぽくてハードルが高いっ……!
俺のレベルを上げようっていうのか? そうなんだな? 何を考えてるんだ伊十峯!
「……い、嫌……だった?」
お礼ができないとわかり、伊十峯はひどく残念そうだった。
ああ! そんな顔しないでください。落ち込む顔まで可愛いとかずるい……。
ええい、もうどうにでもなれっ!
「……や、やる! やります! やらせてください!」
「ほんと? よかったぁ~!」
俺の返事にとても喜ぶ伊十峯だった。
よかったぁって反応も、それはそれでどうなんだ?
これ伊十峯もそこそこ変態だよな⁉
「じゃ、じゃあ被ります!」
俺が意を決して宣言した直後。
――ぐぅぅ~。
おかしなタイミングで、俺のお腹が鳴ってしまった。
「……あ」
「……あっ。そうだよね! そういえばお昼食べてないよね、私達。あははっ!」
伊十峯は軽やかに笑っていた。表情が豊かで、綺麗な頬をくにゅりと曲げている。
伊十峯の部屋という事で、伊十峯自身、肩ひじ張らずに居られるのだろう。
もしくは話し相手が俺だからとか……いや、さすがにそれは自惚れですか……?
伊十峯にいつかそんな事を聞いてみたい。けどやっぱり気持ち悪い質問だよな……?
気持ち悪いな、やめやめ。
「あ、月村君。……お礼って事で、お昼ご飯をご馳走するっていうのは……だめ?」
「えっ!」
伊十峯の提案に、思わずソファから身を乗り出してしまいそうになる。
伊十峯の手料理だって⁉ うわー食べてみたいっ!
何作るんだろ? ていうか、何作れるんだろう?
全然予想つかないけど、わくわくしている俺がいる。
「いいのか? というか、伊十峯って普段料理とかする人?」
「するよ? 一学期、お昼のお弁当は全部自分で作ってたの!」
「おっ、じゃあこれは期待大ですね」
「ふふっ♪ じゃあ、腕によりをかけます!」
「よろしくお願いします!」
伊十峯はご機嫌なようだった。
喫茶店でのテンションはどこへやら。
やる気になっている伊十峯の姿を見ると、なんだか俺まで元気になってくる。
「何作るの?」
「それは……内緒っ! あ、でも月村君……その、アレルギーとか苦手な食べ物とかあるの?」
「特にアレルギーは無いけど、実はセロリとか春菊とか、そういう薬っぽい味のする野菜が苦手で……」
「あ、そうなんだね! じゃあ、その辺りだけ気をつけて作るね!」
「あ、ありがとう伊十峯!」
そう言って、伊十峯は自分のそばに置いていたトレーを持ち、部屋を出ていった。
去り際、伊十峯はニコッと微笑んでいた。添えるように手とか振っちゃったりしていた。
ロングストレートの黒髪も少しなびいていた。
うん……。なんかすごく良い。
今のやり取り……すごく良い!
というかクラスメイトに手料理作ってもらうの、俺初めてだな……。
うわ、意識したら余計にまたドキドキしてきた。
ど、どうすればいいんだ?
食べたら、ちゃんと味の感想とか言わないとだよな?
いやいや、俺そんな食レポとかできるほどボキャブラリー豊富じゃないんだが⁉
それにキャベツとレタスの区別もはっきりしてないような俺だぞ⁉
あ、でも下手に、隠し味がなんたらで~とか食通ぶるより、普通に上手い! みたいな感想の方がマシ……?
うーん……ああ、もう! 一体どうすればいいんだ⁉
うわーん! ていうかせめて何を作るのか、教えてから出てってくれよ伊十峯ぇー!
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
心の準備。そんなものは無い。
いきなり手料理を振る舞ってくれるとか言うんだもの。準備できるわけないよね。
そんなわけで、俺は現在、夢系女子の部屋で一人猛烈に悩んでいます。
伊十峯が出てってから十分くらい経過している。
読書家の伊十峯らしく、部屋に白い本棚があった。俺は本当に何気なく、その本棚に目を向けていた。
そういえば、伊十峯ってどんな本を読むんだろう?
ふと、そんな疑問が俺の頭の中に浮かんできていた。
俺は、伊十峯のお家にお邪魔するくらいには仲良くなっているけれど、彼女が一体どんな本を読むのか、まだそれさえ知らなかった。
別にそれを知ったからどうという事もないんだけど。
ただ本当に偶然、その時は棚に目がいったのである。
「……小説だけかと思ったけど、占いとかそういうのも読むんだな伊十峯」
きちっと並べられた本の背表紙を、端から順番に見ていく。
伊十峯が学校で本を読んでいる時は、いつもその本にブックカバーが掛けられていたからな。
どんな本を読んでいるのか、実は少しだけ気になっていた。
ミステリー小説。恋愛小説。
タロットカードの入門書に、六星占術決定版……。
ひと昔前に映画化して話題になった作品の原作小説もあれば、俺には縁遠い趣味の本も並んでいる。
なんだか色々だな。いわゆる雑食?
本が好きな人なら、こういう本棚を見て、所有者の性格診断みたいな事が出来ると聞いたことがある。しかし残念ながら、俺にその界隈の知識はない。
そんな風に、棚を一通り見て終わろうとしていた。まさにそんな時だった。
「……ん? 一冊だけブックカバーを付けたままの本があるな……」
外し忘れ?
一体どんな本なのだろうと思い、俺はその本を本棚から抜き取ろうとした。
抜き取る寸前、俺の手がぴたりと止まる。
――いや、待て待て?
さすがにこれ、勝手に触らない方がいいか⁉
伊十峯には伊十峯のプライバシーってものがある。
俺が勝手に抜き取って確認するのは、そのプライバシーを侵害する行為だよな?
俺が一番、自分にされたくない行為だ。
それを伊十峯にやってしまうのか……?
「……」
あーっ! でも気になるっ!
何を読んでいるか気になるというより、ブックカバーで何を隠しているのか、が気になる。
隠されているからこそ、気になる。
開けるなと言われれば気になる、いわゆるパンドラの箱だ。
けど、料理が完成するまでまだ時間はあるだろうし、それまで伊十峯はここへ戻ってこないはずだ。
それを考えれば、カバーを外さず読む事くらい容易い。
大抵の本は、一ページ目の扉にタイトルが書かれている。
それをちょこっとだけ読む……それくらいなら気付かれずにできるはずだ。
「……」
ごめん! 伊十峯!
今回だけ! 今回だけだから!
俺は本棚の前で仰々しく正座をして、パンっと両手を合わせた。
自分の欲望に負けた、そんな俺にできる最低限の礼儀である。
伊十峯、許してくれ!
ブックカバーが掛けられたその本の背表紙に指をかけ、スッと棚から抜き取る。
バックバックと鳴る鼓動を抑え付け、ゆっくりとカバーを開く。
そして、扉の一ページに目を向ける。
「……え?」
そこに書かれていたタイトルは、あまりにも予想外なものだった。
普段の伊十峯のイメージからはとても想像できない……いや、できなくもないのか?
これはどういう事なんだ? 教えてくれ伊十峯……。




