35 どっちがいい?
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
も、もっと⁉ そんな大胆な事を……!
伊十峯、いよいよこの夏の暑さでのぼせてしまったのか⁉
「……」
少しの間、俺達は手を繋ぎ続けていた。
伊十峯の手は小さくて柔らかく、俺みたいな男のゴツゴツとした無骨な手とはだいぶ違う。
ぷにっとしていて、ふわっとしていて、手だけでもう可愛い。何これ。
手肌や指周り一つとっても、頼りないサイズ感と頼りたい温かみの二律背反をそこに宿していて、まるで違う摂理を渡ってきた生き物みたいだ。
くぅ~! けど、なんでだ⁉ どうしてこんな事になった?
一体こんな所で何を要求してんだ伊十峯!
「あの……ご、ごめんなさい! ……ちょっと、気持ちが落ち着かなくって……」
「そ、そうだったのか」
「うん。……月村君の手、握ってるとなんだか落ち着くような気がして」
「……え?」
それにしては一段と顔が赤いような……。
「え⁉ あ、ああ! 違うの! そ、そういう変な意味じゃないのよ⁉ 本当に! あの、よく、手とか握ってると落ち着くって言うでしょ⁉
あ、でも誰の手でもいいからってわけじゃなくて、月村君の手だからよくって……って何言ってるんだろ私! 手を握ると落ち着くって事が言いたいわけで! そ、そうなのっ! だから、こっ、こここれはそういう事でした!」
わわわっとまくし立てるように言ったかと思うと、伊十峯はすぐに俺の手を離した。
温かかった伊十峯の手が離れると、俺の手は軽くなったようだった。
夏真っ盛りだというのに、離れていった熱がもう恋しい。
ただ、握っていた感触はまだ空気に溶けていなかった。
ああ、気付いた事がある。
色んなものに触れられる人間の手だけれど、皮膚が一番強く記憶するのは誰か人間の手の感触なのかもしれないな。
「えっと……もう……今日は帰る……?」
「そうだね……。なんだか疲れちゃったかも」
「家まで送るよ」と俺が言うと、伊十峯は一度驚いたようだった。
けれどその直後、屈託のない笑顔を俺に見せてくれた。
ああ……やっぱりこの子、強敵です。
無自覚なんだろうけど、こんな風に不意に見せる笑顔が犯罪級に可愛い。
そんな風に思いました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
キノキノを出て、俺達は自転車で伊十峯の家に向かった。
到着する頃、時刻はもう午後一時を回りそうだった。
そういえば昼食を取り損ねていたな。色々あったから仕方ないけど……。
「月村君、上がっていく……?」
伊十峯が俺の目を見つめて質問する。
「え、でも悪くない?」
「だっ、大丈夫だよ。……それに、さっきお店で迷惑かけちゃったからお茶くらい出したいの……」
迷惑だなんて。
あれは全部、川瀬が原因だ。
川瀬が無意味に絡んでこなければ。
絡んだ上に、あんな罵詈雑言を浴びせてこなければ、俺だってあんな真似はしなかった。
でも大してキノキノのオリジナルコーヒーを飲めなかったから、実際喉はカラカラに乾いていた。
「じゃ、じゃあお茶もらおうかな……」
「うん……」
そんなわけで、俺は伊十峯の家に上がらせてもらう事にしたのだった。
二度目の伊十峯家。
白い外壁は相変わらずで、家の中も相変わらず小綺麗だった。
家の中は水を打ったような静けさに支配されていた。
「家の人は?」
「今日ね、皆居ないの」
「え……そうなのか? 小春さんとか、大学生で夏休み~みたいな感じじゃないのか?」
「うん。そうなんだけど、サークルの合宿なんだって。楽しそうだよね。ちょっと羨ましい。あははっ」
……そうなると、この家にいるのは俺と伊十峯だけ?
二人っきりか……!
状況を理解すると、一気に心臓の鼓動がうるさくなる。
バクバクとうるさくて、伊十峯に聞こえやしないか不安になる。
それからナチュラルに伊十峯の部屋へ通された。
やっぱり伊十峯の部屋は可愛らしい。
パステルカラー基調の夢系女子の部屋だった。
変更点があるとすれば、ASMRで使っていた伊十峯お手製のダンボールダミーヘッドマイクが見当たらない点だ。
その代わり、スタンドタイプのY字型バイノーラルマイクが目に入る。
デスクの上にちょこんっと乗せてある。
ピンクの可愛い奴。音森から譲ってもらった奴だ。
「適当に掛けて? お茶持ってくるから」
そう言って、伊十峯は部屋を出ていった。
「あ、ありがとう」
バタンッとドアを閉められ、伊十峯の部屋に俺は一人残された。
やはりこの部屋は落ち着けないです……。
エアコンが効いていて、前回来た時よりも快適だなとは思うけど……。
それでもきょろきょろと見渡してしまう。
デスク上のパソコンのすぐそばに、スマホスタンドがあった。
ああ、そういえばあそこに伊十峯のスマホが固定されて、俺がビデオ通話越しに着替えを覗き見てしまう。なんてハプニングもあったっけ――。
思い出に浸りつつ、俺はひとまずソファに腰を下ろした。
前にも触れた、手触りの良いソファだ。
そうこうしていると、ガチャリと音を立ててドアが開かれた。
「麦茶でいい?」
「うん。もう全然なんでも……」
伊十峯はトレーを持っていた。そこに麦茶の入れられたグラスが二つ乗っている。
伊十峯はそのお茶をテーブルに置きながら、ふと、こんな事を言った。
「……やっぱり、こんなコンタクトなんてダメだよね……」
「え?」
「お姉ちゃんに言われてしてみたけど、川瀬さんの言ってた事正しいと思う……。慣れない事なんて、するものじゃないって話だよね……」
「な、なんでそんな風に言うんだよ!」
「……!」
「そんな風にネガティブに考えるの、伊十峯の悪い癖だよ? 川瀬の言った事なんて気にする必要ないから! あれは嫉妬してたんだよ、嫉妬。その証拠に、最初は堤か誰かが褒めてただろ?」
「……」
伊十峯は静かにそのまま床に座り込んで、静かに口を開いた。
「……ねぇ、月村君」
「何?」
「つ……月村君は、どっちがいい?」
そう言って、伊十峯は俺の瞳をじっと見つめてきた。
それまでテーブルのグラスに向けられていた顔がこちらに向けられたので、その動きに合わせて伊十峯の長い黒髪が揺れる。
「どっち……」
「そう……。眼鏡とコンタクト。どっちがいい?」
眼鏡アリの伊十峯か? ナシの伊十峯か?
もちろんビジュアルで言ったらナシの伊十峯の方が可愛いけど、それはそれで川瀬みたいな奴も出てくる心配がある……のか?
ていうか、もしかして俺のこの意見次第で二学期どうしようとか決めちゃうのか⁉
いやいや、そういう事じゃないだろ俺!
伊十峯にとって、一番良い答えって何だ?
ちゃんと俺の感じてる答えを言って、伊十峯と誠実に向き合うべきなんじゃないのか⁉
「お、俺は、外したほうがいいと思う」
「そう……?」
「けど」
「……けど?」
「けど! それが本当に正しい答えなのかはわからない! 川瀬みたいに、ああいう反応をする奴だっているから、外すならそこで戦わなきゃいけないと思う。伊十峯に変わりたいって気持ちがあるなら、眼鏡はかけなくてもいいと思うけど、誰もがそれにうなずいてくれるわけじゃないから。そういうのって、心が強くないと難しいんじゃないかって……。俺はそう思ってるんだ」
「月村君……」
伊十峯小声は基本、内気な性格だ。
俺の前では普通に話しているけど、これだって、他のクラスメイトの前だとどこか遠慮しがちな所があって。
それはきっと、自分の「声」をからかわれた過去のせいだけじゃなくて、元々のそういう性格も影響しているんだと思う。
外見はその人の性格を映し出す鏡のような所があるから、外見で無理をすると、伊十峯の心への負担はどんどん増していくんじゃないかと思った。
「そ、そうだよね! ……月村君の言ってること、よくわかる気がする。だから前に、音森さんとのこと、褒めてくれてすごく嬉しかったの。
……私がASMRの事で、月村君以外の人とちゃんとお話できる時が来るなんて、思ってなかったから……。月村君は、たぶん周りの人を変えちゃう力があるんだよ。ふふっ」
伊十峯は笑みを含みながらそう言った。
そうだ。伊十峯は伊十峯で、小さな一歩を踏み出せていたんだと思う。
他の人にとっては取るに足らない事も、伊十峯にとってはどれくらい大きな一歩だったのかわからない。ASMRは、まだどこかアングラな香りに包まれた趣味だから。
それと最後の言葉を聞いて、俺は例の告白未遂の事を思い出してしまっていた。
俺自身、そんな特別な力みたいなものがあるだなんて、思ってもいないのに……。
あの未遂で終わった言葉の先がどんなものだったのか、つい想像してしまいそうになる。
「ねぇ、ところで月村君」
「え?」
「その……お返しというか、音森さんみたいに仲良くできる女の子ができた事を……その、お礼させてくれない?」
「お、お礼⁉ な、何するんだ?」




