31 面影ヒロイン
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ASMR。
聴覚や視覚への刺激で、人間があはんと感じたり、脳がぞわぞわと感じてしまう反応などのことをそう呼ぶ。
新潟県立鴨高校に通う高校二年の俺、月村つむぎは、そんなASMR音声をこよなく愛する変態リスナーだ。
同じクラスの伊十峯小声は、そんなASMRの音声を扱う人気配信者。
ひょんな事から俺はこの伊十峯と、ある種の運命共同体的な契約を交わしていたわけだが、前回の配信の最後に、俺は伊十峯に告白されかけた。
翌朝確認してみると、案の定その配信はアーカイブとして残されていなかった。
一緒に配信していたASMR初心者の音森の後学のためにも、それは消さないほうが良いような気もしたけど……。ただ、後半の言葉を思い返してみると、消さざるをえないんだろうな、と伊十峯の胸中を察した。
とりあえず俺は、寝落ちしていたせいで告白未遂を聴いてなかった事にしようと思った。
俺があそこで起きている事がはっきりしていたら、おそらく伊十峯は何も言わなかったはずだ。
そう思い返しながら、俺は身支度をしていた。
七月下旬。もう外ではうるさいくらいに蝉が鳴いていて、それが四六時中続く。
延々鳴いているものだから、鳴いているのか鳴いていないのかわからなくなるくらいだ。
たぶん蝉本人も、自分が何をしたいんだか、よくわからなくなってるんだと思う。
ところでなぜ俺が身支度をしているのかというと、それは無論外出の予定があったからだった。
実は、一学期の期末テストの点が芳しくなかった。
焦るような赤点すれすれの点数ではないにせよ、前回の定期テストよりもやや下がっていて気掛かりだった。
学校の勉強を疎かにしていた覚えはないが、何しろあの席だ。
目の前に、辻崎の甘い匂いのするミディアムボブカットの茶髪と、右に控えた運命共同体、伊十峯の存在のせいで、妙に集中力をかき乱される事がある。
その弊害が、じわりじわりと俺の点数に現れていたのかもしれない。
そうとわかれば、この夏休みの期間を利用して、ちょっと学力向上のために自主勉強しておいても良いだろう。
俺は学生。本分は勉強のはずだ。当校もご多分に漏れず、夏休みの宿題とかあるし。
俺は家に鍵をかけ、近くの図書館へと向かった。
両親は共に仕事へ出掛けていて、自室でゆっくり勉強できなくもなかったけれど、何しろ蝉がうるさい上、自室というのは誘惑が多い。漫画だのゲームだの自家発電だの、時間食い虫が至る所に潜んでいる。
よって、自室は勉強をする場所としての最適解ではない。
自転車に乗れば、約十五分ほどで到着する市立図書館がある。
あそこが最も勉強に適した場所だ。
教科書やノートといった勉強道具の他、イヤホン等をリュックに詰め込んで、俺は自分の家を後にした。
そんなわけで、俺は夏休み初日から近隣の市立図書館へと足を運んだのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
図書館の中は冷房がバッチリ効いていて、外との温度差でくしゃみが出そうなほどだった。
夏休みとあって、館内一階は小中学生で適度に混んでいた。
混んでいるとは言っても、大声で話すような迷惑な利用客は少なかった。
時たま、うわあああっと奇声を発する変態も居たが、所詮その程度でしかない。真の変態は静かにしているものだ。あれはまだ二流。
そんな風に思いながら、俺は二階にある学習スペースへと移動した。
一階は、小さな子供向けの絵本などの棚もあるため、比較的幼い年齢層やその保護者がその多く見受けられたけれど、二階のある一室に入るとその光景は一変。
利用客は主に高校生や大学生で、難しそうな教科書とノートを開きながら、椅子に糊付けされたかと思うほど席を立たない。
そうそうこれこれ。これが一流の変態だ。
二階の学習室は、本当に静謐を絵に描いたような空間だった。
はっきり言うと、室内はお通夜状態だった。
ペンをカリカリ走らす音や、ページをめくる音でさえ際立って響いている。
ワンランク上のステージに上がる者達が、度重なる自己満足と自己敬愛と自己研鑽の果てに行き着く終着点。そんな香りが漂っていた。
こんな空間で勉強を? と思うかもしれないが、事実ここは勉強に適している。
壁が分厚いのか、特殊な防音構造になっているのか、蝉の声も届かない。
ここでしか得られない「静けさ」という代物は、大切にしないと。
部屋の入口から見て一番奥に、オープン席ではない個室席が八席ほどある。
その席は特に集中できる席なので、朝から争奪戦が繰り広げられる。
まぁ、一階の小中学生の入りを見ればわかる通り、本日は朝からそれなりに混雑していて、この個室席はとっくのとうに埋まってしまっていた。
開館は午前九時。そして今が午前十一時。そりゃ埋まるよね。うん。
わかっていたけどね⁉ 念のため空いてるかも? って、そういう希望を捨てずに確認する事も大事だからね。わかっていたけど。
「はぁ……」
ため息をつき、肩を落とす。
仕方なく四人掛けのオープン席に座ったのだが、その席には既に先客さんがいた。
その先客さんの対角の席に座り、俺はリュックから勉強道具を取り出していた。
すると突然、その先客さんがおかしな事を言い始めた。
「あれ? 月村君もここで勉強?」
「……え?」
月村君? 聞き間違えじゃなければ、確かにその先客さんは俺の名前を正確に呼んでいた。
はっとして顔を上げる。
「……え、あの、すみません。俺の事知ってるんですか?」
絶世の、はさすがに言い過ぎにしても、かなりの美少女がそこに座っていた。
しっかりと毛先まで手入れされていそうな、艶やかな黒髪ストレート。ぱっちりと開かれた瞳。スッとひかれ整った鼻筋。あどけなくもぷるんとした唇。
こんな可愛い知り合い、俺にいたか……? いるなら覚えてそうなものだけど。
テーブル席で斜めに座っているので全身は見えないが、彼女はくすんだ青色の半袖フリルワンピースを着ていて、夏らしく落ち着いた清涼感に溢れていた。
「え? あ、私だよ。月村君!」
「ん……? え⁉ 伊十峯⁉」
俺は思わず大声をあげてしまった。
俺の声に反応して、他の利用者の視線が一気にこちらへ集まる。
「あ……あははー……すみませんすみません」
ぺこぺこと周囲に頭を下げつつも、驚愕の事実を未だに飲み込めない。
この美少女が伊十峯だって⁉ いやこんな風に言うと、伊十峯が美少女じゃないみたいに聞こえちゃうんだけど。「眼鏡がないだけ」なのに別人かと思った。
「……お、驚くのも無理ないよね」
伊十峯はこそこそと遠慮がちに会話を続けてきた。
「あ、ああ……」
「でも、まだ名前言ってないのによくわかったね? 最初気付かなかったのに」
「まぁ、それは……」
それは伊十峯の声が特徴的だったから、とは言えなかった。
事実はそうなんだけど、あまりに無神経かと思ってしまった。
伊十峯がコンプレックスに思っている声。そこに、俺が不用意に触れるのは良くないんじゃないかと。
「い、伊十峯の面影がちゃんとあるからな。眼鏡無しでも!」
「そう……?」
正直なところ、面影はあまりない。けど伊十峯は心なしか照れ臭そうだった。
ロングストレートの黒髪は確かにそのままだし、耳に残るその甘い声質は前と同じままだけど、それにしたって顔の印象ががらりと違うわけで。
でも本当にびっくりした。
眼鏡を外しただけで、ここまで印象って変わる物なんだな……。
黒縁眼鏡は、相当存在感が強かったのかもしれない。
「ちょっと向こうで話さないか?」
「え、うん!」
このワンランク上のステージで話すには、話したい事が多すぎた。
人目をはばかって、俺達は一度その部屋を抜け出した。
まだ全然勉強していないが、これは仕方ないだろう。




