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29 眠っていても構わない【第一章完結】


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 さて、そんなわけで、二人の女子から両耳をガンガン責められまくるという、かつてない快楽地獄は無事に幕を閉じた。


 音森のデビュー兼練習配信だったわけだが、時刻を確認すると、もう日を跨ぎそうな時刻になっていた。


 深夜零時少し手前。

 一通り伊十峯から音森へのレクチャーが済み、俺は快楽地獄の底へと堕ちていた。


 意識は、現実と夢の狭間を右往左往していた。

 けれど、イヤホンからこぼれ落ちてくる二人の会話は、妙にしっかりと聴き取れていた。


「じゃあ今日のところはこれで終わりにしよ? 音森さん」


「そうだね。月村の反応がどうだったのか私達からは確認できないけど、……たぶんこれは上手く行ってたんだよね?」


「うん! きっと良かったと思うよ! 今度月村君に感想聞いてみよ?」


「そうだね!」


 そんな感想求められても……。ひくひくしてたとしか言えません。いやそんな気持ち悪い感想、言えるわけがない。


「音森さん、そういえば今日はお母さんが迎えに来るんだっけ?」


「うん。これから連絡するよ。でも今日はありがと! 伊十峯さんのおかげで、やり方かなりわかった気がする! 実践的で助かったよ」


「ううん。……音森さんなら、たぶんすぐ慣れて、いっぱいファンの人がつくと思うの。だから大丈夫だよ! それよりよかったの? 新しいマイク、このまま譲ってくれるだなんて……」


「その話なら全然気にしなくていいよ? ちゃんと月村が条件満たしてくれればっ」


「そう……だよね。うん」


 ぼんやりと俺に聴こえてきていた二人の会話は、ここまでだった。

 それ以降も何か会話していたと思うが、いまいち覚えていなかった。


 俺は暗い自室の中、ベッドに横たわり続けていた。

 その後どれくらい時間がたったのかはわからない。たぶん二十分か、三十分か……。


 その間、閉じられたまぶたの裏側に、底の知れない暗闇がただ映り続けていた。

 いや、目を開けているのか、閉じているのかもわからなかった。


 ――もう配信は終わったのか?


 そんな疑問を持っても、両耳に刺したイヤホンを外すこともしなかった。

 外す事さえめんどうに感じていた。


 音のしなくなったイヤホンは、前々からのフィット感のせいもあり、もはや耳に刺しているのか抜け落ちているのかも怪しく感じられた。

 そんな時だった。


「……月村君」


 ん? あれ、まだ配信切れていなかったのか?

 うっすらと保たれていた俺の意識の中で、伊十峯の声が響いてきた。

 ASMR音声の時のような、とろけてしまう甘い声じゃなかった。


「もう音森さん帰ったよ」


 そうだ。やっぱり、学校で普段耳にする伊十峯の声だ。役状態の伊十峯じゃない。


 けれど俺は、この声が、果たして本当に伊十峯がしゃべっている声なのかわからなかった。夢の中で俺の意識が描き出しただけの、夢の中の伊十峯の声なのかもしれなかった。


 そしてどうやら、いつの間にか音森は帰ってしまったらしい。

 もうそんなに時間がたってしまっていたのか。


「月村君、もう寝ちゃったかな……?」


 その質問の意図が「私の声、届いてる?」という意図なのであれば、答えは一つだ。

 声は届いている。俺はまだ起きているぞ、伊十峯。


 けど半分は意識が眠気に沈んでいて、ぼんやりとしていて、スマホでコメントを打つのも難しい。


「寝ていても、きっと月村君の「耳」には私の声が届いてるんだよね……?」


 伊十峯は、俺に囁くようにして言った。右や左という偏りは感じられない。


「聞こえていても、聞こえていなくても、どっちでもいいんだけど。……というより、このくらい曖昧なほうが、私にはちょうどいいのかもしれないから」


 どうしたんだろう? 伊十峯は、何か改まって俺に言いたい事があるようだった。


 もうASMRの配信も無事に終わり、このまま配信終了となる運びのはずなのに、ここからまた何か考えていたのか?


 俺は、スピーカーの向こうにいる伊十峯の姿を思い浮かべた。


 眠気に襲われながらも、なんとか思い浮かべることができた。

 綺麗に手入れされている長い黒髪。スクエアタイプの黒縁眼鏡。

 ぱっちりとした瞳とあどけない口元も、俺の記憶の中で色濃く鮮明に思い描けていた。


「眠っていても構わないから、少しお話するね?」


 それから伊十峯は「すぅーっ」とひとつ呼吸を整えてから、改めて話し始めた。


「この前のテスト初日の昼休みに、中庭の石段のところでお話したの、覚えてる? あの時、最後まで言えなかったから、その時の続きみたいなことを話そうと思うの。少し長くなるかもしれないけど……。


 たぶん、月村君も知っていたと思うけど、私、高校生になってから、まともな人付き合いみたいなの、ずっとしてこなかったんだよね。……私は、誰とも仲良くなんてできないと思ってた。


 もちろん、この自分の声のせいもあるんだけど。性格のせいもあると思うの……。

 地味で、内気で。……話しかけるのが怖かったんだよ。

 誰かと面と向かって話すの、すごく怖がってたんだ。


 だからね、教室で他の子達を見ると、自分て全然ダメだなぁって、勝手に比べて卑屈になっちゃうところがあって……。声でからかわれたくないから、出来るだけしゃべらないようにしようと思っちゃって。

でもそしたら、川瀬さん達からきつく当たられたりとかもして……。すごい空回りだよね? こういうのって。ふふっ。自分でも笑っちゃうもん。


 ……でもね? そこで私の目の前に、すっごいかっこいい人が現れたんだよ。


 誰かわかる? ふふっ。……そう。月村君です! あははっ。


 私はあの時泣いてたから、何が起こったのかなんてよくわからなかったんだけど。

 でも川瀬さん達の反応で、なんとなく状況がわかったんだ。


 ああ、誰か助けてくれた人がいるんだって、思ったの。皆が見て見ぬ振りしちゃうところで、この人は平気で助けちゃうんだって。気まずくて関わりたくない空気に、構わず飛び込んできちゃう人がいるんだって。それが、月村君だったわけです!


 私がうじうじ悩んじゃうようなことも、月村君は軽々と飛び越えてっちゃうの!


 ふふっ。本当にかっこいい人だなぁって思ったよ。同じクラスに、こんなにかっこいい人いたんだ! って。


 そのあと、私がハンカチを返しにいったら、ASMRの事知ってて驚いたりもしたよ。


 あ、この人かっこいいのに、私の変な趣味のこと知ってる人なんだって。あはは!

 どこからバレちゃったの? っていう思いもあった。


 それで、自分の声がコンプレックスだって伝えたら、私の声をすっごく綺麗だよって褒めてくれたりして……。あははは! 本当に月村君は、私の悩み事を簡単に吹き飛ばしちゃうんだよね。


 学校の人に褒められたの、初めてだったんだよ? 月村君はやっぱり変わっています!


 それからどのくらいだっけ。……私が、月村君をこの部屋に呼んだの。


 男の子と仲良くなったのは初めてだったから、距離感がよくわからなくて。あの時は、あとからお姉ちゃんに色々聞かれちゃった。あははっ。


 でも全然嫌じゃなかったんだよね。月村君なら大丈夫だよきっとって、私の中で勝手に納得してて。


 でもね、その時くらいからだと思うんだけど、少しずつ違和感みたいなものが私の中に出てき始めたんだよ。……違和感? 違和感ていうのかな。よくわからないんだけど……。


 辻崎さんとか音森さんとか……月村君には月村君の人付き合いがあるのに、私はそういう女の子達と月村君の……その……付き合いに、どうしていいのかわからない気持ちを感じるようになっていったの……。


 月村君は、やっぱり周りの人を変えちゃう力があるんだよね。


 それがすごくかっこよくて、私もそこに救われたの……。


 ふふっ。この事に気付いているのが、私だけだといいなぁ。たぶん他の女の子達だって、きっと月村君にそんな力があることを、これから、なんとなくでも気付いていくと思う。


 だからせめて、皆が気付いてしまう前に……。


 月村君の素敵な部分を知っているのが、私だけのうちに……。


 月村君に届くかわからないこのマイクに向けて、今だけ本当の気持ちを言おうと思うの。


 私は……あの時からずっと……月村君のことが――



 ――ガチャッ。


「こごえー? まだ起きてるのー?」

「ひゃぁいっ! ……お、お姉ちゃんっ⁉」


「早く寝なよー? 夜ふかしはお肌に悪いんだぞ~?」

「わ、わかったから! ……もう! 勝手に入ってこないで――プツッ。


 伊十峯の声はそこで途絶えてしまった。


 最後の方で、どうやら伊十峯の部屋に小春さんが乱入してきたようだった。

 その乱入によって、音声を切らざるをえなかったらしい。


 スマホを確認していないけれど、たぶん配信は切られたんだと思う。

 配信終了の連絡は、そもそも寝落ち前提の配信のため、送られてこないだろう。


 自室の暗がりの中でベッドに横たわりながら、俺の目はぱっちりと開いてしまっていた。


 イヤホンのスピーカーの向こうで、伊十峯が自分の気持ちを淀みなく話していた事。


 その一言一句を漏らさずに聴いて、驚いたり関心したり、ツッコミを入れたりしながら、俺は彼女の感情を一緒になぞっていたような気がする。


 そして、小春さんが扉を開けて乱入してくる寸前。

 伊十峯が何を言おうとしていたのか、俺には汲み取ることができた。


 声に出されていない先の言葉を、俺はあたかも聴いてしまったかのようだった。


 それはまるで、予測変換されたものだった。

 まだエンターキーを押していない、未確定な言葉。


 けれど、俺はその言葉に感情を揺り動かされていた。


 その宙ぶらりんな感情が焦げ付いたまま、なぜか俺の頬は濡れていた。

※読んでいただいてありがとうございました。

 一応ここで第一巻(第一章)的な区切りになります。

 次のプロット作成中なので、出来次第そのうちまた更新します。

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