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11 箱男は変態だが

「――洗面ボウルは今一階にあるんだけど、その洗面ボウルをマイクに近づけて、そこでシャンプーの泡立った音とか手を使ってやってるの。慣れるまではすぐ手が痛くなったりとかしてね……」


「そういう事もあるんだなぁ~。……あ、そういえば伊十峯」


 伊十峯の話がひと段落したタイミングで、俺はちょっとした相談を持ち掛けてみる事にした。気持ち悪い相談だって自覚は十分あった。まぁこれはほんの気の緩みというか、思いつきだった。

 自室ゆえに気が緩む伊十峯の姿につられて、というもっともらしい理由を付けとこう。


「あのさ、今ここでちょっと、俺をそのダミーヘッドマイクだと思って……配信の時みたいにしゃべってみてくれない?」

「それは無理だよ! 無理無理無理っ! そ、そんなの絶対ダメ!」


 伊十峯は首をブンブン振りながら拒んだ。

 なんて反応速度だ。俺の気持ち悪い提案に食い気味でやってきた。

 やっぱりダメか……。気持ち悪いか……。


「そっ、そんなに無理なのか……?」

「え……だって……恥ずかしい……よ。……そんなの」


 俺から目をそらし、両手でひし形を作ったりしている。

 無論、伊十峯の顔は夕日のように赤ら顔だった。


「けど、いつもやってる事じゃん?」

「ひっ、人前は違うっていうか、その……あの……」

「……そ、そうだよな。確かに」


 思えば、ASⅯR配信時の伊十峯は、もはや学校での伊十峯とはまるで別人だった。

 同一人物なのかと疑いたくなるほど、その口調や言葉選び、息遣いまで違う。


 これはある種、俳優や声優に通じる物があるかもしれない。

 演技中の自分を誰かに直接見せる事に、少なからず抵抗があるのかもしれない。抵抗がない場合もあるだろうけど、それは場合によりけりだ。


 特に演じる役柄とか、その場のTPOとか。インターネット越しなら平気とか、そういった気持ちも関係しているのかもしれない。


 伊十峯のその感覚はもっともだな。

 そう俺が感じていた、その時だった。


「かっ……隠してくれれば!」

「……え?」


 話はこれで終わりかと思ったタイミングで、伊十峯が条件を出してきた。


「か、隠すって? 何を?」

「……」


 伊十峯は無言のまま、俺の顔を指差した。先ほどのように羞恥心で顔を染め上げ、やっぱりその目はそらしている。

 いやいや、待って。ちょっと待ってくれ。


 俺の顔を隠すってどういう事……?

 伊十峯の考えている事がわからない。


 いや、本当は薄々気付いていたんだ。

 半袖で常に剥き出しになっている伊十峯の細腕やその指先は、白くて人形的だった。

 ただ、その指差しの意図するところを理解してしまうと、もう後には引けないような気がしていた。今更引くも何も無さそうではあるけど。


 顔を隠して耳元で生ASⅯR……。

 あの、いくらなんでも本物の変態っぽくありませんか? 上級者ですか?


 そんな一般論に後ろ髪を引かれる思いだったが、言い出しっぺは俺だ。

 今になって恥の上塗りなんて思わない。


「わ、わかった……」

「えっ?」


「かっ、顔隠せばしてくれるんだな?」

「……うん!」

「よ、よし、わかった!」


 腹を決めたとばかりにそんなセリフを吐くと、伊十峯もそれならと力強くうなずく。


「じゃあこの炭酸水、一回全部取り出すぞ!」


 もうこうなったら、成るように成れだ。

 俺はソファの近くにあったダンボールから、炭酸水のペットボトルを次々と取り出していった。


 それから、顔を隠すならこうだろとばかりに、空いたダンボール箱を頭から被ってみせた。前にインドかどこかで、カンニング防止のためにこんな格好させられる的なニュースがあったな、とかどうでもいい事を思い出して理性を散らす。

 理性なんて、散らしてしまえばなんてことはないのさ。


「つ、月村君っ……!」

「さあ、伊十峯! どっからでもこい!」

「……あの」


 さあ、どうした伊十峯! こっちの心の準備はできてるぞ!

 箱の中が少し俺のおばあちゃん家みたいなニオイだけど、別段、問題ない!

 あとはお前が動き出すだけだ!

 いくら変態的でも構うもんか。さあ、やるだけやってくれ!


 ダンボールで視界の大部分が閉ざされている中、俺は両手を広げた。

 欲望に忠実で、無駄に無駄のない漢のポーズだ。

 そのポージングのまま、俺は今か今かと待っていた。そこへ、


「せめて……穴開けないとそれっぽく声が通らないと思うよ……?」

「……」


 伊十峯のごもっともなご指摘、痛み入る。


「……ダンボール、穴開けます。カッターとかある?」

「……うん」


 風穴開けよう。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 炭酸水をもらうためにお邪魔したクラスメイトの家で、なにゆえ空のダンボール箱を被っているのか。すべては、俺の欲が撒いた種のせいだ。


 俺の名前を呼んでくれるASⅯR音声。

 この家宝のようなデータを提供してくれた伊十峯の優しさにつけ込み、欲が出てしまったのかもしれない。


 もっとこういうのしてほしい。あれしてほしい。そんな欲だ。

 そんな欲まみれの俗物な箱男が、夢系女子の部屋で爆誕しそうな西暦20XX年夏。


「よし、これでいいかな」

「うん」


 カッターで、ダンボールに直径五センチほどの穴を二か所設けた。俺が被った時にちょうど内側に耳が来る位置である。


 穴を開けてる時「小学校の図工みたいで楽しいなぁ~」とか能天気な事を考えていたが、いざ被ってみてこの非日常感を再認識する。


 これはとんでもないフェティシズムだ。たぶん、箱フェチとか、暗所フェチとか、おばあちゃん家のにおいフェチとか、色んな属性のネーミングを並べ立てられる事ができるんだろうが、行き着く先はすべて「音フェチ」なのだと思いたい。


 音フェチならまだちょっと救われる感じするじゃん? 救われませんか?


「い、伊十峯? これで顔ちゃんと隠してるからいけるか?」


 ダンボールを被ったまま、俺は伊十峯に呼び掛ける。

 心臓はばくばくと鳴っていて、耳ざわりなくらいだし、ダンボールの中が暑いこともあって身体中から汗が噴き出そうだ。


「う、うんっ……が、頑張ってみる!」

「よ、よし。俺はいつでもいいよ!」

「じゃ、じゃあ……いくね」


 いくね、という伊十峯の宣言から数秒たち、まだ来ないかな? と思っていたら、俺の座っていたソファが軋んだ。伊十峯が隣に座ってきたらしい。


「……んっ!」


 ソファに座ったと思われる伊十峯は、まず俺の左肩にその小さな両手を置いた。


 それから、ダンボールの穴に伊十峯が顔を近付けようとしたからだと思う。俺の左半身に、彼女の身体がぴったりとくっつく形になってしまった。


 他にやりようがなかったのかもしれないが……。この、縋り付くような姿勢は色々まずいよ、伊十峯! 刺激が強すぎる!


「……つ、つきむら……くん……」


 声が少し震えていた。

 吐息も何度か耳に当たっている。


 身体もやたら密着していて、伊十峯の柔らかい「峯」に、俺の左ひじは埋もれていきそうだった。

柔らか……ちょ、ちょっと近すぎやしないですか……。


 近い近い。身体近いから!


 ふにゅってなってるから! ふにゅって!


 そして暑い! 初夏だし、部屋エアコン付けてないっぽいしたぶん汗かいてるよ俺!

 ていうか俺、汗臭くないかな……。


「っふ~~……きょ、きょう……は……」


 ――ガクガクガク。


「!」


 その時、俺は気付いてしまった。


 気付かないふりをしてやり過ごしてもよかったんだろうけど、ちょっと冷静になった。

 一度気付いてしまったからには見過ごせない。


 俺の左肩に置かれた伊十峯の両手。

 その両手が、はっきりとわかるくらいに震えていた。


 おそらく、伊十峯はすごく無理をしていたんだと思う。

 いつもは、ただ自作のダミーヘッドマイクに向けて行なってきた事を、本物の人間相手にやるんだから、そうなるよな。伊十峯の立場になってよく考えてみればわかる事だ。


「……伊十峯」

「え、何?」


 ダンボールの穴に向けて囁き始めようとしていた伊十峯は、自分が呼ばれた事に反応して一度ダンボールから距離を置いた。


「ごめん……嫌だったよな?」


「!」


 俺はそう確認するように尋ね、それまでヘルメットのように被っていたダンボール箱を脱いだ。


 ソファで隣に座る伊十峯の顔が近い。いくらダンボールから離れたとは言っても、ソファ自体大きくもないから肩が触れ合うくらいには近かった。


「わ、私は別にっ……大丈夫……」


「本当か?」


「……」


 伊十峯は、その質問に頷きもしない。

 頬を染め、膝の上に置いた握りこぶしにぎゅっと力を入れているらしい。


 視線を下げていた伊十峯につられるように、俺も一度視線を下げた。


 お互い、言葉を発する余裕もないほど、自分達の頭の中で色々と考えていた。


 何をやってんだ俺は!

 自分で要望出しておいて、その直前で中断したりとか。へたれか!

 確かに伊十峯にその気が無いならやるべきじゃないと思っていたけど!


 その後は、どのくらい沈黙したかわからない。二十分はたった? もっとか?

 そう思えてきた頃、伊十峯が口を開いて、


「あ、あのね! 月村く――」


 ――バンッ。


「こーーごええぇぇーー! 京弥のプリン買ってきたよ~!」

「!」

 部屋の扉が勢いよく開かれ、知らない女性が入ってきた。


「お、お姉ちゃん⁉」


「え⁉」


「ありっ? あー……もしかしてぇ~……お邪魔だった?」


 伊十峯の反応ですぐにわかったが、どうやら入ってきたその見知らぬ女性は、伊十峯の姉、つまり姉峯らしい。

 その手には、この町でも人気の洋菓子店「京弥」の紙袋が提げられていた。


「お、お姉さん……?」


「あー……あはははは!」

「もう! なんでお姉ちゃんはいっつも勝手に入ってくるのっ!」


 伊十峯は姉のデリカシーの無さにぷんすこ怒っている。


 お姉さんは悪い事しちゃったなぁといった具合に、乾いた笑いで間を持たせていた。

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