第31話「この世界に勇者はいない」
「まさか……」
一手指して玉藻が気付く。
だが遅い。一度攻めればそれ相応の犠牲なくては退けない。
それが『捕食の受け』。
角淵影人が得意とする戦法だ。
時間を切らせて、お互いが1手10秒で指さなければならないこの状況だからこそ、不完全であってもこの戦法は勝機を見出す。
考える時間さえあれば、こんな付け焼き刃の戦法などすぐさま崩されてしまうだろう。
だが、このルールならば。
たとえ魔王の雛だとしても100点の手を出し続けることはできない。
そして――。
玉藻は10秒間ギリギリまで考えて応手する。
攻め手は緩めない。大丈夫。まだ詰みはない。
私は玉藻のその手に対して、1秒と待たずに指す。
「!?」
玉藻は私が考える時間も次の手を予想して思考時間を稼いでいる。
これは玉藻だけではない。相手の手番に次の手を考えるのは将棋では当たりまえだ。
だからその時間を消す。私は持ち時間の10秒を一切使わずに早指しする。これで玉藻に与えられた思考時間は実質半分になる。
私らしくない。あぁ、私らしくない。
こんなことをすれば、先にミスをするのは自分の時間をゼロで指している私だ。
だが、この状況。少しでも玉藻に負荷をかける。
玉藻の思考を誘導しろ。少しでも玉藻の手を鈍らせろ。
この状況、なにをしても私の玉はいずれ死ぬ。
玉藻の攻め方はゆっくりと嬲るような攻めだ。こんな仕組まれたテンポの速い攻めは自分のリズムではないはずだ。
だから、自分のリズムに戻して一度息をつくために手を緩めるはずだ。
一度息をついて、改めて自分のリズムで確実に私を殺す。
ほら、キツいだろ。
お前は緩手を指すんじゃない、私がお前に緩手を指させるんだ。
「こ、こんなのぼくが指したい将棋じゃない」
玉藻は叫ぶように竜王を掴み私の穴熊にぶつける。
強引な攻めだ。確かにこの形成ならそれが有効手となる。
だが玉藻らしくない。
将棋を1局指せば、何十時間の会話よりお互いのことを知れる。
玉藻、お前は強い。だが、まだ完全じゃない。
お前は自分が指したいように指して、それを無理やり通すことのできる天賦の才がある。
定跡に頼らずに、新しい道を切り開くセンスだ。
自分の好きなように指して、思い通りの将棋が指せるなら。
玉藻、お前のいう通り将棋は楽しいものになるだろう。
だが、玉藻の将棋はその楽しさに依存している。
自分の指したいようにさせない将棋を嫌うのだ。
お前の将棋は遊びなんだよ。
私みたいに勝利のためならば『自分らしさ』すら捨てる意地汚なさを持たない。
遊びと一緒。好き嫌いで全てを判断する。
だから、自分の嫌いな展開から必ず逃げる。
自分の意思ではなく、私に誘われるがままに打たされているこの状況から。
「退け。私は死なない」
嘘だ。私の玉は遅かれ早かれ死ぬ。
だが死ぬのが遅ければ、私には最後の逆襲がある。
私が欲しいのはその時間だ。
自分が死ぬ前に、この魔王を殺すための時間だ。
「魔王を倒すのはいつだって勇者だ」
誰にも聞こえないように小さく呟く。
前世の私は魔王を超えることはできなかった。
私は勇者ではない。ただの村人だ。
才能がなく、常に挑戦することしかできなかった村人だ。
だが私は今世で勇者になるつもりはない。
勇者じゃなくても魔王を超えられる、それを証明する。
相手のミスだろうが、自爆だろうが、反則負けだろうが勝てばいい。
どんな方法でも勝ちになるならば貴賎はない。
村人が魔王に挑むんだ。勝ち方に拘る必要はない。
玉藻の攻めは止まらない。
だが、読める。玉藻の攻めはすべて私の読みの範囲内。
だから即応手できる。
玉藻は好きなように指せなくて、キレがない。
私が最も恐怖するのは未知だ。
しかし今の玉藻の手は既知でしかない。
既知ならば対応できる、いや、対応してみせる。
我慢だ。玉藻が痺れを切らせて攻めを止める、その瞬間まで。
「……くっ」
そしてついにその瞬間がきた。
玉藻が攻めを途切らせた。
自分のテンポに戻すための小休止。
もう次はない。玉藻が攻めを再開すれば、もう止められない。
――だからこの一瞬で終わらせる。
頭をカチリと切り替える。
蛇のように陰湿で陰険なネクラ思考を頭から追い払う。
しっしっ、ぶっちーの出番は終わり終わり。
イメージするのは銀色の鬼天使。
透き通るような白銀の髪と、静謐な泉のような瞳を思い浮かべる。
彼女の将棋は私にはできない暴力的な鬼攻めだ。
毎日のように対局した。何百局と彼女と将棋を指した経験はここにある。
ここからは私は親友の――神無月ルナの将棋を再現する。
飛車を、角を、竜王を、龍馬を。
すべてをぶつける。耐えに耐えて貯めた持ち駒と盤面に存在する私の全てを投げつける。
ルナが得意とするのは急戦。だがルナの強さの本質はそこではない。
ルナの強さの本質は、攻めの多様性と駒の損得を無視したその速度にある。
それが限られた条件でも攻めを成立させ、強引に敵陣を崩す。
そして、ルナの一番の武器は大胆に攻めることのできるその度胸。
可愛い顔からは想像できない鬼の心臓。
玉藻の薄い囲いを、崩すのは鬼の暴力。
天使の翼をはためかせ、一直線に王の首を狙う。
鬼のような攻撃力と、天使の翼のような速度。
その両立こそが――鬼天使、神無月ルナ!!
「ルナには成れなくても、ルナのようには振る舞える」
ルナのように駒が少なくても攻めを成立できるようなセンスはない。
そこは物量でカバーする。
一度すら手を抜かない。全力全開の攻めだ。
王手王手王手っ!!!
大駒を大胆に捨てて薄氷の城から王を引きずり出す。
ついに魔王城から出てきた城主に、鬼天使の一撃を叩き込む!!
「……」
玉藻は黙々と指し回す。
へらへらとした無邪気な笑顔はそこにはない。
得体の知れない恐怖を覚える。
まだこいつには奥があるんじゃないかと思わせる。
「だが、それがなんだ!!」
もうここまできたら引くことなんて選択肢に存在しない。
捨て駒王手で、多量の駒が玉藻の手に移った。
一度でも王手を外すと私は死ぬ。
「すぅーー……すぅーーー……」
深呼吸をする。
愛しの妹が本気を出すときのように。
10%でいい。今日だけはあなたのセンスを私に分けて。
転生して私が一番将棋を指したのは妹。
あなたの将棋を一番知っているのは私。
私たちは双子で、世界で一番お互いを知っている。
だから、私があなたの将棋を再現できない理由なんてないよね。
「さぁ、一緒に飛ぼうか。――桜花」
点が繋がり線となり、樹形図が広がる。
詰むか詰まないか、その未来を読む。
10秒将棋、時間なんてない。
ましてや桜花のように全てを読み切ることなんて私にはできない。
だから桜花の将棋を私の才能の大きさに落とし込む。
読む必要のない選択肢を最初から削ぎ落とす。
そして、一度に深く潜るのではなく浅く何度も潜る。
角淵の将棋もルナの将棋も完全に再現できない私が、本物の天才である桜花を再現する。
ずっとずっと指してきた。その経験が絆が想いが、今の私を生み出した!
「届けっ、届けっ、届けえええぇぇぇぇぇ!!」
こんなにも10秒という時間を短く感じたことはない。
桜花なら10秒で全てを読み切れるのだろうか。
私はまだ読みきれない。届く? 届かない?
もはやそれは願い。
届いて欲しいという願望。
ドクンッ! ドクンッ!
緊張か興奮か、激しく心臓が鼓動する。
思考の海に潜るたびに心臓が痛いほど脈打つのだ。
分不相応。凡人の身で天才の真似をすることの代償だろうか。
いいよ、その程度の代償で勝てるなら、私の心臓くらいくれてやる。
どうせ私は一度死んでる。
転生してまで将棋を指しているんだ……、だから勝たせろよ!!
「――ふふふッ」
玉藻が笑う。
先ほどまで消えていた笑顔が戻った。
玉藻は盤上の駒を――王をスライドさせ逃す。
「ぼくは鬼ごっこは得意ですよ」
「地獄の果てまで追いかけて殺してやるよ」
「ええ、追いかけてください。追いかけてきてください」
脱兎のように駒と駒の間を駆け回る玉藻の王。
玉藻の薄氷のように薄い囲いは、囲いの固さではなく逃げの広さで作用する。
多くの捨て駒で誘い出したはずが、またもや隠れ始める。
「逃がさないッ!」
「いや、逃げるよ。こんなにも楽しい時間を終わらせるのはもったいない」
まだ逃げる。
読め、先を、未来を。
もっと多くの選択肢を。頭が焼き切れてでも探し出すんだ。
「私はもっとあなたと研究がしたい。だから『奇跡』見せましょう」
玉藻が指したそれは完全に私の攻めを封殺する一手。
その一手で私の攻めは止まる。
前世において魔王と呼ばれた名人。その名人が終盤に全てをひっくり返す神がかった一手はこう呼ばれていた。――奇跡、と。
今ここに『奇跡』が現れた。
「お前自身がその手を『奇跡』と自称するなよぉおお」
奇跡――天才の思考に到底及ばない凡人が、そう名付けた。しかし天才にとっての奇跡は――必然であり偶然の奇跡でもなんでもない。すべては計算の上で生まれるただの答えなんだから。
そう、あくまで必然であり計算の上。
だから、同じ領域にいる天才ならその奇跡すら届く。
桜花ならきっと届く。そして桜花を再現している今日の私はその奇跡に指一本届いた。
「奇跡は想定内。ずっと警戒していたからね」
ギリギリまで持ち駒として握り続けていた最後の駒の桂馬。
駒を飛び越えることができる唯一の駒。
合駒は許さない。
魔王の『奇跡』に対応できたのはほんの偶然。
桜花の再現をしても10回に1回対応できたら良い方だろう。
その1回を今出せた。
「最高、もう最高。今日の実験結果はぼくの宝物になる」
私の完璧な返しを見て玉藻は嬉しそうに笑う。
もし将棋に美しさがあるとするならば、それは片方が強いだけでは美しくはならないだろう。
強さが拮抗している時こそ最高の棋譜が生まれるのだ。
私は綺麗な棋譜作りに微塵も興味がない。
私にとっては勝ち負けだけが大事であり、負けた棋譜から学ぶことはあってもその棋譜のことを好きになることはない。
――今日の棋譜は私は好きになれないだろう。
そこから数手後玉藻は何かに気づいたように、王を逃す。
私にはもう見えていた。
だが、手を止めるわけには行かない。
気付きたくないことに気づいてしまっても、その歩みは止められない。
「だって最後まで諦めるなと桜花に言ったのは私だからね」
教えた私がそれを守らないのは示しがつかない。
最後まで他の選択肢を探す。
勝つための選択肢。
でも、ない。
玉藻がここからミスをすることは無い。
私は最後の一手を指す。
たった一枚届かないその一手を。
その一手を最後に私の攻めは途切れてしまった。
――私の負け。
自分の負けを自覚したその瞬間、身体から力が抜けた。
急に全身にだるさを覚える。
「あれ……」
目の前が反転する。
そういえば昨日まで私風邪ひいてたっけ。
世界が傾く。目の前に将棋盤が迫る。
「ちょっと無茶しすぎたかな」
鈍い音が響く。その瞬間に視界がブラックアウトした。
意識が途切れる間際に、遠くから桜花が私を呼ぶ声が聞こえる。
そして、まるで転生したあの日のように、私は意識を失った。