第29話「平凡」
私は定跡が好きだ。
過去の棋士たちが連綿と研究してきた歴史の積み重ねこそが定跡であり、現在の最善手とされるものだ。
しかし定跡は美しいが完璧ではない。
ニュートン力学が相対性理論の登場によりアップデートされたように。
スマホの登場によりガラケーがその数を減らしたように。
ある時代の優れた考え方や発明品は時の流れによりその形を変えて、より良い形へと進化する。
それは将棋も同じだ。
かつてあった定跡は新たな定跡の前に淘汰される。
発明改良改善淘汰……より良き答え探しの積み重ねが、今の将棋という世界を作っている。
それは天才たちが――作った世界だった。
私は天才ではない。
――天才ではなかった。
だから私は定跡をなぞる。
天才たちが辿り作り上げた舗装した道を、凡人である私はその足で歩く。
天才たちがその才能で新しい地図を書くなら、私はその地図を持って戦地を歩む。
凡人の私にできるのは猿真似だ。
将棋界の偉人、師匠、竜王、そして魔王世代。
凡人である私は全身を彼らのメッキで塗り固めた。本物の天才達と肩を並べるため、私の選んだ道だった。
しかし定跡は日々進化する。
特に魔王の世代が将棋界の中心になってからは、その速度が跳ね上がった。
魔王だけではない。彼とその眷属達がその才気を持って将棋という世界を塗り替えていった。
毎年、毎月、毎週。酷い時には昨日の今日で定跡の善し悪しが何度も入れ替わるほどに。
彼らは冒険者であり研究家だ。
常識なんて彼らにはない。
例えば神様が作ったレシピがあるとする。
絶対にその答えが正しく最適解である……と信じられている。
凡人は疑いすらしない。生まれた時からそれが正しいと信じているのだから。
ところが、魔王眷属はそれすら疑いを持ち、自分たちでレシピを改善していく。
彼らの強さは、魔王世代だったことだ。
互いに互いが作った定跡をアップデートしていくことで、相互成長していく。
1人の魔王と7人の眷属。同世代に8人の天才がいたからこそ、彼らはあそこまでの強さを手に入れたのだ。
私にできるのは、その強さを後追いで解析し模倣すること――ただそれだけだ。
■■■
魔王の……。
いや、まだ私は彼の事を魔王だとは断定はしていない。
魔王(仮)としよう。
魔王(仮)玉藻宗一の指し手は自由奔放そのものだった。
まるで子どもが今思いついた手を打つように一貫性のない一手。
それなのに――。
(押されてる……。定跡なんて無視。それなのに私の方が力負けしている)
「ん〜、ここかな」
駒を掴み、逡巡してから玉藻は手を指す。
駒を持ってから考えるなど、将棋を舐めているとしか思えない。
しかし――強いッ!
盤上は混沌としている。
ある程度将棋を勉強した者同士が対局すればこうはならないはずだ。
それは、お互いが少なからず定跡という常識のレール上に沿って将棋を指すからだ。
だがこの対局は魔王(仮)の玉藻が始発からレールを無視して、明後日の方向に走り出したのを私がポカーンと眺めるはめになった。
定跡とは最適解。
定跡を守る者と無視する者。どちらが有利になるかなんて子どもでもわかる。
だがどうだ。今、私は押されている。
まるで違う世界のルールを強制的に押し付けられているみたいだ。
盤面は自然と定跡の存在しない力戦系へと変化している。
(桜花ならこんないびつな局面でもゴリ押しできるんだろうけど……)
私にできるのは基本に忠実に。
定跡がないなら常識に沿って指していくだけ。
それが、今私ができる最善手。
「さくらちゃんは先生のような将棋を指すんだね」
「…………」
玉藻が話しかけてくるが、私はそれに応えず無視する。
先生のような将棋。つまり教科書的な将棋であるということ。
意外な手などない。悪手もない。当然鬼手もない。
すべては既知の答えの範囲にある手だ。
私が無視しても、玉藻はその笑顔を崩さずに言葉を続ける。
「実験は1人じゃできない。だからぼくはもっとさくらちゃんの将棋がみたいなー」
そんな言葉とともに放たれる一手。今日何度目かも分からない定跡外の一手。
好きに指してください、まるでそう言いたげな一手だった。主導権を譲るという意味では角淵の捕食の受けのように感じられるが、攻めを強要する捕食の受けとは違う。正真正銘なんでもできる。攻めることも守ることも。
私の将棋……。
まるで教科書通りの将棋はつまらないみたいな言い方だ。
……いや、本当につまらないんだろうな。
角淵と初めて対戦した時も同じこと言われたっけ。
揃いも揃って魔王の世代は……。
まぁ、角淵は私を煽って捕食するのが目的だったから、心の底から純粋に言っている玉藻とはベクトルが違うか。
将棋を指せば、会話をするよりも相手の性格がよくわかる。
彼にとって将棋は、未知なるもの。いつもいつも違う将棋を指したいという子供心。未知という恐怖を知らない無邪気な子供。既知をなぞるより未知を好む。良く言えば好奇心の塊。
そんな子供の前に、どこかでみたことあるような平凡な手しか指さない対戦相手がきたら、その子供はつまらないと思うのは当然だろう。
だからそんな教科書は捨てて、本当にあなたの指したい将棋を指して!!!
……と、そんな思惑がこの一手なんだろう。
この少年は何を勘違いしているのだろうか。
本当の私?
これが私だよ!!!
どこまでも平凡で、定跡というレールに頼りきる将棋だ。
知識量こそが私の武器。
そこに私らしさなんて無くていい。
駒を掴み、力強く盤面を翔る。
すでに私の玉は穴熊という世界最強の引きこもり部屋の奥深くに眠った。
『穴熊』。私が一番好きな囲いだ。
しかし好きだからと言って贔屓はしない。
勝利のために好き嫌いなんて感情論はいらない。
ただ自信を持ってこの戦型を選択する。
目の前の敵を屠るための最適解という自信だ。
玉藻は4筋に振っていた飛車を2筋に振り直す。
私の飛車と玉藻の飛車が向かい合う形となる。
玉藻の浅く組み込まれた囲いに、1つ目の攻撃を仕掛けた。
私の一手に満足したかのように玉藻は嬉々として盤面を覗き込む。
そんなにワクワクした眼をしないでよ。さっきと私は何も変わってない。自分の中の定跡と常識に沿って1番良い手を選んだだけなんだからね。所詮は教科書通りの一手だよ。
相手の玉はまだ狙わない。
まずは下準備。あいさつ。牽制。ジャブ。
飛車が向かい合っている2筋でのコマのぶつかり合いが1つ目の天王山となる。
そこを攻略するために準備としての牽制。
超高速の詰めなんか狙わない。あれは桜花達の特権。私ができるのは、紐を解くように一枚一枚丁寧に相手の囲いを解いていくことだ。
遠回りでもいい。
ゆっくりでもいい。
綺麗でなくていい。
ただ、勝てばいいッ!
持ち時間は私の方がずっと多い。
定跡に頼っている私は思考時間を短縮できるのに対し、玉藻は1手1手丁寧に考えている。
序盤に稼げるだけ稼いだこの時間が私の武器になる。
「…………ふぅ……」
一呼吸つく。
今日はいつもより冴えている。
どこまでも見透せる。そんな万能感がある。
しかし体は興奮しているのか、とても熱い。シャツにべったりとついた汗が気持ち悪い。
でも……特に気にならない。
思考が将棋だけに集中できている。
この暑さすら心地よい。
「よしっ」
59手目2四角で角交換を仕掛ける。
突っ込んできたその角を玉藻は歩で取り返す。
私は今交換で手に入れたばかりの角を握り、空いた玉藻の陣に打ち込む
4三角ッ!!
玉藻の飛車裏の桂馬や王の近衛兵である金を睨みながら、自分の穴熊の守りにも行ける最適位置。
「えへ、えへへ」
急に玉藻が笑い出した。
えっ、なにこれ怖っ!?
「……ごめんなさい。さくらちゃんとの実験は楽しくてつい笑ってしまいました」
「私の将棋は教科書通りのつまらないものよ」
「そんなことないですよー」
先生のような将棋と言ったのはお前だろ。
まったくもって理解不能。
棋風も理解不能、言葉も性格もすべて理解不能。
理解したくもないが、将棋で盤を向かい合っているならば相手のことは恋人のように理解しなくてはならない。そう、勝つために。
「さくらちゃんは将棋楽しくないですか?」
「勝ったら楽しいよ」
「さくらちゃん、将棋は勝ち負けじゃなくてその過程にこそ意味があるんですよ」
目線だけ向けると、玉藻はしたり顔でそんな綺麗事を口にする。
そんな会話の間にも玉藻の持ち時間は減っていく。
私にとっては得でしかないから、そんなくだらない話にも付き合ってあげる。
もちろん盤面に目線を戻す。少しの時間でも頭を回す事をやめない。
「将棋盤という宇宙に、この手で世界を作り出す。ぼくとあなたで。それが将棋です。ぼくの大好きな将棋です」
「将棋やめて作詞家になった方が良いんじゃないか?」
「えへ、ひどいなー。一緒に楽しく研究をしようよ」
盤の向こうからの誘い。
楽しく、将棋ができたら、どんなによかっただろうか。
私はもう楽しく将棋はできない。
表面上は楽しいように自分を偽れても、深層心理では……心の底からは将棋を楽しめない。
私は将棋に囚われている。
それは前世の業。勝つことでしか満たされない。
「ぼくは将棋が大好きです。一緒にこの宇宙をつくる相手にも同じ気持ちで将棋をさして欲しいんです。好きと好きでつくる将棋はきっと素晴らしい結果を作れるはずです。だから……さくらちゃん――」
呼吸が止まった。
いや、音が……時間が。
玉藻の声の質が変わる。天使の歌声のような声が、不協和音を奏で始めた。
ドクン。
ドクンドクン。
私は対局が始まって、初めて顔を上げた。
私をジッと見る玉藻と目が合う。
女の子みたいな可愛らしい玉藻の顔。
くりくりとしている大きな瞳に私は飲み込まれそうになる。
玉藻からはあの魔王のような畏怖も、機械のような冷徹さも感じられない。
前世の名人が魔王なら、今目の前にいる少年は天使だ。
だが、どうしてこんなに。
あの名人と重なるんだ。
玉藻は右手を伸ばして、駒に触れる。
そしてそのまま――
「――ぼくに負けても将棋を嫌いにならないでくださいね」
私の打ち込んだ角を無視して、攻めの手を繰り出した。




