信州に伝わる無畏大師とご眷属さまのお話 その二
弥市は感激屋の寛円和上とともに山道を登った。
道すがら、
「和上。いまや山の獣はすべてかやつの手先じゃ。子ねずみ一匹にも、油断めさるなよ」
ふむ、と寛円は聞いている。
「どのような妖怪じゃな」
「名は赤目(あかめ)。齢三百歳の狒々よ」
猿の化けものだという。
「目は血の色、松の木のようなふしくれた長い腕を持つ。その腕が剣呑じゃ。二指でひとの頭なぞ割り砕いてしまう。もとは播磨のほうに居たというが、山を荒らしながら信州へ渡りついた。喰うものがなければ、手下の狒々も喰うという悪食よ。村の者は根こそぎ喰われてしまうであろう」
ところで、と弥市は聞いた。
「和上の法力はどのようなものか?」
「真実を見抜く」
「ふむ。それから?」
「真実を見抜く」
「――」
「あと蹴鞠?」
「つまり、天眼通力のみか」
「うむ」
「白毫(仏の眉間の毛)からびゃーと光が出て、妖怪が溶けるというような」
「白毫ない」
「……調伏護摩を焚くとか」
「護摩は焚くが、得意は身体健康と家内安全」
「……」
「あと、子宝成就も」
弥市は立ち止まった。
「帰るがよい。敵に子宝もうけさせたら、厄介になるだけじゃ」
「いや、弥市が心配じゃ」
「和上がいたほうが、心配が増えるわ! これではかやつの夕餉を連れて行くようなものじゃ。帰れ!」
「帰らぬ。わしは無敵じゃ」
「――」
心配無用、と寛円は笑った。袖から黄金に光る仏具を出し、
「これは独鈷(とっこ)という仏の武器。これは特別あつらえでの。とくにサルには命取りになろう」
「!」
弥市がひとの手のひらほどの仏具をのぞきこむと、両端が槍のように尖っている。たしかに猛々しい力が感じられた。
「合戦の時は、これが大きく伸びて武器となるのじゃな」
「そうではない。が、なみの妖怪ごときに負けはせぬよ」
「わかった」
弥市はふたたび歩き出した。
(この坊主、頼りになるのかならんのか)
聞いた噂では、入唐して大悟し、その法力で行き会う魑魅魍魎すべて調伏した稀代の祈祷僧のはずだったが、本人からはそうした凄みは感じられない。
ふりむくと、肩に小鳥などを乗せて遊んでいる。弥市は飛び上がって、小鳥を散らした。
「和上! 森の獣には油断するなと、今わしが」
「ア」
寛円は目をしばたいた。
「そうであったの。あの小鳥、よく馴れて、袂に入り込んでいたゆえ」
「聞かれたわ! すべて聞かれた独鈷の話!」
「あー……」
弥市はしかたなく念を押した。
「その独鈷、絶対身から放すでないぞ!」
寛円はしばらく口を閉じていたが、少しするとつぶやいた。
「叱られて、小鳥逃げ行く散る紅葉、行ったりきたりの逢坂の関」
「なんでも逢坂の関!」
こんな調子でひとりと一匹は山を登り、山ノ怪のいる森に入った。
妖怪の大頭『赤目』は、栗の大木の上で、骨をしゃぶっていた。
数日前屠った旅人の大腿骨である。新しい人間が手に入らず、古い骨の残り香でこらえていた。
(弥市め)
村に手下をやったが、空手で返ってきた。村はもぬけの空だという。かわりに弥市がうまそうな坊主を連れて、登ってくるということだった。
「大頭、来たぞえ」
手下から報せを受け、赤目は大儀そうに枝下をのぞいた。
小さな白ぎつねが、若い僧をつれている。僧は笠をとって、汗を拭いていた。狒々の群れにぐるりを囲まれながら、紅葉狩りにでも来たようにのほほんとしていた。
「弥市よ」
赤目は笑った。
「これはわしへの手みやげか。やわらかそうな坊主じゃな。えらいものよ、この年寄りの歯を気遣うてくれたか」
弥市は高笑いして、
「老いぼれの妖怪ふぜいに、なんのみやげか。それほど欲しくば、贖うてみよ。――命でな!」
和上、とふりむいた。
僧は懐に手をいれた。が、その手が腹までさぐっても何も出て来ない。僧は首をかしげ、今度は袂をひっくり返した。頭陀袋も逆さに振って、ついでにとんとん跳ねてみたが、何も出なかった。
「和上……」
狒々たちはこらえきれず、飛び跳ねながら笑いだした。手を打ち、笑いころげて木から落ちる者もいる。
赤目は腹をふるわせながら、
「これか」
黄金の独鈷をつまんで出した。
「!」
「唐帰りの坊主があやしげな小道具を持っていると聞き、リスめに盗ませておいたわ」
僧は手を打った。
「そういえば、さきほど子リスがたわむれてきて、いかい可愛かった」
弥市は耳を掻きむしり悶えた。
赤目はホーホーと涙を流して大笑いし、飛び跳ねた。飛び跳ねるごとに、栗の大樹がゆっさゆっさと揺れかしぎ、栗のイガがころころ落ちる。
「弥市、もうよい。面白いやつめ。坊主を置いて去れ。去って、また新しい坊主を連れて来よ」
「わしを愚弄するか! ――くちなわども」
弥市は怒鳴った。
「サルのかかとに噛みつけ!」
とたんに大風が起こり、木々の枝を薙いだ。
ぎゃっと狒々たちがわめき、木から落ちる。その足にはヘビがからまっていた。
サルはもとよりヘビが大嫌い。狒々たちはうろたえ、枝々を狂ったように逃げ惑った。
しかし、赤目は渋面をつくると、
「ケエーッ!」
ひと息、大喝した。すると、ヘビはただの枯れ葦に変わり、ハラリと足首から落ちた。
「ぬ」
赤目はあごの下を見た。
真っ白い子ぎつねが鼻にしわをたて、赤目ののどに食いついていた。その光彩が細くきらめき、ぎらぎらと睨んでいる。
しかし、惜しいかな、子ぎつねの牙は短すぎた。ぶあつい長毛にはばまれて、のどに達することはなかった。
赤目は弥市の細首を掴み放すと、哀れむように、
「ぬしももう少し大きければ、首巻ぐらいにはなったものを」
そういうと後ろ足をつかんで、木の胴にむぞうさに叩きつけた。二度、三度、叩きつけると、子ぎつねの骨はすっかりバラバラになった。
赤目は弥市が舌を出して動かないのを見て、ボロ布のようにそれを放った。
僧が弥市、と駆け寄る。
「和上、にげよ」
弥市は絶え絶えに言った。その胴は砕かれ、敷物のように平らになっていた。
「騙したとはいえ、わしは村人に祀りしてもらい、時に子らと遊んで楽しかった。その義理がある。和上は犬死に無用」
狒々たちは飛び跳ね、あざわらった。
「犬死に無用、人ゆえにか?」
「われらが逃がすと、なぜ思うた?」
「うまそうな坊主じゃ。大頭。わしにも一口喰わせてくだされ」
赤目はじろりと見て、
「なんじゃと」
「あ、いや、爪の先でも喰い残しがござれば」
しかし、赤目はまたホーホーと笑い、
「爪の先なぞ、うまいものかよ。手足ばもいで、ぞんぶんに喰え。僧を喰えば長寿となるぞ!」
狒々たちは歓喜の声をあげて、枝々を飛び回った。
寛円は弥市のからだを頭陀袋に入れ、やさしく言った。
「道連れ森の主めが。賢い子ぎつねめが。ひとりで往く気か。わしの得意は身体健康ぞ」
わしが一番じゃ! と言って、灰色の狒々がぶわと飛んだ。
その時だった。
寛円が言った。
「手津丸(てつまる)、来よ」
とたんに、灰色の狒々はまっぷたつに裂け、中から血しぶきとともに影が跳んだ。
見れば、真っ赤な血に濡れた大犬が楢の太枝の上で牙を剥いていた。
赤目はおどろいた。いつのまにか寛円の手に金色の独鈷があった。
(ぬ……弥市か!)
さきに噛みついた時、狡猾な子ぎつねは赤目の気をそらし、その手から独鈷を蹴り落としていたのだった。
神犬手津丸は目をらんらんと光らせて笑い、
「弥市とやら、童ながら行い殊勝。助太刀してしんぜる!」
ひと蹴り、枝を跳んだ。枝の上を黒い旋風が駆け抜けた。と思うと、ここかしこで狒々が悲鳴をあげ、血を噴いて枝から落ちる。
狒々の死骸が熟し柿のようにボタボタ落ちた。