代理はおかない
三好家の食卓に当主の次郎が座っていなかった。女房は寝てる、とだけ言って、せわしげに食事の世話をしていた。
「お京ちゃん」
もよは疲れて頼んだ。
「次郎さんに、集会のこと頼んでくれない? わたしはもう、人見知りのじじいたちの毒気で、じじいあたりしちゃって、頭がふわふわだ。あんた頼んでよ」
「ダメですよ」
京子は笑いつつ、きっぱりと言った。
「いま何か言っても動けないですよ。本人が起き上がってくるまで、待つしかないです」
「山芋でも食べさせたらどうかね」
もよは情けない声を出した。
「わたしだって動いてんだからさ。とりまとめるほうは、次郎さんにお願いしたいのよ。男はやっぱり男の言うことしかきかないからさ。しゃべるのが無理なら、座ってるだけでもいいから」
「もよさんの話なら聞くんじゃないですか」
京子は無責任に言って、お市の碗に粥のおかわりをよそった。
亭主の次郎は自室でふとんをかぶったままでいる。
夕方、京子がしるこを暖めて持っていくと、
――蒼が卒業したら、リタイアしようか。
と言った。
山も畑もすべて売って、借金返して、南の島に移住しようか、と夢のようなことを言った。
京子は、いいよ、と言った。
――今からリタイアしてもいいよ。ハワイにでも行く?
次郎は答えなかった。ふとんを頭までかぶり、寝たふりをした。
京子はもよに言った。
「うちで集まるのはいいですよ。お接待もします。でも、三好のことは本人の好きにさせてやって」
「……」
もよはしょんぼりと口をつぐんだ。
「おれやろうか」
そう言ったのは、この家のひとり息子、蒼(あおい)だった。
母親に似てすらりと背が高く、少女のように可愛い顔をしている。まだ高校二年である。
「司会ぐらいならやれるよ」
「ああ、うれしいんだけどねえ。あんたじゃ空気っていうか、黙れこわっぱっていうか――」
「べつに意見を言ったりしなきゃいいんじゃないの。話の整理とまとめだけやれば」
母親が顔をしかめ、
「議長っていうのは、全員が認めなければ進行なんかできないの。あんた、あのひとたちを黙らせることができると思ってんの?」
蒼は真顔で言った。
「でもさ。うちが引っこんでるわけにいかないだろ。二年前の落とし前つけるためにも」
「二年前のことはもうケリがついたでしょ」
「ついてないよ。金はともかく、対策は放りっぱなしじゃん。みんな困ってんじゃん。このままじゃ第二、第三の小倉さんが出るよ。せっかくお坊さんたちが来て、柵作るチャンスなんだから、ずく(やる気)出さなきゃ。おれがダメなら、母さんがやる?」
その時、テツが茶碗から顔をあげた。
「代理はおかない。次郎さんがやる」
みなが彼を見た。
しかし、テツはそれ以上は言うこともないらしく、また飯に野沢菜を乗せてほおばった。
お市が、
「次郎さんを置いてきぼりにしたまま、この計画は進行しないということです。杏花集落の誰ひとり置いてきぼりにはしない。ね」
テツは頬をふくらませたまま、深くうなずいた。
次郎はふとんの上に座っていた。電気もつけず、サッシごしに暗い庭を見ていた。
テツ坊が入ってきた。軽く会釈して、畳に座った。ともに庭を見る。何も言わなかった。
次郎が口をきった。
「もよさんが、獣害対策の手伝いをお願いしたんだってね」
「――」
「べつに気にしなくていいよ。あんたがたは、自分の修行を続けなさい。うちは好き勝手な村だから、勝手にやるよ」
テツは答えず、庭を見ていた。
次郎もまたぼんやりと庭の暗がりを眺めた。その実、何も見てはいない。深淵をのぞくように、ただ闇に見とれていた。
どれほど時間がたったのか。
次郎はつい話したくなった。
「ひとを騙す人間は、地獄に落ちるのかねえ」
「――」
「騙された人間は、いま地獄だよ」
テツは黙って聞いている。
次郎はまた言った。
「悟ったら、こういうのもラクになるのかな」
「……」
また言った。
「おれも坊主になろうかなあ」
ためいきのように言ってから、それが星の光のように良い考えに思えた。その光は淡く、悲しかった。
本当に仏門に入ろうとは思わない。人生は変えられない。だが、この人生を続けていくのもつらかった。
鼻の奥がまた湿っぽくなり、次郎はいそいで洟をすすった。
「ごめんね。坊さんをバカにしてるわけじゃないんだ。坊さんも大変だよな」
はじめてテツが言った。
「騙した人間はいま、うまいもん食ってるよ」
「――」
「あんたの金で、車買って女抱いて贅沢してる」
次郎の顔からぶわっと水分があふれ出た。こらえられず、次郎はふとんを顔に押しつけた。それでも嗚咽がからだを突き破って出てきた。
「うるせえなあ」
次郎はふとんをかぶり、中から怒鳴った。
「わかってるよ! おれはバカなんだよ。三度もひっかかるほど、救い難い間抜けなんだよ。みんなにとっちゃ、歩くATMなんだ。食料だ。盗って当然なんだ。わざわざ言ってくれなくてもわかってるよ! なんでそこにいるんだ。出てってくれ!」
「そうだな。三度ひっかかったとなると、底抜けのバカだ。バカは泣くしかないな」
ふとんの中で次郎は号泣していた。
(なんなんだ、この小僧)
殴りつけたかったが、自分でも手に負えないほどむせび泣いていた。一方、羽虫のように騒いでいた脳内が、一刀両断されたような気味のよさがあった。
この斧を待っていた気がした。
もう希望などいらない。カエルの死骸のようにつぶれて、倒れていたかった。
「みんなひっかかるよ」
テツは言った。
「ひっかかるように工夫してるんだから。連中は、悪ふざけでやってんじゃないんだ。あれで稼いで、生きてんだ。イノシシと同じだ」
「――」
「そういう生物なんだ。あんたをバカにしてるわけでも、憎いわけでもない」
「……」
テツは言った。
「おれもバカにしてない。バカだATMだと騒いでるのは、あんただけだ」
「……」
「二年間ずっと、騒いでた」
次郎は目を剥き、奥歯を噛み締めた。
見抜かれて、胸が溶岩のように熱かった。
さきとは違う涙が出た。それだけのことで、たわいなく泣けた。ようやく見つけてもらえて、なにかが悲しみに変わった。大泣きしながら鎮まっていた。
鼻腔が腫れ、息が出来なくなっていた。
ふとんから手を伸ばして、ティッシュボックスを探す。ティッシュボックスは手にくっついてきた。ティッシュをつかみ、洟をかむ。
テツは、
「もういいだろ」
と言った。
――もう前へ進め。
次郎はなお惜しむように、
「簡単じゃないんだよ。若いやつと違って、おっさんは立ち直るのに時間がかかるんだ」
しかし、何を嘆いていたか、もうあまり覚えていない。
「簡単じゃないんだ。自信とか。誇りとか。人格とか。培ってきた時間が違うんだ。そういうものを再構築するのは、大変なんだ」
「慈悲」
「?」
「菩薩の心を持てば、誇りの問題はなくなる」
テツは立ち上がった。
「――と、師僧が言ってたよ」
彼は部屋を出て行った。
次郎は憮然と、
(なにが慈悲だ。犯罪者を許せってのか)
坊主なんて本当に役に立たねえ、と洟をかんだ。