怒り
僧侶ふたりが荷物をまとめていた。
「あんたたち、どこ行くの?」
京子はにわかにあわて、
「十五日までいるんじゃないの?」
お市がふりむき、
「あ、まだ集落にはいます」
「?」
「シゲじいのとこに」
寺へ往復するのに、シゲの家が若干近いため、そちらに宿を移すという。
「そんなに変わらないでしょう。自転車貸すわよ?」
テツが笑い、
「あの意地っ張りじいさんに、少し説教してやらないといけないんですよ」
お市も、
「それからシゲスイートも絶対もらうのです」
ふたりはまたご挨拶によります、と言って出て行った。
若者が去り、家が急に静かになった。京子は亭主に愚痴って、
「シゲさんち、スイートなんかとっくにないわよ。布団だってあるかどうかわからないのに。あの子たち遠慮したのかしら」
しかし、次郎は答えない。
「お父さん?」
「いいんじゃない。出ていきたければ」
京子は亭主の様子に気づいた。どこか陰のあるぼんやりした顔をしていた。
「疲れたの?」
大仕事を成し遂げたせいだろうか。
「うん――」
なんか疲れた、と言って、次郎は畳に横になった。
風呂入って寝ろと言っても、彼は動かなかった。
次郎の様子がおかしくなった。
丸一日、居間に座ってテレビを見ている。せんべい食ってテレビを見ているか、疲れたといって、ふとんを敷いて寝ていた。
一日、二日は、京子も疲れが出たのだろう、と放っておいた。
三日すぎ、四日目になっても、次郎は外に出ない。
そろそろ隣家に気づかれる。京子は言った。
「お父さん、だるいんなら病気じゃない? 病院行ってきなさいよ」
「うん――」
だが、病院に行く気はないようだった。
(燃え尽きちゃったのかしら)
京子は困惑した。
「京ちゃん、ウドもってきたよ。食べて」
以前、ケンカになったマキがおすそ分けだ、といってウドを届けに来た。
マキとはすでに仲直りしている。この女はどれだけ激しい言葉を吐いても、翌日、忘れたふりをして話すことができた。
集落は見違えたように和気藹々としている。長城のような立派な柵を作り上げて、みなほのかな誇りを感じていた。顔を合わすと、自然と微笑が出た。
「柵は効いてるね。うちのほうは、新しい足跡が全然ないよ」
マキは笑顔を見せて言った。
「父ちゃんが柵見回ったら、山にサルが二三いたらしいけど、夏場にはモンキードッグも出るし、今年は安心だね」
柵作りの休憩の合間に、見回りの体制も出来ていた。犬の飼い主だけに負担がいかないよう、柵の点検にはどの家も出る。
それらは農家たちが率先して請け合った。
(これもみんなお父さんが、奮起して実現したことなんだよ。大きな仕事をやったんだよ。なにが不満なのよ)
だが、次郎はあきらかによろこんでいない。
テレビを眺めても、何も見ていない。たまに、せんべいの袋を握り締めていることがあった。
粉々にせんべいを砕き、手の甲にスジが浮くほどに強く握り締めていた。
晩、京子はテレビを見ている亭主の隣に座った。
リモコンをとってテレビを消す。亭主は画面が消えたことにも気づかないのか、そのまま動かなかった。
「お父さん。どうしたの」
京子は聞いた。
「なにかつらいことがあるの?」
「……」
次郎は目を落とした。
「わかんないんだよ」
「――」
「なんか動きたくない。畑に出るのがイヤなんだ」
京子は目を閉じた。
長く耐えたものが、腹の中で爆けた。
「ずっと、そうして籠もってたんじゃないの」
「――」
「テツさんたちが来るまで、ずっとメソメソ泣いて閉じこもってたんじゃないの。それがやっと、挽回できたんじゃない。お父さんのおかげで、この集落が元気を取り戻して、やっと仲良くなったんじゃない。やっとやり遂げたんじゃない! また寝込んじゃう気なの? また? いったいどうしたら気が済むの?」
「わかんねえよ!」
京子は目を瞠った。夫の形相が変わっていた。
「あんな坊主なんか呼ばなきゃよかった! あんな坊主、なんでいるんだ。なんで柵なんか! 柵なんか出来なくてよかったんだ!」
(なに? ……なにごと?)
次郎が京子に声を荒げたことは、これまで一度もなかった。
「あの柵、ひきちぎりてえ」
次郎は顎をふるわせ、歯を軋らせるように言った。
「金網破いて、斧で粉々に壊して、まったいらにしてやりてえ」
いきなり立ち上がり、部屋を出た。
「ちょっと、ダメよ――」
京子は追いかけたが、次郎は、頭冷やしてくるだけだ、と言って玄関から出て行った。
〔信州に伝わる無畏大師とご眷属さまのむかし話 その三〕
神犬手津丸が駆けすぎた後、狒々たちはすべて死骸となって、木から落ちた。
「なんと――」
赤目は一瞬のうちに眷属をうしなって喘いだ。おどろきはすぐに激怒に変わった。
「おのれ!」
赤目は雄たけびをあげ、枝を蹴って飛び降りた。
しかし、神犬はぶるんと身震いすると、牛よりも大きくなった。その大きな顎が飛びかかった。
「ア」
赤目が気づいた時には、腹に杭のような牙が刺さり、長い舌に巻き取られ、犬ののどに吸い込まれていた。
「手津丸、待て」
寛円が飛び出した。あわてて赤目の腕をつかむ。
「喰うてはならん! これほどの業深き妖怪じゃ。説法してやらねばならん。放しやれ」
しかし、畜生というものは一端口に入ったものは、主人の命令であっても出し難いもの。手津丸はもぐもぐ言ったが、赤目の下肢をしっかり咥えて放さない。
「これ! 放せというに」
寛円は赤目の脇に手を入れてふんばる。手津丸は奥歯を噛み締め、前肢をつっぱる。
断末魔の悲鳴があがった。
赤目のからだは上下半分にバッチリと千切れてしまった。
「あー……」
寛円は犬を見た。手津丸はのどを鳴らして下半身を飲み込んだ。ぺろりと鼻をなめると、主人の目を避けた。そのへんの栗のイガを転がし、そ知らぬふりをした。
寛円はしかたなく、赤目のからだを土の上に置き、
「まあ、ちょっと小さくなったが、ありがたい説法をしてやろう」
「なにがありがたい!」
赤目はギャアギャアわめいた。さすがの化生。どのような妖力か体が半分になっても、命があった。
「たれが説法なぞ聞くものか。くされ坊主、おまえを握りつぶし、喰ろうてやる」
「まあ――」
「高僧を喰らえば、わしの力は戻る。足も生えよう。近くば寄れ!」
「その話はさておき、ありがたい話をしてやろう」
「この話が肝心じゃ!」
寛円は少し困ったように赤目を見ていたが、
「ならば、喰え」
赤目の前に近づき、どかりと座った。正面から見据え、
「釈尊も飢えたトラの親子にわが身を――早いっ!」
赤目の指がすでに寛円の頭を掴んでいる。
「説法のあとでじゃ。先にありがたい話を聞け」
神犬が牙を剥き、唸っていた。赤目はしぶしぶ指を放した。
「話せ」
「うむ」
寛円は言った。
「その前に、わしを喰うても、その腹じゃすぐ出てしまうのでは」
「さっさと話せ!」
「ああ。では、話すぞ。わしは寛円という。おまえは赤目じゃな。赤と呼ぼう」
「なれなれし!」
「腹を割って話そうと――本当に割ってしもうたが」
「もう喰うてもよいか?」
寛円は言った。
「よし。赤、そなたは今、修羅界におる。修羅界というのは、争いの世界じゃ。世界には六道という六つの世界があってな。修羅界、畜生界……ふむむむい」
「?」
「修羅界、畜生界……などじゃ」
「ふたつだけじゃぞ」
「忘れた」
「おぬし、まことに高徳の僧なのであろうな?」
「いかにも。昔からもの覚えが悪いゆえ、坊主になった。悟ったら、万能に通ずるかと思うたが、そうでもなかった」
「わしはそんな坊主の説法を聞く必要があるのか」
「問題ない。よいか、赤丸よ」
「赤目じゃ!」
むろん赤目じゃ、と寛円は気をとりなおし、
「赤はいま、恨み争う修羅の世界におる。いま、わしを喰うて命ながらえても、いずれはたれかの牙にかかって果てるであろう。すると、また生まれても修羅界じゃ。憎み争う。退治される。……ずーっとじゃ。飽きぬか?」
「飽きぬ」
赤目は鼻でわらった。
「わしは殺し合いがすきじゃ。この先、千年でも戦いにあけくれたい」
寛円はうなずき、
「なにが好きなのじゃ?」
「勝つことよ」
「おう」
「立ちふさがる者を片端から、殺して喰らい、その死骸の上で跳ねる時の楽しさよ。強き者ほどうまき味がする。あれは、奥歯が震えてくるほどの楽しみよ」
その時、寛円はそばに控えている神犬に命じた。
「手津丸。その猿の上で跳ねてみよ」
手津丸は元の大きさに縮むと、地に落ちた死骸を転がし、乗りにくそうに乗った。何度か不器用にびょんびょん跳ねた。
寛円は赤目を見た。
「どうじゃ」
「――」
「どうじゃ?」
赤目は何も言わない。手下の死骸を狼藉されて悔しいという色はない。ただ、何かわけのわからないものを見たように、ぽかんと口を開いていた。
寛円は言った。
「赤よ。あれだけのことじゃ。そなたの魅入られている世界には、たったあれだけのことしかない。あとはそれじゃ」
寛円は赤目のちぎれた腹を指した。
赤目の顔に険しさが戻った。
「わしを弄るか」
「そうではない。わしは別の世界もあると言いたいだけじゃ」
寛円は言った。
「世界は六つあると言うた。いま全部言えぬが、それらを離れてさらに善きは、御仏の世界じゃ。赤には、そういう世界にいく道もある。化生にも仏性はあるのじゃ」
赤目は狭いひたいを寄せた。
「このわしにも仏性があるというのか」
「一切衆生、悉有仏性――生けるもの、ことごとく仏性を有す」
「――」
赤目は聞いた。
「仏の世界とはどんな世界か」
「言えぬ」
「はあ?」
「いわく言いがたい世界なのじゃ」
赤目が興ざめた顔になる。寛円は考え、
「そうじゃな。赤にわかるようにいうなら、敵のいない世界じゃ」