その日
お市はほぼ、作業現場にいない。
坊主頭に手ぬぐいを巻いて、上山田温泉に通い、山菜を売って歩いていた。
数日前から通い、試食と言って大量に山菜を配っている。蕎麦屋、みやげもの屋、温泉旅館にも営業をかけていた。
「おいしかったんだけどさ。定期的には入らないでしょ」
蕎麦屋の主人は苦笑いして詫びた。
「そうですよねー。天然ものですから、そこが苦しいとこで」
お市は笑い、
「ワラビはあと何日かなんですよねー。雪が溶けちゃいましたから。雪で地熱が保たれてたとこに、ワラビがぐぐぐっと育ってますからねえ。雪溶けると、ふわーっと大きくなるんですよね。だから、やわらかくて太くてうまいんですよ。山の地力が入ってるって感じで、食べると元気になる。これぞ、春の味わいなんですよねえ。いや、季節のもの食べると、風流なワクワクがありますよね。人生を大切にするっていうかね。そこらの野っ原に生えてたワラビは、ただ硬くてスジっぽいんですけどね。でも、雪消えたから、この一番うまい時期のワラビはあと、三、四日しかないんです。じゃまた、来年ですね。ご縁があったら」
それを聞いていた客が蕎麦を飲み込み、言った。
「それ買うよ。いくら?」
ほかにも二三、うちも、と客たちがサイフを出す。
お市はえびす顔を向け、ワラビのパックを出した。
「八百円です。ごいっしょにコシアブラもいかがですか?」
副校長のミオも時々、車で駆けつけた。
「なんか、みんなイケメンになってんじゃーん」
ミオは少年や農夫たちをからかい、その隣に並んで金網に針金を通した。
意外にも作業中は無駄口を叩かない。手先は器用で、髪にリボンでも結ぶように手早く針金を通して行く。その爪もいつのまにか短くなっている。
休憩時には持参した差し入れを配り、農夫たちを小突いて、にぎやかにしゃべった。
ひょっとこ欣司も時折来て、導線貼りを手伝っていた。テスターを持参し、ひとつひとつ通電具合を点検した。支柱に番号を振り、のちの管理表を作ったのもこの男だった。
少年が寝泊りする次郎の家には、昼飯も夕飯も、どこかしらから、おっかさんがやってきて、
「父ちゃんがこれもってけってさー」
と、菓子や大皿の惣菜を持ってくる。
辰吉はとくに少年たちが気に入ってしまい、自宅に招待して馳走したり、温泉に連れていった。
「おれはな。シナノゴールドのライオンと呼ばれた男だ」
「マジすか」
「そうよ。青森の連中にゃ、信州の獅子と恐れられた男よ」
辰吉は笑っている少年たちに、
「こういうのは大事なんだぜ。人生にはままならない時期がかならず来るんだ。その時、おれはライオンだ、と思えばふんばりが利く。ライオンとして受けてたつ。恥ずかしい真似もできねえ。ついこの間もな、こんな七十になってもな、腰がくだけそうになったことがあってな――まあいいや。おまえらもなんか、トーテム背負って見ろ。ちなみにあれがシナノゴールドの女豹だ」
と古女房を指す。
少年たちは笑ったが、その目には好意がこもっていた。
柵はめざましい勢いで伸張していた。日に七百メートル以上、進む日もあった。
――絶対に一周させる。
少年たちは意気込んでいた。
農夫たちは、
――たとえ、一周しなくてももういい。
とさわやかに思っていた。
四月五日。
少年たちは始業のために帰らねばならなかった。
「あと一キロ、八百五十」
少年たちは悔しそうだった。
「だいじょうぶだよ。もうできるよ」
農夫たちは笑った。
次郎は彼らを自家の農園へ案内した。一本のリンゴの木を見せ、
「これは藤原学園にプレゼントする。この木の収穫は十月ぐらいかな。送ってあげるよ。もし、リンゴ狩りがしたかったら、来てもいい。バーベキューでもするといいよ」
少年たちは歓声をあげて喜んだ。
お市がぼそっと、
「ついでに働いていったらいい。収穫も手伝ったらいい」
テツがペシッとその後頭部を叩く。
その晩は、集落あげての宴会になった。
(あと二キロか)
次郎は少年たちをねぎらい、農夫たちにもビールを注いでまわりながら、頭の隅で考えていた。
「次郎」
モトが赤い顔をして言った。
「うちは、蜂やる。だから、もう少しできるぞ」
蜂に受粉させるという。うちもだ、とほかの農家たちも陽気な声をあげた。
「やっちまおうや。最後まで、な」
その時、お市が携帯で話す声が通った。
「え。来ていただけるんですか。五人も! わお! 十日までいてくれる? ホントに? タダで? キャーこのお人好し! スバラシ村のステキング!」
人々がお市を見る。お市は次郎に携帯を差し出した。
「手伝い来てくれるって」
「だれ」
「リンゴの神。井上さん」
農夫たちは飲んでいたビールを吹きかけた。
井上農園のスタッフはすでに柵作りの経験がある。
資材を見て、すぐにそれぞれ作業に取り掛かった。
井上老人も挨拶に来た。次郎は恐縮したが、井上はにこにこと笑い、
「僕、声かけてくれるの待ってたんですよ。あれからずっと気にしてたんです」
「え――」
彼は集落の風景を見て、明るくなりましたねえ、と目を瞠った。
次郎ははじめて顔をあげた。
いつのまにか春の山の色になりかけていた。うっすらと萌黄を帯び、空気が和らいでいる。その下で人々が子すずめのように並んで柵を作っていた。
柵は四月九日に完成した。
十日、次郎の家で井上農園の五人を交えて、大きな宴を張った。
人々は安堵し、陽気だった。若者たちの肩を抱くようにして、ビールを注いだ。
そこにはJAの欣司もいた。
「ひょっとこー、安来節踊れー」
酔漢から野次られ、目を剥いてみせた。
「うるせーわ。てめえのひざの皿とってドジョウ掬うぞ」
藤原学園の少年たちからも、ネットの生中継の映像で祝いの言葉が送られてきた。
ミオが映像からピースサインを振り、
「おめでとー! シゲじい。これでおいしいリンゴ作れるねー」
よかったねー、と話すうちに泣き出した。
もよも号泣していた。京子が笑ってその背をさすると、
「秋祭り――あんなだったのに。見てよ、これ」
老農夫が次郎に酌をしている。次郎が恐縮して受けている。
モトが何か瑛太に話しかけている。辰吉は井上農園の若者を相手に、夢中で話していた。
シゲはノートパソコンごしにミオの話を聞いている。ビールで真っ赤になった春田の丸顔が笑っていた。よっしーと天狗屋が額を寄せて、笑いくずれている。
お市が声をはりあげた。
「さあ、楽しいお布施の時間ですよ」
彼は携帯をかかげ、
「わたくしの携帯がついに止まってしまいました。今月の携帯代、七千五百二十円。クラウドファンディングしまーす」
ワラビ売れ、と野次があがる。
「ノー。わたしと奥様方のワラビの純益一六〇万五千円は全部、杏花集落の獣害対策費につぎ込みました!」
人々から歓声と拍手が湧く。
「おれら、この旅で旅費のバイトするのは師僧に禁じられてんの。だから、ひとくち五百円、浄財をあのお地蔵さんの鉢に入れてください。エッブリバーディ、お布施パーリー! ヒャッフーッ!」
テツが鉢を両手にささげ、じゃがいも頭を下げる。人々は笑い、サイフを出した。
農夫が気づいて、
「おまえら、またどっか行くのか」
ほかの農夫も、
「ここに住めばいいじゃねえか。あの山寺、今空き家だぞ」
お市は笑った。
「おれらまだ阿闍梨じゃないから、住職にはなれないよ。でも、あと五日だけいてやろう。すいません、いさせてください」
「何すんだ」
「本業」
テツが言った。
「広円寺の境内が荒れてるので、少し木を伐って、整備しておこうかと」
おれも行こうか、と農夫が言ったが、
「掃除も修行なんで。ふたりでやります。みなさんはしっかりからだ休めてください」
蒼はサイフから五百円玉を出し、テツのそばへ行こうとした。その時、父親の顔が視界の端に映った。
――?
空気が違う。父の目だけが、その場で笑っていなかった。