白馬のお坊様
さて、ふたたび現代。
長野県を南北にうねる千曲川の傍、戸倉上山田温泉という昭和の風情を残した温泉街がある。
その温泉街の一角に、ひとりの僧が托鉢に立っていた。
網代笠を深くかぶり、片手に錫杖、片手に鉄鉢を持ち、ぼそぼそと心経を唱えている。
どこのジャングルを掻き分けて出てきたのか、というほどに薄汚れていた。
手甲脚絆は埃まみれ、黒い直綴はすそがほつれ、白衣の袖は破れている。頬の肉は削げ、あご髭もわずかに伸びていた。その誦経も細く、息に近い。
「あんたさ」
声をかけた者がある。
「そこで立つのやめなよ。店の前でに立たれると、迷惑だよ」
五十がらみの男が前に来て、托鉢僧を叱った。
コンビニのすぐ前だった。しかし、男はコンビニ店員ではない。
とげとげしく聞いた。
「どこの寺のお坊さん? ほんとうに坊さん?」
「――」
「ちょっと汚れすぎじゃないの? お坊さんって清潔も修行のうちだよね。どこの宗? ていうか、坊主じゃないだろ。坊主の格好したホームレスだろ」
後方で誰かが騒いでいた。
だが、男は憑かれたようにしゃべり続けた。
「おれはこういうやからが一等許せないんだよ。働きもせず、ひとの金でうまいもの喰って生きていこうという性根がさ。おまえら、他人のことなんかぜんぜん考えてないだろ。その金をひとさまがどんなに苦労して作ってるか、考えないだろ。おまえら、良心はあんのか」
托鉢僧の錫杖がざっと横に薙いだ。男は腰から打たれつんのめった。
「何す――」
振り向いた時、茶灰色の塊が渦を巻いて飛び込んできた。尖った牙が跳ねた。
同時に太い五指がその毛皮をわしづかむ。僧の黒衣が躍った。
(え)
僧の下で、黄色い牙を突き出したイノシシが、引き攣れるような悲鳴をあげながら足掻いている。僧は力強い指で獣の耳をつかみ、馬乗りになり、後肢を掴もうと片手を伸ばしていた。
(イノシシを? 素手で捕まえた?)
男は言葉もなく、僧を見つめた。
誰かが、猟友会に連絡しろ、と叫んだ。
「あ」
その途端、イノシシがびゅっとすり抜け逃げた。千曲川のほうへ、まっしぐらに駆けて行った。
「事故だから」
僧は言った。
「逃がしたんじゃないから」
そう言って、錫杖と鉄鉢を拾い、そそくさと立ち去った。
男は僧を探し回った。
ようやく千曲川の川べりでキャンプしている僧を見つけた。
僧は小さな焚き火のそばに、ひざを抱えて座っていた。そばには真っ赤な寝袋があり、そこにもうひとつ禿頭がのぞいている。
「――」
僧はこちらを見た。
まだ若かった。頭はじゃがいものようにごつごつといびつで、針のように細く鋭い目が光っている。ひざの前に組んだ手は不吉なほどいかつい。
男はなんと言ったものか迷った。
「あのね。あんたね」
なぜか文句が出た。
「イノシシ逃がしただろ。ああいうの独善て言うんだよ。百姓の迷惑をぜんぜん考えてない。あいつらはドングリ喰ってんじゃないんだ。百姓の生き血すすって生きてんだよ。殺さなきゃダメなんだ」
「……」
僧はひざを抱えたまま動かない。
火には鉄鍋がかかっていた。鍋には水が張られ、そこに小さな粒が五六個沈んでいた。
尖ったドングリ――シイの実である。
(……)
男はコンビニの袋を差し出した。
「これ。お布施」
はじめて、僧は電池が入ったように立ち上がった。
「ありがとうございます」
合掌して、袋を受け取る。中のおにぎりや茶のペットボトルを見ると、ぱあっと若者らしい明るい笑みをつくった。
おい、と相棒の寝袋を叩く。
「ご挨拶」
相棒のほうは白い顔をしていた。細面で目鼻の造作が大きい。目の下に青黒いくまがあり、あきらかにやつれていた。
大儀そうに起きて合掌し、またぱたりと倒れた。
じゃがいものほうが詫びて、
「ここしばらく腹を下してて。もう治ったんですが、体力がないものですから――。ア、わたくし、水戸の白馬山明王寺(はくばさんみょうおうじ)法嗣、平鉄舟(たいらてっしゅう)と申します。――これ」
と、頭陀袋から度牒(僧籍証明書)を出して見せた。
男は少し気まずく頭をさげ、
「三好次郎(みよしじろう)と申します。リンゴ作ってる農家です」
「ああ、――イノシシ、すいません」
次郎は聞こえぬふりをして、
「あんたがた、善光寺に行くの?」
「いえ。杏花集落というところに」
「え。なんで」
「広円寺という寺があるんです」
次郎は言った。
「その寺はもう誰もいないよ。たまに光明院から坊さんがきてくれるけども」
「いいんです。祖跡――無畏大師さまの足跡をめぐる修行をしているので、ご挨拶だけしてくるんです」
次郎は少し考え、言った。
「じゃ、おれんちに来な。おれんちはその集落にある。そっちの坊さんもうちで養生したらいい」
寝袋の坊主が寝たまま、わーい、と力ない声で言った。
「わたし、寒川市安(さんがわしあん)といいます。お市と呼んでいいよ」
――え、弥市?
次郎は妙に聞きなれた名を聞いた気がした。
次郎の女房、京子は亭主を迎え、おどろいた。
亭主は若いふたりの行脚僧を連れて帰ってきた。
まっさきに、
――ついに宗教に走った。
と思った。
この二年、亭主はふさぎこむことが多く、この冬の収穫を終えてからは、風邪だといってふとんから出ない日が多くあった。
それがめずらしく温泉に行く、と言って出て行った。何度勧めてもグズグズ出かけなかったものが、自分から出て行き、珍客を連れて帰ってきた。
「なんなのあの坊さん」
高校生の息子も不安そうに聞く。
片方の僧は、座に耐えられないほどに弱っており、挨拶もそこそこに寝入ってしまった。
片方の僧は礼儀正しかったが、食事を出すと、高速で箸を動かし、またたくまに五合飯を食い尽くした。
次郎はめずらしく機嫌がよく、僧を相手に晩酌してしゃべっている。
「父さん、仏に救いを求めちゃった?」
息子も同じ事を考えていた。
「でも、幸せなら、あれもありかもね」
「バカ言ってんじゃないわよ。あんた、お父さんがへんな仏像買うとか言い出したら、全力で止めるのよ」
京子は頃合を見て、僧に風呂を勧めた。ふたりきりになると亭主に詰め寄った。
次郎はイノシシから助けられたいきさつを話し、しばらく泊めるつもりだと言った。
「仏様にもお礼しないとな。なんか運が向いて来た気がするんだ」
「?」
「じつはな――」
次郎は打ち明けた。
「詐欺団が捕まったらしいんだ」
昨年の暮れ、次郎は詐欺に遭った。
オリンピック関連の建設を請け負う、ホープ建設という建設会社の社債を三百万円ほど買った。買うつもりはなかったが、
――あとで六百万で買い取る。代わりに買ってくれ。
という電話がかかってきて、代理で買った。
六百万、という値段に、つい天啓を感じてしまった。
ところが、購入後、その社債を買い取ると言った者は、ふっつり消えた。またホープ建設なる会社も実在しなかった。
次郎は三百万失って、寝込んだ。
「昨日、東京の弁護士さんから電話があってな。捕まった犯人のひとりが政治家の親戚で、この件、示談にして欲しいらしいんだ。示談なら、全額に慰謝料つけて返してくれる可能性があるっていうんだよ。その弁護士さんに依頼するなら、いっしょに交渉してくれるって」
ホープ社債詐欺には多くの被害者がおり、弁護士グループがその救済にあたっているという。
「で、今日、交渉をお願いしてきたのさ」
その時、ふすまが開いた。隣室で寝ていたお市坊のほうが、ずるずる這うように入って来た。
「それダメ」
お市坊は座布団の上にたどりつくと、スマホを取り出した。次郎に、
「弁護士さん、なんて名前?」
「え、庄治一郎先生」
僧はしょぼしょぼした目でスマホの画面を繰った。電話をかけ、
「庄治先生ご本人ですか。寒川と申します。つかぬことをうかがいますが、先生は、ホープ建設の社債詐欺の件を請け負ってらっしゃいますか」
ハンズフリーにして、スマホを突き出す。声が、
――ホープ建設? 存じませんが。どういうことでしょうか。
「ホープ建設の詐欺団の件、庄治先生が示談の交渉をなさるという話はございませんか」
――え? ホープ? わたしがですか。いいえ、……なにかのお間違えでは。
次郎は気づき、総毛立った。電話の声がまったく違っていた。
お市は、
「先生、悪党に名前使われてますよ」
と、電話を切った。
お市はにぶい目を次郎に向けた。
「それ救済詐欺。お金振り込んじゃった?」
「……」
お父さん、と京子が腕をつかんだ。
次郎は答えられなかった。畳が崩れて砂になったように、からだが沈んで動けなかった。
六十万円が、また消えた。
お市が聞いた。
「振込み? 郵送?」
振込み、と次郎が言った。
「何時? 三時過ぎなら、まだ決裁してない」
「……」
京子にせっつかれて、次郎はサイフからATMの利用明細票を出した。時間は、
――十五時○二分。
「ラッキ」
お市はそれを見て、さらにスマホのページを繰る。
「ふるさと銀行――よかった。ここは二十一時まで取り消しできる。組戻しにもならないですむよ。今すぐ電話して。あと警察にも」
だが、次郎はすくんだまま動けないでいる。京子が聞いた。
「銀行のどこに電話をかければいいの?」
「代表でいいよ。まわしてくれる。――ギリギリまにあってよかったね」
お市はまた這うように隣室に戻り、
「お父さんが仏心起こして、おにぎり買ってくれたからだよ。仏さまは見てるねえ」
ぱたりと障子を閉めた。