表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/24

白馬のお坊様

 さて、ふたたび現代。

 長野県を南北にうねる千曲川の傍、戸倉上山田温泉という昭和の風情を残した温泉街がある。

 その温泉街の一角に、ひとりの僧が托鉢に立っていた。


 網代笠あじろがさを深くかぶり、片手に錫杖、片手に鉄鉢を持ち、ぼそぼそと心経を唱えている。

 どこのジャングルを掻き分けて出てきたのか、というほどに薄汚れていた。

 手甲脚絆は埃まみれ、黒い直綴じきとつはすそがほつれ、白衣の袖は破れている。頬の肉は削げ、あご髭もわずかに伸びていた。その誦経も細く、息に近い。


「あんたさ」


 声をかけた者がある。


「そこで立つのやめなよ。店の前でに立たれると、迷惑だよ」


 五十がらみの男が前に来て、托鉢僧を叱った。

 コンビニのすぐ前だった。しかし、男はコンビニ店員ではない。

 とげとげしく聞いた。


「どこの寺のお坊さん? ほんとうに坊さん?」

「――」

「ちょっと汚れすぎじゃないの? お坊さんって清潔も修行のうちだよね。どこの宗? ていうか、坊主じゃないだろ。坊主の格好したホームレスだろ」


 後方で誰かが騒いでいた。

 だが、男は憑かれたようにしゃべり続けた。


「おれはこういうやからが一等許せないんだよ。働きもせず、ひとの金でうまいもの喰って生きていこうという性根がさ。おまえら、他人のことなんかぜんぜん考えてないだろ。その金をひとさまがどんなに苦労して作ってるか、考えないだろ。おまえら、良心はあんのか」


 托鉢僧の錫杖がざっと横に薙いだ。男は腰から打たれつんのめった。


「何す――」


 振り向いた時、茶灰色の塊が渦を巻いて飛び込んできた。尖った牙が跳ねた。

 同時に太い五指がその毛皮をわしづかむ。僧の黒衣が躍った。


(え)


 僧の下で、黄色い牙を突き出したイノシシが、引き攣れるような悲鳴をあげながら足掻いている。僧は力強い指で獣の耳をつかみ、馬乗りになり、後肢を掴もうと片手を伸ばしていた。


(イノシシを? 素手で捕まえた?)


 男は言葉もなく、僧を見つめた。

 誰かが、猟友会に連絡しろ、と叫んだ。


「あ」


 その途端、イノシシがびゅっとすり抜け逃げた。千曲川のほうへ、まっしぐらに駆けて行った。


「事故だから」


 僧は言った。


「逃がしたんじゃないから」


 そう言って、錫杖と鉄鉢を拾い、そそくさと立ち去った。





 男は僧を探し回った。

 ようやく千曲川の川べりでキャンプしている僧を見つけた。


 僧は小さな焚き火のそばに、ひざを抱えて座っていた。そばには真っ赤な寝袋があり、そこにもうひとつ禿頭がのぞいている。


「――」


 僧はこちらを見た。

 まだ若かった。頭はじゃがいものようにごつごつといびつで、針のように細く鋭い目が光っている。ひざの前に組んだ手は不吉なほどいかつい。

 男はなんと言ったものか迷った。


「あのね。あんたね」


 なぜか文句が出た。


「イノシシ逃がしただろ。ああいうの独善て言うんだよ。百姓の迷惑をぜんぜん考えてない。あいつらはドングリ喰ってんじゃないんだ。百姓の生き血すすって生きてんだよ。殺さなきゃダメなんだ」

「……」


 僧はひざを抱えたまま動かない。

 火には鉄鍋がかかっていた。鍋には水が張られ、そこに小さな粒が五六個沈んでいた。

 尖ったドングリ――シイの実である。


(……)


 男はコンビニの袋を差し出した。


「これ。お布施」


 はじめて、僧は電池が入ったように立ち上がった。


「ありがとうございます」


 合掌して、袋を受け取る。中のおにぎりや茶のペットボトルを見ると、ぱあっと若者らしい明るい笑みをつくった。

 おい、と相棒の寝袋を叩く。


「ご挨拶」


 相棒のほうは白い顔をしていた。細面で目鼻の造作が大きい。目の下に青黒いくまがあり、あきらかにやつれていた。

 大儀そうに起きて合掌し、またぱたりと倒れた。

 じゃがいものほうが詫びて、


「ここしばらく腹を下してて。もう治ったんですが、体力がないものですから――。ア、わたくし、水戸の白馬山明王寺(はくばさんみょうおうじ)法嗣ほっし、平鉄舟(たいらてっしゅう)と申します。――これ」


 と、頭陀袋から度牒どちょう(僧籍証明書)を出して見せた。

 男は少し気まずく頭をさげ、


「三好次郎(みよしじろう)と申します。リンゴ作ってる農家です」

「ああ、――イノシシ、すいません」


 次郎は聞こえぬふりをして、


「あんたがた、善光寺に行くの?」

「いえ。杏花集落というところに」

「え。なんで」

「広円寺という寺があるんです」


 次郎は言った。


「その寺はもう誰もいないよ。たまに光明院から坊さんがきてくれるけども」

「いいんです。祖跡――無畏大師さまの足跡をめぐる修行をしているので、ご挨拶だけしてくるんです」


 次郎は少し考え、言った。


「じゃ、おれんちに来な。おれんちはその集落にある。そっちの坊さんもうちで養生したらいい」


 寝袋の坊主が寝たまま、わーい、と力ない声で言った。


「わたし、寒川市安(さんがわしあん)といいます。おいちと呼んでいいよ」


 ――え、弥市?


 次郎は妙に聞きなれた名を聞いた気がした。





 次郎の女房、京子は亭主を迎え、おどろいた。

 亭主は若いふたりの行脚僧を連れて帰ってきた。

 まっさきに、


 ――ついに宗教に走った。


 と思った。

 この二年、亭主はふさぎこむことが多く、この冬の収穫を終えてからは、風邪だといってふとんから出ない日が多くあった。


 それがめずらしく温泉に行く、と言って出て行った。何度勧めてもグズグズ出かけなかったものが、自分から出て行き、珍客を連れて帰ってきた。


「なんなのあの坊さん」


 高校生の息子も不安そうに聞く。

 片方の僧は、座に耐えられないほどに弱っており、挨拶もそこそこに寝入ってしまった。

 片方の僧は礼儀正しかったが、食事を出すと、高速で箸を動かし、またたくまに五合飯を食い尽くした。

 次郎はめずらしく機嫌がよく、僧を相手に晩酌してしゃべっている。


「父さん、仏に救いを求めちゃった?」


 息子も同じ事を考えていた。


「でも、幸せなら、あれもありかもね」

「バカ言ってんじゃないわよ。あんた、お父さんがへんな仏像買うとか言い出したら、全力で止めるのよ」


 京子は頃合を見て、僧に風呂を勧めた。ふたりきりになると亭主に詰め寄った。

 次郎はイノシシから助けられたいきさつを話し、しばらく泊めるつもりだと言った。


「仏様にもお礼しないとな。なんか運が向いて来た気がするんだ」

「?」

「じつはな――」


 次郎は打ち明けた。


「詐欺団が捕まったらしいんだ」


 昨年の暮れ、次郎は詐欺に遭った。

 オリンピック関連の建設を請け負う、ホープ建設という建設会社の社債を三百万円ほど買った。買うつもりはなかったが、


 ――あとで六百万で買い取る。代わりに買ってくれ。


 という電話がかかってきて、代理で買った。

 六百万、という値段に、つい天啓を感じてしまった。

 

 ところが、購入後、その社債を買い取ると言った者は、ふっつり消えた。またホープ建設なる会社も実在しなかった。

 次郎は三百万失って、寝込んだ。


「昨日、東京の弁護士さんから電話があってな。捕まった犯人のひとりが政治家の親戚で、この件、示談にして欲しいらしいんだ。示談なら、全額に慰謝料つけて返してくれる可能性があるっていうんだよ。その弁護士さんに依頼するなら、いっしょに交渉してくれるって」


 ホープ社債詐欺には多くの被害者がおり、弁護士グループがその救済にあたっているという。


「で、今日、交渉をお願いしてきたのさ」


 その時、ふすまが開いた。隣室で寝ていたお市坊のほうが、ずるずる這うように入って来た。


「それダメ」


 お市坊は座布団の上にたどりつくと、スマホを取り出した。次郎に、


「弁護士さん、なんて名前?」

「え、庄治一郎先生」


 僧はしょぼしょぼした目でスマホの画面を繰った。電話をかけ、


「庄治先生ご本人ですか。寒川と申します。つかぬことをうかがいますが、先生は、ホープ建設の社債詐欺の件を請け負ってらっしゃいますか」


 ハンズフリーにして、スマホを突き出す。声が、


 ――ホープ建設? 存じませんが。どういうことでしょうか。


「ホープ建設の詐欺団の件、庄治先生が示談の交渉をなさるという話はございませんか」


 ――え? ホープ? わたしがですか。いいえ、……なにかのお間違えでは。


 次郎は気づき、総毛立った。電話の声がまったく違っていた。

 お市は、


「先生、悪党に名前使われてますよ」


 と、電話を切った。

 お市はにぶい目を次郎に向けた。


「それ救済詐欺。お金振り込んじゃった?」

「……」


 お父さん、と京子が腕をつかんだ。

 次郎は答えられなかった。畳が崩れて砂になったように、からだが沈んで動けなかった。

 六十万円が、また消えた。


 お市が聞いた。


「振込み? 郵送?」


 振込み、と次郎が言った。


「何時? 三時過ぎなら、まだ決裁してない」

「……」


 京子にせっつかれて、次郎はサイフからATMの利用明細票を出した。時間は、


 ――十五時○二分。


「ラッキ」


 お市はそれを見て、さらにスマホのページを繰る。


「ふるさと銀行――よかった。ここは二十一時まで取り消しできる。組戻しにもならないですむよ。今すぐ電話して。あと警察にも」


 だが、次郎はすくんだまま動けないでいる。京子が聞いた。


「銀行のどこに電話をかければいいの?」

「代表でいいよ。まわしてくれる。――ギリギリまにあってよかったね」


 お市はまた這うように隣室に戻り、


「お父さんが仏心起こして、おにぎり買ってくれたからだよ。仏さまは見てるねえ」


 ぱたりと障子を閉めた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ