真夜中のお坊さん
お市とテツは寒風にふるえながら、庭に立っていた。
縁側のサッシのむこうに、シゲが見える。シゲはふたりを尻目に、こたつにあたり、茶を飲みながらテレビを見ていた。
「じじい」
お市は洟をすすってわめいた。
「出遅れてる! すっかり出遅れてる。もう、モトじいもたぬ吉も立ち直って、草刈りに出てきてる。あいつらは井上周五郎に勝つ気なんだ。まだファイティングポーズなんだ。あんたどうした? みすみすやつらに先を越させるのか。あんたも勝ちたいだろ。杏花集落の三銃士だろ。それならば、さきにサルに勝たなければダメだあー!」
シゲは立ち上がった。少し奥の間に消えると、戻ってきてサッシを開けた。
「おう、シゲ――」
お市が見上げる。シゲはその顔にバケツの水をぶっかけた。
またサッシを閉め、障子も閉めた。
「てんめえ」
お市は顔をぬぐって怒鳴った。
「このたくわんじじい! 仏の顔が三度あると思うな! てめえなんざ、お釈迦様でも上あごとっぱらって、信州味噌つめて、とった頭蓋骨は木魚がわりにどつき倒して」
これ、とテツが袖を引く。
お市は洟をすすり、
「とにかく早く出てきなさい。シゲのくせに打たれ弱すぎ! このガラスの七十代が! いいかげんにしろ! クソ寒い! うええ、寒い。おれはあきらめねえぞ。このチキンじじい! カーネル・サンダース! チキンバーレルもって出てこい! 早く出ろー!」
凍るような山おろしの風の中、ふたりはいつまでも庭に立っていた。
十六家の農家は、だんまりのまま草を刈り続けた。
すでに半周して、残りは五キロほどである。あいかわらず会議にならなかったが、次郎は、
「イノシカ、ハクビシンの複合型電気柵で進めてまいりたいと思いますので」
周知はした。
この時はじめて、
「サルはカバーしねえのか」
辰吉が四角い顔をあげて言った。
「みんな、サルに困って集まってんじゃねえのか?」
次郎は発言をよろこんだが、返答には困った。
「サルももちろん防ぐはずなんですが……」
自信がなかった。サルは賢く、どんな柵を作っても、よじ登り、すり抜けてきてしまう。
辰吉は言った。
「おれはモンキードッグがいいんじゃねえかと思うんだが」
人々も顔をあげた。
モンキードッグとは、サルを追うように訓練された犬である。サルを見つけると吼えて脅し、山へを追い払う。
長野県大町市で導入がはじまり、猿害に効果てきめんといわれていた。いまや全国にひろがっている。
「犬が勝手にサルを追ってくれれば、夏はかなり助かるんじゃねえか」
「あれはいいですねえ」
次郎は明るい声で応じた。
だが、ポン太郎の主人よっしーは、銃に手をかけるように緊張しつつ、
「お言葉だが、犬は勝手にサルを追い掛け回してくれるわけじゃなくて、そのたびに人間が綱を放すんですよ。犬が自動でパトロールしてくれるもんじゃない」
「そうなのかい」
「あれは基本、群れを奥山に追いやるために、犬と人間がいっしょにパトロールに出るんです。飼い主がそのたびについてかなきゃいけない。つまり一部の飼い主の負担になるんです」
ほかの農夫も流れ弾に用心しながら、
「それにあれは住民全員の承諾がいるんだよな。一時でも、犬を放すからには」
訓練費もかかる、と別の男が低く言った。
辰吉は聞いた。
「よっしー、おまえの家はサルは出るか」
「……少ないです」
「天狗屋はどうだ」
天狗屋も首を振った。
「うちはもっぱら、女房の畑に来るイノシシですね。あそこにはチビ子は放せないから」
辰吉は得たりと笑い、
「犬は効果があるんだよ。だが、どの家もつないでたり、離れた畑までカバーすることができねえんだ。だが、集落で導入を決めれば、枠をとっぱらって害獣を追える。柵だけじゃダメだ。犬も必要だ」
よっしーはむすっと、
「しかし、凶暴な犬もいますからねえ」
天狗屋がチラリと見て、
「ひとんちに入るバカな犬もな」
「!」
よっしーがあごをつきあげた瞬間、次郎は急いで、
「たしかに調整する問題はあるけど! 考えてみる価値はあるんじゃないですか。この場で結論しないで、持ち帰って考えてみましょうよ。持ち帰りましょう!」
モトが言った。
「金はどうするんだ?」
「え」
「集金すんだろ。一戸、いくらかかるんだ」
次郎はとまどった。
「まだちょっと――」
「また三十万ぐらいか」
人々の顔がみるみる硬くなった。
「いや、今度はちゃんと交付金出るはずですので、そこまではかからないはずです」
「でも、犬やるなら、犬の訓練費だって、飼い主に出させるわけにいかんだろう」
次郎は、計算します、とすばやくうなずいた。
「犬も助成金出ると思いますから。近日中に――じゃ、今日はここまでで」
金の話になり、人々の顔が暗くなっていた。次郎にはその顔によぎった怯えがわかった。
彼らの持ち寄った草刈り機は、よく手入れされていたが、型が古かった。
どの家も借金漬けである。返済しても借金は根雪のように溶けない。ここ数年、収入はとても低かった。
新たに金を借りさせるのは、次郎も胸が痛かった。
お市とテツが杏花集落に戻ってきたのは、夜中の一時過ぎだった。
上山田から歩きどおしで、お市はへこたれていた。
「キンちゃんて抜けてるよね」
「悪口言わない」
「ごはんごちそうしてくれてさ。温泉も入れてくれてさ。――どうして帰りの足のことは心配してくれないのさ」
「キンちゃんはな、おまえにたかられまくるんじゃないかと戦々恐々としてたんだよ。昼飯、おやつ、晩飯、温泉と一日サイフがわりにされて。早くゴロツキから離れたかったんだ」
「それがビジネスというもの」
「資材、農協から買わねえのに、どこがビジネスなんだ」
「農家あっての農協」
「市安さん、少し自重しなさい」
「大盛りを頼んだのは兄弟子ですよ。アンズあんみつまで頼んで、どの口がそういう――」
シッとテツが手で制した。
寝静まった集落に、かすかな犬の吠え声がしていた。はげしい、緊急事態の吠え方だった。
山に囲まれた集落は市道以外ほぼ真っ暗な闇である。この時間に起きている家も少なかった。
お市はいぶかった。
「クマ――?」
テツはすでに走り出していた。
吃音のあるイケメン若手農家、瑛太は家のなかで携帯を握り締め、立ち往生していた。
下で、愛犬のガブが激しく急を告げている。
目を覚ました時、
――あの坊主ども。
と、真っ先に思った。
しかし、ガブの様子が変だった。ガブは、てっちゃんと呼ばれる肩の肉の厚い坊主には吠えない。
(?)
窓から下をのぞき、瑛太はぞっと総毛立った。
黒い頭が数人、倉庫の前にいる。戸を開け、中から荷を運び出していた。
(ど、泥棒。110番!)
しかし、携帯電話を出したものの、そこで戸惑った。こんな時ですら、言葉が詰まるのが怖かった。にわかに気後れしてしまい、彼は電話を持ったまま、動けずにいた。
その時、声が聞こえた。
――おい、犬を黙らせろ。
すぐにガブの悲鳴があがった。吠え声が聞こえなくなった。
瑛太のからだの血が冷えた。
知らず階段を駆け下りていた。立てかけてあったコードレスの掃除機をつかむと、サッシをあけて飛び出した。
「ガブ!」
センサーが反応して、明りがついた。
スポットライトを浴びたように、地面に倒れたガブが映し出された。胸から黒い血の泡が噴き出し、しぶきが光っていた。
瑛太は宙を掻くように飛び上がった。
黒い頭に向かって、メチャクチャに掃除機で叩きつけた。
わめき声が聞こえ、掃除機が何かにひっかかる。腕を硬いもので打たれた。腹を殴られ、内臓がのどに突き上げた。
ガツンと金属質のものが頭蓋と打った。
地面にひざをつくと、重い靴が雨あられとふりそそいだ。
いつのまにか、ガブの影を見ていた。ガブの腹の下にあきらかに黒い血だまりが広がっていた。
「これで最後だ」
黒い頭が倉庫から出てきた。
後方でひとりがトラックのドアをあける。その途端、ドアの音が勢いよく開き、何かが吹っ飛ぶ音がした。
「!」
瑛太は目を動かした。
白い頭が、トラックから出てきた。落ちた男のどこかを踏んだのか、悲鳴があがる。
「なんだ」
黒い頭たちは新たな人影にたじろいた。
白い頭の袖は白かった。その袖が閃き、牙のように飛びかかった。
黒い頭たちは一瞬、うろたえたものの、すぐに反撃の体勢をとった。
瑛太はぼんやりと影の格闘を眺め、激しい足音を聞いていた。
たがいに言葉を発さない。四つの黒頭が白頭に襲い掛かっている。
白頭だけは別の生き物のように動きが速かった。確実にひとりひとりを掴まえ、拳を叩きこんだ。ひるんだ襟首をつかみあげ、ひざで腹を突き刺す。
一瞬、ライトのなかに白い顔が映った。目が大きく瞠き、口が裂けるように笑っている。その白い歯がぎらりと光って見えた。
「ッ――」
最後のひとりが声にならない悲鳴を発してくず折れた。
白い頭――テツは瑛太に近寄り、首をつかんで脈を見た。
「――ガブが――」
瑛太は声をしぼりだした。
ガブが血だまりのなかに倒れている。その腹がわずかに揺れていた。
テツはガブの傷を見て、顔をしかめた。手ぬぐいをだし、その傷口を押さえると、
「お市ィーッ! 救急車! あと、三好のお母さんを呼べ!」