酒場のスイングドアから、入ってきた男
翌日、杏花の女房ネットに、また電話の早馬が駆け巡った。
――三好さんとこに来てるの、あの井上周五郎だって!
――周五郎?
――カリスマ農家よ。あの農園ひとつで、年商十億以上あんのよ。
――おおお。
――あそこは会社なのよ。お弟子さんがいっぱいいるの。
――なに、三好さん、弟子入りすんの? フランチャイズかなんか?
――わたしも雇っていただきたい。パートでいい。
――パパ、すっごいそわそわしてる。
――うちの父ちゃんも、畑見てくるって言ってったよ。いつも黙って出て行くのにさ(笑)。
――いま、三好さんの畑だ(笑)。
女房たちの口を介して、噂は農夫たちにも知れ渡っていた。カリスマ農家の来訪に、彼らは女子学生のように落ち着きがなくなった。
(リンゴの神は、どんなこと言うんだろう)
さりげなく三好の畑を遠巻きに見ていく者もいれば、
(絶対、うちの畑には近寄らせねえ!)
耳をふさぐようにして、がむしゃらに作業をしている者もいる。
三銃士のシゲは後者だった。
(何が神だ。年商十億なら神か。そんなら、自動車でも作ってろってんだ)
畑仕事に肩書きが通用するか、とバチバチ枝を切り落とした。
その時だった。
「重久さんですか」
振り向くと、枝の間から、小さい白髪頭の老人がニコニコと見上げていた。
少しうしろにJAの姉崎と次郎が立っている。
シゲは脚立から転げ落ちそうになった。
「え、あ、ハイ」
シゲは飛び降り、脚立を抱え、また脚立を置いた。
小柄な老人は名刺を差し出した。
「わたし、松本でリンゴ作ってる井上と申します。杏花集落の重久さんに、一度お目にかかりたくて」
「え。おれ、わたしに?」
また脚立を抱えてしまい、名刺を受け取るために脚立が邪魔で手が伸びなかった。二本指で受け、脚立を抱えてペコリとお辞儀をする。
後ろから次郎が、
「シゲさん。井上さん、シゲさんの畑見たいって言ってんだが、いいかな」
「おめ、なんでここにいんだ。うちの畑? なんでうちの畑」
勉強させてください、と井上が言った。
「シナノスイートの名人の畑を一度見てみたくて。ご迷惑でなければ是非」
シゲは神から名人と呼ばれて、頭に血をのぼらせた。
「あ、ああ、あああ、どうぞ。好きに。好きなだけ見てってください」
「ありがとうございます――」
さっそく井上は木の間を歩き、畑を見てまわった。
シゲがその後ろをついていく。ハシゴは抱えたまま、井上の問いにへこへこと答えていた。
何か聞かれるが、声がうまく出ず、昔話の百姓のように深く頭を下げてしまう。
「あんなシゲさん、はじめて見るわ」
三好はあ然とつっ立っていた。
「自分の結婚式でもあれよりはリラックスしてたわ」
JAの欣司も、いつもよりさらに目が丸くなっている。
「ぼくには柿ぶつけてきたのに」
井上は次に『シナノゴールドのライオン』辰吉の畑に行った。
辰吉もまた、うろたえきっていた。
天下の副将軍水戸光圀を迎えた農民のように畏れ入り、ろくに口がきけない。
何を言われても、へらへら笑うことしかできず、通訳に、次郎が必要なほどだった。
井上はべつに気にする風もなく、辰吉の畑を見て、その仕事ぶりを賞賛した。
今は見えないほかの季節のことも、同じリンゴ農家ならわかる。その仕事をほめられ、辰吉は泣き出しそうになった。
「あのさ」
井上の様子を見て、JAの欣司は、お市に文句を言った。
「じいさんたちをぎったんぎったんに、やっつけてくれるんじゃなかったの」
「――」
「なんか、ほめまくってんじゃん。みんな、有頂天になってよろこんでんじゃん。あれなに? ホメ殺し?」
「だって、井上さんが好きにやりたいって言うんだもん」
お市の計画は単純だった。
農家は、土に触ったこともないような人間の言うことは聞かない。
それゆえ、同じ土俵で勝負してきた神を引っ張り出してきた。神に非をとがめられれば、恐懼して聞くだろう――。
だが、神にはまた別の考えがあるらしい。
「元木さん。――僕、あの十一年のサンふじ食べましたよ。素晴しかった!」
エアガンで坊主たちを威嚇したモトは、小娘のようにはしゃいでいた。
「や、そんな、お恥ずかしい。――さあ、どうぞ。いやどうも、お迎えもしないで」
「それは――」
「あ、これ? これおもちゃなんですよ。孫がこういうの好きで」
ささ、どうぞ、と旅館の女将のように農園を案内する。
井上は無邪気に畑を見てまわった。
「この土――ご苦労なさったでしょう」
どの農家のことも惜しみなく褒めた。畑を見て、その工夫にうなずき、リンゴを食べて涙を浮かべた。
JAの欣司は案内しながら、小声で、
「そんなにおいしかったですか」
と聞いた。
「おいしかった」
井上はうなずいた。
「凄いひとたちです」
「――」
「あなた、あの農園見ましたか」
「はあ――」
井上は言った。
「どれだけ一所懸命仕事してきたかわかるでしょう」
「……」
「僕ね。つい想像してしまうんです。このひと、こんな顔してリンゴの花摘んでるな。文句ひとつ言わずに、何千個と花摘んでるんだな、だるい腕で脚立運んでるんだな、とかね。枝振りをこうしよう、ああしようって真剣に考えてる顔とかね。雨が長くて気をもんでる顔、一個一個玉回しして、葉摘みして、次の畑を見る疲れた顔とか。秋晴れの空の下できれいに染まったリンゴを見る安心した顔。そういうのが、ばーっと浮かんでくるんです」
井上は集落を囲む山の稜線に目を細めた。
去年はひょうが降った。夏は雨がつづき、秋の台風には落果もあった。
それだけの失意とあきらめと期待のなかで出荷され、きれいに色づいたリンゴが店頭に並ぶ。
――だが、その苦労に見合う対価を得ているのだろうか。
それは言わず、欣司を見て笑った。
「あなたもタダモノじゃないね。むかし何があっても、こうして農家さんに寄り添ってんだから。怒ってるふりして、本当は助けたかったんじゃないですか」
翌朝早く、マイクロバスがエンジンをかけたまま三好家の前に止まっていた。
JAの欣司は、白い息を吐きつつ、
「来るんですかねえ。あのひとたちがまともに集団行動しているの見たことないですよ」
京子もコートの腕を組んでふるえながら、
「一応、来ないとは言わなかったけど。これで来なかったら、どうしようもないわね」
「だいたい、こんなの意味あるんですかね。害獣防除に」
「さあ、お市ちゃんはなんか考えがあるんじゃない」
「あのふたりは?」
あそこ、と京子は農道を指した。
テツがわめく農夫を背負って走っていた。別の家からは、お市がべつの農夫をせきたてて出てくる。
「わお、強制連行」
「あ」
京子は白い息を吐いた。
凍った市道の上を、シゲの長身がゆらゆら歩いてきていた。
そのうしろにも農家の男が出てくるのが見える。家々からそれぞれ男たちが現れ、こちらへと向かって来ていた。
モトの家には、もよが来ていた。
「いや、なんかハラの調子が悪くてさあ」
モトは玄関に座り込み、ぐずぐず言った。
「井上さんには会いてえけど、たぬ吉やシゲと同じバスってのがちょっと――」
そのくせ、着ているものはいつもの作業着ではなく、よそ行きの皮ジャンで、ブーツも磨いておいてある。
モトの女房も隣に立ち、
「お父ちゃん、せっかく井上さんが男を見せて、ライバル農家の懐に入ってきたんだよ? 昨日、あんなよろこんでたんじゃないの。お父ちゃんだって、堂々と受けてたちなさいよ」
「だって……そんな義理人情の男じゃないもん。おれ、お百姓だもん」
もよは言った。
「あんた、わたしに借りがあるよね」
「?」
「この前、わたしのたっての願いを無視して、会合に来なかった。わたしは傷ついた。もうこの集落で生きて行く自信をなくしちまったよ」
「またまた、あんた昨日、温泉にいたって」
「温泉で傷心をいやしてたんだよ! モトちゃん。今度、無視するなら、わたしはもうあんたなんか知らないよ。こんな先の短いばあさんの願いが聞けないような薄情なやつ、友だちづきあいはごめんこうむる」
「――」
モトはしぶしぶと言った体で立ち上がった。
「行ってくるよ、もう――」
先が短いって、同い年じゃねえかよ、とブツブツ言いながら家を出た。