リンゴの神
JAの営農指導員、姉崎欣司(あねざききんじ)は、何もなくても驚いたような顔をしている。どんぐりまなこで口が尖り、農家には、『ひょっとこ』と呼ばれている。
ひょっとこ欣司はオフィスに入ってきた人物を見て、その丸い目をしばたいた。急いでパーテーションの陰に隠れた。
「キーンちゃん」
杏花集落の三好次郎のでかい顔がパーテーションから顔を出す。
「こんちは。しばらくだねー」
欣司は答えない。背を向け、パソコンを立ち上げた。
「なんで無視するの。お客様だよ」
「ぼくもう杏花集落の担当じゃありませんから」
「じゃ、誰が担当?」
「担当はいません。杏花集落は誰も面倒みません」
「つれないねえ。農家あっての農協じゃない。組合員だよ?」
欣司は振り向いた。
「あのね。ぼくは重久さんにケガさせられたんですよ? まず、いたわりの言葉とか謝罪の言葉が先でしょ」
欣司は杏花集落に腹をたてていた。
農家の頑固はどこも同じだが、杏花集落はすぐに手が出る。一度やり返したら、取っ組み合いになり、欣司は七十翁にのされた。殴られた顎がずれ、しばらく整体に通わねばならなかった。
「ぼく、あの時、訴訟を起こすつもりだったんですよ」
「へえ」
次郎は後ろに控えていた黒衣の僧ふたりを前に出し、紹介した。
「このおふたりにはね。いま、うちの臨時獣害対策委員をお願いしてるんだ」
「聞きなさいよ。ひとの話を」
「こちら、姉崎欣司さん。シゲさんと殴りあって、負けて来なくなっちゃったずくなし営農指導員。通称ひょっとこキンちゃん」
「それが紹介?」
背の高い僧のほうが、ずいとパーテーションのうちへ入り、欣司の手を取った。
「ひょっとこキンちゃん」
「あの、初対面ですよね?」
「おれがあんたの恨みを晴らしてやるよ」
僧は大きな目でひたと見つめ、
「重久のじいさんを打ちのめしてやる。完膚なきまでに叩きのめす。計画を聞いてくれる?」
欣司は面食らったが、つい話を聞く姿勢をとった。
お市が頼んだのは、神、と呼ばれるリンゴ農家の紹介だった。
松本に有名な篤農家がいて、全国のリンゴ農家たちの崇敬を得ている。
JAの欣司もその老農家のことは知っていた。
「あのひとのリンゴはね。禅、ですよ」
欣司はどんぐりまなこに力を入れて、体験を語った。
「食べるとね。――何してたか忘れるんです。仕事で喰ってても、仕事忘れる。テレビついてても、見るの忘れる。ただ夢中でリンゴ食べてる。うめええええって。なんていうかな――」
彼は両手の指をうごめかせた。
「子どもに戻って、ただリンゴ喰ってる。世界でリンゴと自分だけ。酸味がとか、糖度がとかなんて言葉は吹っ飛んでんですよ。ああー、うめえ、リンゴうめえ、アハハハハーって」
その名物リンゴは市場に出る前にほとんど完売してしまう。果物不況のなかでも人が争って買い求め、入手困難と言われていた。
「ぜひ、お会いしたい」
お市は欣司に頼んで、リンゴの神、井上周五郎(いのうえ・しゅうごろう)と連絡をつけることができた。
その午後、三人と欣司は松本市にある井上農園に向かった。
井上老人は四人を歓迎した。
「杏花集落! あそこは、すごいところですよねえ。天才的な農家さんがごろごろいますよねえ」
気さくな老人だった。旧知に会ったかのように、ニコニコと笑みを絶やさない。
欣司は曖昧に微笑み、次郎はしゃちこばっていた。
(は、はい)
次郎は声が出ない。リンゴの神を前にして、リンゴ農家を名乗ることが恥ずかしかった。
お市がしきりに目で、早く用件を話せ、とうながしている。
しかし、次郎は切り出せなかった。こんな用件をもちかけることを申し訳なく思った。
よその集落のくだらない問題で、神の大事な時間をとらせるのか。
しかも、一応相手は競合農家なのだ。協力してくれなど、頼めた義理ではないのではないか。一笑に付されてしまうのではないか。
すると、JAの欣司が言った。
「井上さん。杏花は獣害がひどいんですよ。それで生産量があがらなくて、みんな困ってらっしゃるんです」
次郎はカッと顔に血をのぼらせた。デリカシーのないひょっとこを殴りつけたかった。
「ああ、獣害は頭の痛い問題ですよねえ」
「その上、各農家のまとまりがなくて、対策もバラバラで、成果があがらない。イノシシとケンカしないで、仲間内でケンカしてんですよ」
次郎は顔から火が出る思いがした。もう黙れ、と念じたが、欣司はさらに、
「わたしが指導にいっても、気に入らないと暴力をふるうし。あげく自分たちで勝手に防除業者呼んで、それがサギ業者で、村ぐるみで騙されちゃって。ざまあないっていうか、はっはっは」
「キン――」
次郎は、ひょっとこの口をつかんでしぼりあげたかった。
「そういう内々のことは」
「いや、言わなきゃ何しにきたかわからないでしょうが。お願いしにきたんだから、すべて話さないと」
そうだ、と傍らからお市も言った。
「次郎さん、うちはピンチなんだ。ここは思い切って井上さんの胸を借りるんだ」
「……」
「行け。モモジロー侍!」
次郎はぐっと腹をくくった。しかし、声は脳天から出た。
「あ、あの、うちの連中を、ぶん殴っていただけませんでしょうか」
井上は仔鹿のような澄んだ目で見つめ、話に耳を傾けた。
次郎はうわずりつつも、獣害の現状と村の内情を打ち明け、若い旅の僧に応援を頼んだ次第も話した。
「キン――姉崎さんの言ったように、うちの集落の農家は、みんな頑固じじいで、わがままです。おそろしくプライドが高いんです。畑のことでは絶対に人の言うことは聞かない」
「……」
「わたしが集落の人たちに、もっと粘り強く声をかけつづけるべきなんですが、ほとんど親父の世代の人たちで――。それに、詐欺のことがあってからは、まったく信用がなくなってしまって」
「……」
次郎は少し自嘲的に微笑い、
「自治会長なんて言っても、べつになんの権限があるわけでもないんです。ただ死んだ親父はよく人の世話をした人だったので、集落のひとがなんとなくウチに集まる空気があって――それで回覧板をまわす役をおおせつかってるだけなので。あの人たちを、教え導くなんて立場じゃないんですが、――でも、立場がどうだろうと、助け合わないと共倒れしてしまうんだから、遠慮したり、卑屈になってる場合じゃないと――」
次郎はテーブルに手をついて、頭をさげた。
「井上さんのことはみんな心から尊敬しています。井上さんの言葉なら聞きます。どうか杏花へ来て、ご指導ください。お願いします」
井上はしばらくじっと黙っていた。
少し小首をかしげ、
「僕は――そんな、人にモノ言う人間じゃないですよ」
井上は小さい目をまたたかせ、
「それに、みんながんばってやってるんだ。僕に何か、威光みたいなものがあったとして、それでひっぱたいて言うことを聞かせるのは、僕は好きじゃないなあ。――無礼でしょう」
次郎は、はあ、とうなだれた。
――おっしゃるとおりで。
今さらながら、自分がバカバカしい話をもちかけている気がして、いたたまれなくなる。
お市が言った。
「でも、井上さんのご本に、尊敬する先生のことが書いてありましたよね。先生の愛のムチを受けて成長したって」
「それはそうだけど、――僕は杏花の農家さんたちの先生じゃないですからねえ」
その時、傍らでじっと座っていたテツがはじめて身動きした。首に下げた頭陀袋から、赤いリンゴをひとつ取り出し、
「これ、三好さんのリンゴです。食べてみませんか」
と、井上の前に置いた。
次郎は飛び上がりそうになった。
「な、何。なんで。なんでそういうことしてくれてんの。なんでうちの」
しかし、井上は微笑み、
「ああ、いただきます」
立ち上がって、デスクから果物ナイフを取ってきた。次郎はなかば腰を浮かしかけ、
「えええ。ちょ。今ですか。いま、こんな袋に入れて、あったまったようなのを。それにもう三月の――」
「いや、僕も、リンゴのおみやげ待ってたんですよ。三好さんのリンゴ食べられないかなって」
井上は一瞬、果実の状態を見ると、馴れた手つきで、くるくると細く皮を剥いた。
「僕は最近、品評会は遠慮してるけど、うちの若い人たちが競争してるから、よその農家さんのも食べてるんです。勉強になりますよ」
「いや、あの――」
見る間にリンゴは白く剥かれ、小片に分かたれた。几帳面に芯をとって、井上は口に放り込んだ。