夜逃げ
深夜。
リンゴ畑の広がる田舎集落のある家で、ひそかに家族が家財を運び出していた。
夜逃げである。
周囲百メートル以内に家はなかったが、一家はおとなも子どもも足音すら忍ばせるようにして、家とトラックを往復していた。
「小倉さん。何してんの」
老女の声が聞こえ、一家は飛び上がりかけた。
一番近い家の年寄りの声だった。見つかってしまった。
「え? 引っ越すの? あんたたち、出てくの?」
家の主は、警察にでも見つかったようにうろたえていた。答えようがなく、無視して作業を続けた。
「もよさん」
家の主婦がやむなく言った。
「ごめん。逃げる」
「え――」
「借金ぶっちぎって逃げる」
老女は口をつぐんだ。
(やはりか)
と思った。
この秋の獣害はひどかった。毎日のようにサルの集団が現れ、一日百キロものリンゴが喰われた日もあった。
この山沿いの家は、全滅に近い被害をこうむったはずだった。だが、そのことで誰かに泣きついたりはしなかった。
もよは聞いた。
「落ち着くとこは、勤めるとこはあるの?」
「聞かないで。あるから」
「あるならいいけどさ」
もよは、息子にもらったばかりの封筒から札を抜き出し、女につかませた。
「餞別」
「いいよ、こんなこと」
「子どももいるんだから」
女は一瞬亭主のほうを盗み見てから、金をポケットにねじこんだ。
亭主はトラックのエンジンをかけていた。何も言わずに行くつもりらしかった。
合わせる顔がないのだ。
もよは言った。
「困ったら、意地張らずに戻っておいで」
「それはない」
女は笑った。
「こんなとこ、二度と帰らない。もよさんに恨みはないけど、この集落は山崩れでなくなればいいと思うよ」
亭主が女を呼んでいた。女と子どもたちが乗りこむ。子どもたちは車窓から、もよを見てニカッと笑い、
「あーばよ。とっつあーん」
と手を振った。
トラックを見送り、もよは思った。
(これははじまりだ。つぎつぎ続くよ。この集落が溶けちまう前に、ご眷族さまにお願いしなけりゃいけない)
〔信州につたわる無畏大師とご眷族さまのむかし話〕
むかし。
信州長野のとある山に怪異があった。
村人が山菜を採っていると、森が動く。
木々が、
――道連れにせん。道連れにせん。
と、つぶやきながら村人を追い、ついてくる。道連れ森という。
道連れ森に追いつかれると、森に喰われて死ぬといわれていた。
ある時、足弱の年寄りがついに森に喰われてしまった。しかし、この年寄りは翌朝、村へ戻ってきた。
村人がなぜ、帰れたのかと尋ねると、
――白いキツネが現れてな。
白ギツネは、ケーン、と一声鳴いた。すると、森の木々は恐れるように引いた。
白ギツネは、
『わが名は弥市。社を建て、われを祀れ。森の禍から里人を護らん』
村人は道連れ森こわさに、弥市ぎつねの祠を建てることにした。そこに供えものしてから山に入ると、果たして木々は動かなかった。
人々は安堵して、山菜採りや炭焼きに入ることが出来た。
しかし、数年たったある時、山に入った者たちが戻らなくなる事件が起きた。人々は弥市の祠に山と供えものして帰りを待ったが、何日たっても戻らない。
ひと月たった時、激怒した若者たちが、
――こんな役に立たん神はいらん。
弥市の祠を打ち壊してしまった。
すると翌日、人々は田んぼの真ん中に、血に汚れた着物が山と積まれているのを見た。行方知れずになった者たちの着物だった。
村人は愕然とした。あわててまた祠を建て、祀り直した。
しかし、神は鎮まらない。
以後も村人はひとり、ふたりと消失し、村の畑、家の中からさえ消えた。人々はパニックを起こした。
――これは、生贄を出したほうがいいのではないか。
――このままでは村は根絶やしになる。
そこで、村の子を選んで生贄とすることにした。だが、どの親もわが子は可愛い。
「わしの子は不細工ゆえ、神さんはうれしくなかろ。返って怒りを買う」
「うちの子は根性まがりじゃ。弥市さまを怒らせてはならぬ」
うちのはちょっと、おたくのが、とゆずりあって、いつまでたっても決まらない。
そこへおかっぱ頭の小さい女の子が現れた。
「わしが行こう」
村人たちはおどろいた。
真っ黒な髪、冷たい賢そうな眸。どこぞの姫かと思うほどのきよげな童女で、もちろん村の子どもではない。
「われはどこの子じゃ」
「行ってくれるのはうれしいが、ててさんは誰じゃ。承知の上か」
女の子はひやりと言った。
「わしは弥市じゃ」
村人たちは目を見合わせた。理解すると、わっと飛び退った。祟り神みずからが出てきたと知って、腰をぬかした。
女の子は目を据え、
「神の宮居をこぼちておきながら、ひとりふたりの童で、ことなく済むと思うたか。笑止。村の者たれひとり、許しはせぬ。覚悟して今より墓穴を掘るがよい」
村人はヒイと床に伏せ、泣き声を出した。
「命ばかりはお助けくだされ。以後、朝な夕なに供物をささげまする」
「油揚げより、ぬしを揚げたほうがうまい」
「村にあるものはなんでもささげまするゆえ」
「ならば、村すべてもらう」
弥市は言った。
「一刻だけ待つ。一刻のうちに、わが目のとどかぬところまで逃げよ。それ以後、村に留まるものに容赦はせぬ」
殺生な、と村人はすがったが、女の子は煙のように掻き消えた。
村人は畏れた。持てるだけのものを持ち、おおわらわで村を後にした。
さて、当の弥市ぎつねは早足で山へ向かっていた。歩きながら、あふれる涙を袖でぬぐった。
(村の衆、達者で暮らせ――)
「そこな女の童」
声をかける者があった。
ふりむくと、松の切り株に行脚僧が腰を降ろしていた。笠の下は、きらめくような白皙の美男。
「きつねじゃな」
「!」
おどろいて見返すと、
「それもまだ小さい。――伏見の稲荷大明神のもとから逃げてきたか」
「……」
「道連れ森などと幻術で村人をたぶらかし、その後、験を顕して恩を売り、うまうまと社を建てさせた」
うお、と弥市はたじろいだ。
「――何者じゃ」
「寛円(かんえん)」
弥市ぎつねは目を瞠った。寛円和上といえば、今をときめく唐帰りの高僧。その法力は空海入定後、世に比類なしと言われている。
僧は立ち上がり、地に錫杖を突いた。
「妖狐退治に参った」
「!」
弥市はじりりと身構えた。だが、寛円は童子のように澄んだ目を瞠った。
「あれ」
頓狂な声をあげた。
「邪気がない?」
「――」
寛円は宙になにか書き付けられてあるかのように、
「……村人を喰らったのは、なんと、べつの山ノ怪! しかし、子ぎつねには、それを倒そうにも力がない。ゆえに、せめて村人を逃がさんと、祟り神のふりして脅かし追い払った――そして、ひとり山ノ怪を討ち果たしに――なんと!」
これぞ天眼通力。すべて見通され、弥市は恐れ入ったが、
「子ぎつね。ゆゆしや」
寛円は打ってかわって涙ぐみ、ゆゆし、あわれ、と感動している。感じ入って空を見つめ、
「風しょうしょうと、仔狐去りて、また帰らず、行ったりきたりの逢坂の関」
「歌下手じゃな!」
弥市はそのあけっぴろげな感激ぶりにひるみつつ、
「御坊、そんなつもりはない。わしはあわてる愚か者どもから、村ひとつ巻き上げただけじゃ」
「いとをかし」
「とにかく、きつね退治の用はないのじゃ。わしはここを去る。おさらば」
「待て」
寛円は止めた。
「いけば死ぬ」
「なに、わしは伏見へ帰るところよ」
「京ならば、方角が違う」
「――」
「いとをかし」
「……」
寛円は不吉な未来を見るように目をすがめ、
「したが、その程度の力では刺し違えることもできまい。犬死にぞ。きつねなのに」
「もうよいわ」
弥市は小さい牙を見せた。
「これ以上の御託は無用じゃ。ここはわしの山じゃ。わしが始末をつける。御坊は疾く帰られい」
「わしも連れて行け」
「え」
寛円は言った。
「加勢してやろう」
弥市は顔を明るくした。
――わが命運、いまだ尽きなんだ!
当代一の法力僧がいれば、山を取り返せるかもしれぬ。弥市ぎつねはよろこび、寛円和上をともなって、妖怪退治に向かった。