外れたひと達
それは人通りの多い住宅街での出来事だった。
五十は過ぎているであろう男が、突然ナイフを取り出し、奇声を上げ始めたのだ。
誰もが彼を狂人だと判断していたが、それは別にナイフを取り出す前から分かり切っていたことだった。コートやジャンパーを羽織る人々の中で、その男だけが白のタンクトップ一枚に、麦わら帽子という恰好だったのだから。
その男は、ウッホウホウッホーウと類人猿を思わせる雄叫びを上げると、ナイフの刃側を舌で舐め、盛大に痛がっていた。ペッと真っ赤な唾を二、三度吐くと、突然両手で頭を掻きむしりはじめ、それが終われば、闇雲にナイフを振り回す。
その時の周りの様子はどうだったかといえば、これが不思議なほど硬直している。こういう時は誰か一人くらいは叫んだり、警察を呼んだり、ツイートしたりするものだと思っているものだが、あまりに唐突で理解しがたい振る舞いだったのか、皆ぴくりとも動かない。
舌が痛い、殺す、と交互に呟く男。目線はふらふらでどこを向いているのかは分からない。男の両目が斜視気味だったことが、気味悪さを増している。
続けて、突然うなだれたかと思いきや、歯をカチカチと鳴らし始めた。ある程度の距離があるのに聞こえるほどの音なのだから、相当強くぶつけ合わせているに違いない。口からよだれの筋が何本も、ハープの琴のように垂れている。
しばらくしていると、手ごろな標的でも見つかったのか、にやりと口元を歪めた。そして、「次の標的になるのは、貴方かもしれません」などと、どこかのテレビ番組のエンディングのようなことを告知した。
その時になって、ようやく事態が吞み込めたのか、周りの人間がぎゃあぎゃあと騒ぎ出した。ある者は逃げ出し、ある者は子供をかばっていたり、ある者なんかは、これ見よがしにスマートフォンを男に向けたりしている。
様々な反応を取る民衆に対して、男は人差し指を出すと、順々に指を向ける。どれにしようかな、としているようだ。なんて言っても、そんなことをしている間に、対象となるべき人間はどんどん逃げていく。その度にどれにしようかなをやり直しているようだ。その愚かしさと鈍さに、我ながら少し苛立ちを覚えた。
その苛立ちが消えたのは、後ろから女性の声がしたからだった。「危ないですよ、危ないから」という緊迫した様子の金切り声。前にはタンクトップを着た変態が満面の笑みを浮かべている。
ふと、自分のことかと思った。そう思われても不思議ではないし、実際のところ危ないんじゃないかなあ、とは思っていたりもするのだ。しかし、そんなこんなで漫然と立っている自分の傍を、スーツをきっちりと決めたナイスミドルが通り過ぎていった。その姿を見て、女性の忠告と、変態の興味の対象が、その男であることを知ると同時に、七三分けが人によって、こんなにも様に合い、格好良く見えることを理解した。ナイスミドルの身体から、男性ホルモンを刺激する猛々しい香りが分泌され、一瞬、クラッとなった。惚れるとはこういうことなのか、と感じた。
なのにも関わらず、ナイフを持った無粋な小男がナイスミドルにつっかかるのだ。「私、リカちゃん。おままごとする?それともデートにする?それともあ・た・し?」と問う。ナイスミドルは、白く輝く歯を見せながら、はにかんだ。タンクトップはナイスミドルの腹部を刺した。自分が言うのも難だが、タンクトップの気持ちが何となくわかるような気がした。とりあえず、意味が分からない。
しかし、これでも一度は惚れた身だ。ナイスミドルの為なら、狂人の手にかかって死んでも構わないとも思った。だから、声をかけようとしたのだ。「大丈夫ですか?もしよければ、お茶しませんか?」と。しかし、ナイスミドルはここで予想外の言葉を繰り出したのだ。
「ぬいてー」
そこにいるすべての人物の時間が止まったようだった。自分も、タンクトップも、ナイスミドルも、その他の有象無象も。
ナイスミドルは腹部を抑えつつ、「ごめんごめん。別に待ち合わせに遅れるつもりじゃあなかったんだ」みたいな具合でかがんでいる。
いや、そりゃ抜いてほしいけれども。このタイミングでそんなこというか、普通。
「ぬいてー」
ナイスミドルは間の抜けた声でもう一度、嘆願した。タンクトップは少しの間、考え事をしているようだったが、何か妙案でも浮かんだのか、手を打った。
「望みどおりに抜いてやるよお」と喚くと、正直にナイスミドルの腹部に刺さっているナイフを勢いよく抜いた。魚屋さんのバケツの中に入っているようなものが、にょろりと見えた。ナイスミドルの顔が穏やかなものになりかけた瞬間、「そして、再び刺す」という冷酷な布告と同時に、右わき腹を刺された。元々刺してあった場所からぽたりぽたりと血が垂れていく。
タンクトップといえば、ゲラゲラと大笑い。ナイスミドルを勢いよく突き飛ばしたかと思えば、思い切り、ナイフの柄を蹴り飛ばし、傷をえぐる。その後は、力任せにナイスミドルの上半身を踏みつけ、「しィんぱァァいないさ~」などと叫ぶのである。
そんなままごと遊びが20分ほど続いたのだろうか。そろそろ、周りが騒がしくなってきた。しかし、それは外敵に対する恐怖によるものではなく、つまるところ武力による公開処刑を待ち望む、民衆の歓喜の叫びであった。気付いてみると、シマウマの頭に赤ランプがついているお車が何台も並んでいる。
しかし、タンクトップにとってはどうでもよいことだったのだろう。あの気にくわない妙にイケメンなのに、態度が妙に謎に満ちている上、うざい、あのナイスミドルを慰み者にしてやったのだという優越感が、タンクトップに強い陶酔を与えたに違いない。そういうことにしておこうじゃないか。
「無駄な抵抗は止めて、大人しくお縄につきなさい」なんて言葉をメガホンで伝えているポリスの方々。そんな光景を遊園地の珍獣コーナーを見る子供のようにはしゃぐ民衆達。その声が狂人に届くことはないのだろう。
「ぬいてー」
タンクトップは目を見開いた。数え切れないほどに痛めつけ、既にミンチか何かになっていたと思われていたナイスミドルは、相も変らぬ間の抜けた声で、痛みの元凶を取り除くように訴えていたのだ。その、何かに狂人は狂わされた。下唇を力任せに歯でかみちぎらんとする。歯と歯の間から、絶え間なく泡が漏れ出ている。
ゲェッポォと唸り、タンクトップはナイスミドルからナイフを抜き取ると、力任せに首筋にナイフを押し付けた。顔から汗がだらりだらりと噴き出し、体が痙攣する。口をぱくぱくさせるが、声を出そうにも空気は首からひゅーひゅーと流れるばかりである。
ポリスの方々が「突撃」という誰かの発言をきっかけに、タンクトップに突っ込む。その途中にいたうつ伏せのナイスミドルは思い切り踏まれてしまい、非常に申し訳のないことになっている。高校生のグループがゲラゲラと笑いながら「本当に動きやがった」と互いの労をねぎらいあっている。
最後の力を振り絞り、タンクトップは首のナイフを引き抜いた。ぶぶぶぶぶと、蛇口につないだホースを踏んだ時と同じような鈍い水音がすると、辺り一面に赤黒いものが飛び散った。その後は、首筋から定期的にどろりとしたものが勢いよく垂れ流しになっていく。
それがあまりにもビールサーバーから流れ出る様に似ているものだから、今日の晩はラガービールにしようと思った。