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獄中三年

 大仕事を終えた翌早朝のことです。正造は先祖の位牌に花と朝茶を供えていました。

「御用、神妙」

 いきなりドヤドヤと捕亡が土足で踏み込んできました。

「なんのまねだ?」

 正造は訳の解らぬうちに取り押さえられてしまいました。二ヶ月前まで聴訟課にいた正造ですから、捕亡の中には知った顔もあります。

「おい、いったいどうした」

 話しかけましたが答えは返ってきません。ただ昆虫のように無表情な顔をしています。それが官吏というものです。お役目なのです。

 田中正造が木村新八郎殺害の下手人として捕縛されたという報せは、花輪支庁内を大騒ぎにしました。

 数日のうちに江刺県庁から聴訟課の課員が花輪支庁に到着し、やや遅れて新政府の弾正台官員らが到着しました。正造は白洲で糾問される身となりました。糾すのは県庁聴訟課の大属です。

「当年一月九日の夜、大属木村新八郎を殺害したるはまさにその方なり、まずその手続きを申し立てよ」

 江戸時代の御白砂で奉行が吐くような口調で大属は言いました。

「まったくの濡れ衣である。いったい何の根拠があるか」

 正造は憤激せざるを得ません。冤罪です。正造こそが理由を聞きたいところです。

「木村が殺害されたる夜、白き袴と黒き足袋に血の付きたるを着用して奔走し居たるは、これを認めたる者少なからず」

 誤解された理由のひとつがわかりました。正造は事情を説明します。

「白き袴と黒き足袋に血の付きたるは、当夜、負傷者を介抱したためである。市中奔走の後、同僚の田村仙之助方に落ち合った時、多くの人から注意されて初めて気づいたことだ」

 確かに正造の落ち度だったかも知れません。しかし、それほどに無我夢中だったのです。甚だしい曲解と言うべきでした。

「その方の小使いへの指図、木村への手当、その後の指揮、万事行き届き過ぎたり。わずか月給八円の身分柄としては出来すぎたる所作なり。これ予め覚悟ある人に似たり」

 正造は全身の力が抜けるような思いにとらわれました。下衆の勘繰り、とはこのことです。かつて七百名の百姓を統率指揮したことのある正造にとって、この程度の処置は朝飯前のことでした。裏を返せば官吏どもが無能なのです。彼等は自分の水準でしかモノを推し量れない小人です。出る杭は打たれるとはこのことでした。正造はあまりの馬鹿らしさに言葉を失います。が、糾問は容赦なく続きました。

「その方、木村と間柄よからずと聞く。役所においても激論をなし、木村は為にしばらく出勤せざることありたりと。遺恨を含みてついに殺害に及びたるならん」

 誤解がまた出てきました。確かに激論はしましたが、議論に勝ったのは正造です。遺恨を抱くなら木村の方であり、そうであれば正造が殺されねばなりません。

「執務上、激論になったこともあるが、後には和解した。木村の引き籠り中に会って和解し、馳走してもらった。木村大属は、この私の出精ぶりを書面にして県庁に具申したはずだ。その控えを木村が見せてくれたのだ。その書類を確認してくれ。木村大属との間柄は良かったのだ」

 しかし、大属には聞く耳がない。糾問は正造の脇差に及んだ。

「その方の差料の脇差の身に曇のあるは如何」

「曇などない」

「曇はある」

「事件の朝、同僚と検刀し合ったはずだ。確かにない」

「その方の差料を見たる者は一人も無し」

「差料検査を命じたのは私だ。人の差料を検めんとすれば、まず自分の差料を抜いて示すは礼である。見た者はある。お取り調べの不備でしょう」

「その方の刀を検めた者の名を挙げてみよ」

「何人もいる。いちいち覚えてはいない」

「強弁の段、心得不行届きなり」

 惨いことに正造に鞭打ち十回の拷問が加えられました。

(馬鹿な)

 これほど苛酷な取調べになるとは予想外でした。何しろ正造はまだ江刺県の官吏なのです。昨日までの同僚に、これほどの責め苦を科すことができるものなのでしょうか。鞭は容赦なく正造の背や尻にくい込みます。気の弱い者ならば、これだけで有りもしない罪を白状してしまうほどの苦痛です。正造は歯を食いしばって苦痛に耐えました。正造を見下している官吏どもは、どれも阿呆面をしています。が、その阿呆どもが権力者なのです。官の苛烈な横暴を正造は身を以って体験させられています。

「凶行者は色白く小紋の衣服を着し居りたりとは既にその方の認めたる木村の次男桑吉の口供にあり。その方、色白く常に小紋の衣服を着し居ることに符合して証拠充分なり」

 さらに鞭打ち三十回が加えられて、この日の糾問は終わりました。政府弾正台の官員らは常に忙しく各県を動き回っています。おそらく県役人の報告を聞き流しているだけなのでしょう。そして、県庁聴訟課の大属もまた花輪支庁の報告を真に受けて、型どおりの取調をやったに過ぎないのでしょう。正造にとっての不幸は、木村の死後まもなく次男の桑吉が遠く静岡に転居してしまったことです。最重要証人が不在のまま捜査が続いていたのです。

 獄舎に放りこまれた正造は、心身ともに懊悩の極にあります。正造の眼前には、世の不条理の深淵が口を開いています。これこそ地獄の入り口です。巨大で冷厳な現実に押し潰されるような絶望感を正造は生まれて初めて味わいました。かつて六角家の三尺牢に捕われた時にはなかった感情です。あの時には林三郎兵衛という明らかな敵がいました。だから正造は敵愾心を奮い立たせることができました。しかし、今度は事情が違います。いったい敵は誰なのか。なぜこんな目に遭うのか。心中を充たしているのは怒りというより疑問です。身の不運を悲しみ、かつての同僚の非情を責め、官吏の無能を呪い、世の不条理を嘆き、最後には無限に続く自問自答に陥っていきます。

(なぜだ)

 数日後、正造は職を免ぜられ、江刺県庁のある遠野町に護送されることとなりました。板で作られた足枷をはめられ、両腕をきつく縛められ、唐丸駕籠に乗せられました。これで街道を晒されながら行くのです。これ以上の恥辱はありません。故郷から遠く離れた陸中の地であることが微かな救いでした。が、このことは正造にとって不利でもあります。身元引受人が地元にいないことが、官吏どもの正造に対する不信の一因となっていたからです。

 この間、正造は幽鬼のように考え続けています。何とかして潔白を証明しなければなりません。無実なのです。しかし、相手は血も心も通わぬ官吏どもです。簡単明解な根拠が要ります。

(なぜ訟庭に桑吉が居なかったのか)

 桑吉さえ居れば潔白を証言してくれるに違いありません。訴訟戦術の第一として、桑吉の証言を要求することに決めました。正造の思考は飛びます。

(聴訟課の奴ら、弾正台が恐ろしかったのだろう)

 政府の弾正台は常に県から県へと地方を巡回しています。巡回の際、未解決事件を抱えていたりすると県庁官吏は弾正台から大目玉を食らったりするのです。

(それが嫌で嘘をでっち上げおったか)

 猜疑心が次々と湧いてきます。しかし、かつての同僚がそれほどの悪党だったとは思いたくありませんし、こればかりは証明の仕様がありません。そういえば先の訟庭では、正造の脇差しに曇があると言っていました。

(いや、あるはずがない)

 正造の知る限り、無いのである。

(まてよ)

 ある夜のことを正造は思い出しました。半月ほど前、ある料亭で正造の脇差しを一人の男が取り違えて持ち去り、しばらくして勘違いに気づいて返しに来たことがありました。そのとき酔っていた正造は迂闊にも刀身を検めませんでした。

(まさか、あの男が)

 正造は自身の不注意を悔いました。ですが、仮にその男が正造の刀で何者かを斬ったとしても、木村新八郎はすでに死んでいたのです。

(刀の曇は無関係だ)

 正造の思考はまたふりだしに戻ります。正造は事件当夜の模様を思い起こそうとしました。あのとき確かに木村新八郎の傷口を見ました。何しろ応急処置をしたのは正造だったのです。検死報告も正造が書きました。血糊の中に無惨に砕かれた頭蓋骨が白く見えました。あの傷口からみて凶器はなまくら刀に違いありません。正造の脇差しは虎徹です。斬骨の冴えを持っています。

(やはり違う)

 あの傷口が証拠です。愁眉を開く思いがしたものの、それを訴える相手はいません。とにかく次の聴訟を待つしかないのです。やがて正造を乗せた唐丸駕籠は七時雨峠にさしかかりました。


  うしろ手を負わせられつつ七時雨 しぐれの涙 掩うそでもなし


 江刺県本庁の監獄に着いた翌日、早くも第二回目の訟庭となりました。陳弁の機会を今や遅しと待っていた正造は望むところです。白洲から見上げると、そこに弾正台官吏の姿はなく、いずれも江刺県の聴訟官吏です。失望しましたが、言うべきことは言わねばなりません。正造は、証人として木村桑吉の出廷あるべきことを訴え、さらに被害者の傷口と正造の差料とが一致しないことを力説し、無罪であることを主張しました。

「事実すでに斯くの如し。今ひとたび弾正台の厳重なる審問を受けんと欲す。片時も早くこの儀、御取計らい下されたし」

 正造の堂々たる態度に聴聞の官吏は気分を害したようです。そして、今さら正造の無実が証明されれば、自分たちの落ち度になります。官吏は保身のためなら人を冤罪に陥れても平気なものです。事実を究明しようなどという気はさらになく、要は下手人が恐れ入りさえすればよいのです。

「さまで弾正台を希望するならば何時にても望みどおりにして得させん」

 いうや否や正造は引っ立てられて、拷問器械に乗せられました。算盤責め、あるいは石抱きともいいます。鞭打ちでは口を割らない囚人がこれにかけられるのです。囚人は十露盤と呼ばれる板のうえに正座させられます。十露盤上には五本の三角柱が並んでいます。一辺六センチほどの正三角形を底面とする長さ六十センチほどの三角柱です。十露盤の上に正座させられると、三角柱の脊梁が容赦なく弁慶の泣き所に食い込むのです。それだけでも充分に苦痛ですが、正座した太ももの上には、伊豆石と呼ばれるおよそ四十五キロの重石が一枚ずつ載せられていきます。その苦痛は想像を絶するものです。脛骨がギリギリと砕かれるようです。そのうえ獄吏が伊豆石をユラユラと揺らすのです。はじめは誰もが切歯扼腕して耐えようとしますが、すぐに忍耐の限度を超えます。皆、阿鼻叫喚し、鼻水や涎を垂れ流して苦悶します。伊豆石が四枚目を越えると逆に痛みを感じなくなり、茫然自失となって死の境に至ります。そこではじめて拷問が終わるのです。これには正造も悲鳴をあげざるを得ませんでした。

「この拷問の必要がどこにある!」

 苛酷な拷問ですが、これでもまだ本格的な拷問の前段階に過ぎません。正造は立つことも歩くことも出来なくなり、息も絶え絶えに獄舎に運び込まれました。雑居房です。そこには牢名主が居て、王のように振る舞っています。新入りの正造は身につけていた衣服を献上して、やっと居場所を与えられました。正造が元気なら、牢名主に対してモノを申したでしょう。しかし、今の正造は尾羽打ち枯らし、ただ丸太のように転がっているだけです。

 維新の混乱期です。地方制度はくるくると変わります。江刺県は一関県に合併され、すぐあとに水沢県に改称されるなどしました。そのためかどうか正造は獄中に放っておかれました。その方が良かったでしょう。定期的に訟庭が開かれ、そのたびに拷問を受けていたら正造は廃人になっていたに違いありません。

 正造はすっかり弱くなりました。神経が過敏になり、ちょっとした物音にもビクビクします。事件の経過や自身の不幸や冤罪の理由などを考えすぎて妄想狂のようになっています。獄内の囚人は誰もが似たようなものです。ただ生存しています。粗末な獄食を食べて露命を繋ぐ。楽しみなどはなく、やるべきこともない。ただ生きている。獄内の衛生状態は悪く、赤痢を病んでいる者さえいます。

 やがて東北に冬が来ました。その寒気は容赦なく獄内に浸透します。正造の雑居房ではひと冬で四人が凍死しました。正造が凍死することなく生き延び得たのは、ひとえに富蔵のおかげです。

 正造が江刺の獄につながれているという噂は、遠く下野にも聞こえてきたのです。父の富蔵は老身を推して旅立ち、居丈高な官吏に頭を下げ、時に賄賂をつかませるなどしてようやく正造の所在をつきとめました。富蔵の差し入れた衣服が正造を厳冬の寒気から救ったのです。富蔵によって正造の出自が確認されたことは、官をして正造の嫌疑を見直させる契機となりました。

 明治五年三月、正造は岩手県の監獄に移送されました。正造が驚いたのは、囚人に対する獄吏の態度が丁寧だったことです。正造が聞き出したところ、岩手県令島惟精の指令だといいます。島惟精は薩摩藩出身の官僚で、もとは勤王の志士です。幕府に捕えられて投獄され、非道い目に遭わされたことがありました。そのため島には囚人に対する同情心があったのです。

 獄吏の態度が変わったおかげで正造の精神は落ち着きを取り戻しました。それでもなお正造は獄中に据え置かれました。獄中二度目の冬を富蔵差し入れの衣服で凌ぎました。

 明治六年の春、驚くべきことが起こりました。牢内に畳が敷かれ、挿花や読書が許されたのです。冬には火で衣服を乾かすことも許されました。夢のような待遇改善です。明治五年十一月に公布された監獄則の運用が始まったのです。はしなくも正造は文明開化の風を獄中で実感したことになります。正造にとって何よりも有り難かったのは読書が許されたことです。冤罪の憂き目をみた正造は、これまで自問自答の泥沼の中で精神を衰耗させてきました。

(なぜだ)

(いったい誰が)

(おれはどうなる)

 獄中で気も狂わんばかりに心を悶えさせてきました。読書は、この不毛な執着から心を解放してくれるのです。正造は時代の最先端知識である翻訳書を読みました。主に政治、経済、伝記などです。福沢諭吉も読みました。中でも最も強く共鳴したのは中村敬宇訳「西国立志編」です。正造は繰り返し読み、会心の文章に出会うと何度も何度も音読しました。こうして獄中三度目の冬は心静かに越すことができました。

 明治七年四月、正造は突然呼び出され、訟庭に引き出されmした。岩手県令島惟精から直々の御沙汰です。

「その方儀、明治四年四月以来、江刺県大属木村新八郎暗殺の嫌疑を以て入獄申し付け吟味中の処、このたび証人らの申し立てにより、その方の嫌疑は氷解せり、爾来取調に及ばず。今日限り無罪放免を沙汰す」

 その日のうちに正造は、岩手県官吏の中西高久の自宅に引き取られました。中西と正造との縁は薄いものです。単に共通の知人がいたというに過ぎません。それでも中西は正造を引き取ってくれ、万事配慮の行き届く世話を焼いてくれました。

 三日間ほどは夢のようで、正造はただ茫然と過しました。この三年間はいったい何だったのだろう。正造はすでに三十二才になっています。木村桑吉らの証言によって正造の冤罪は晴らされたものの、木村新八郎殺害の下手人はわからずじまいです。正造を罪に陥れた首謀者も不明のままです。それに比べて正造の被った損害の大きさはどうでしょう。職も名誉も奪われ、拷問によって心身を傷害され、獄中に三年もの人生を空費させられ、耐え難い記憶を脳裏と肉体に刻印させられたのです。

 正造は晩年に至っても、この冤罪事件を思い出すと感情の起伏を抑制できませんでした。

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