鹿角
田舎での、のどかな手習師匠の生活は一年も続きませんでした。
「江戸に出てこい」
正造を江戸に誘ったのは、かつての学友で五才年上の織田龍三郎という男です。すでに「江戸を称して東京と為すの詔書」が発せられていましたが、人々はまだ江戸と呼んでいます。織田は大槻盤渓の高弟として学名を高め、新政府で府県学校取調掛を勤めています。その織田が内弟子になれというのです。
まだ若い正造には学問への欲求がありましたから、この誘いに乗りました。寺子屋を知人に託すと、浅草心堀端にある織田龍三郎邸に身を寄せました。
ところが上京してみると、織田龍三郎は免職されていました。維新直後の混乱期です。官僚機構は未整備であり、たまたま縁故によって官に採用されたかと思えば、呆気なく免官されたりします。正造は勉学に励むより、織田家の家計を心配せねばならなくなりました。
他人の労苦を黙視できない、というのが正造の不思議な性癖です。正造は、秘蔵していた書画を売り払って三十六両をつくり、これを半年分の食費及び月謝として前納しました。織田家の家計を助けるつもりでした。ところが織田はこの金を遊興に蕩尽してしまいます。こうなると正義感の強い正造は容赦がありません。
「この、でれすけ」
激怒して織田龍三郎を叱責します。それでもやっぱり人が好いのが正造です。翌日から織田家の家政を切り盛りし始めました。正造は、使用人をことごとく解雇して冗費を削り、正造自身が下僕となって働きました。薪を割り、水を汲み、掃除、洗濯、買い物、炊事まで何でもやりました。織田の家族には白飯を食べさせ、自分は残飯で我慢しました。現金収入を得るために溝さらいや引っ越しの手伝いといった肉体労働の賃仕事を引き受けました。その勤勉ぶりは浅草界隈でちょっとした評判になり、口入れ屋が勧誘に来たほどです。
それほど織田家のために尽くしているにもかかわらず、織田龍三郎の細君は正造を毛嫌いし、小言ばかり口にします。その一因は、正造の風体の汚らしさにありました。蓬頭垢面、弊衣破帽、まさに肉体労働者の風采です。自分の見てくれなどに興味のない正造は、働くことが大好きで、そんな自分を恥ずかしいと思ったことがありません。それどころか正造は自分のことを清潔好きの潔癖性だと思っています。
「嗚呼、昨日の仙人、出でて俗事縦横の巷に入れり」
学問のために上京したはずが、織田家の下僕になり下がっている自分の境遇に滑稽味を感じる余裕が正造にはありました。正造は根拠もなく将来を楽観していました。それが若さの良さでもあり、危うさでもあります。
転機は明治二年十二月にきました。早川信斎という知人が浅草の織田邸に正造を訪ねてきました。早川は江刺県の大属となって赴任する途上だといいます。大属というのは律令制の官名です。王政復古によって太政官制が復活したため、古色蒼然たる官名が使われるようになっていました。今で言えば課長とでもいったところです。
「江刺に行かねえっぺか」
早川は正造を誘います。幸い江刺県の知事も大参事も同郷の人であり、頼み込めば官職にありつけるだろうというのです。ずいぶんいい加減なものです。官吏の任用制度が確立するのは明治二十年のことであり、この時期の人事は荒っぽいものでした。それでも並以上の人材を集めることに不自由しなかったのは、日本人の教育水準が高かったからでしょう。
「読書ばかりが学問ではない。実地の研究も大切だ」
織田龍三郎が口添えしました。正造は官吏という仕事に魅力を感じませんでしたが、江刺という北の土地に魅力を感じました。江刺県は、もと陸中国の一部、現在の岩手県南部域である。この時代の感覚では「みちのく」です。正造は行くことにしました。後に正造は、この決断をひどく後悔することになりますが、その苛烈な運命を今は知る由もありません。
年の明けた一月、正造は早川信斎一行の一員となって江戸を発ちました。冬の道中は難儀です。おまけに同行者のひとりがマラリア熱を発症したため、一行は看病で大わらわとなりました。そうこうしてやっと江刺県遠野町の県庁にたどり着きました。やれやれと思っていると、当てにしていた県知事と大参事はすでに辞職していました。正造は茫然とせざるを得ません。もはや江戸に帰る金もなく、官途に就ける見込みもないのです。
それでも早川信斎の奔走によって、なんとか県庁附属に任命されました。ありがたいことに月給八円が支給されました。この頃、五十銭あれば白米十キロを購えましたから、江戸でサツマイモの皮ばかり食べていた正造にとっては夢のような高給です。任命から二日目、正造は花輪支庁への出向を命ぜられました。遠野からさらに北上せねばなりません。花輪支庁の管轄は鹿角郡と二戸郡です。今でこそ鹿角は八幡平観光の拠点として有名ですが、この頃はまだ山間僻鄒の地です。
「いずれこっちが落ち着いたら戻れるようにするから」
早川信斎は気を使ってくれましたが、正造にしてみれば遠野も花輪も同じことです。正造は四日がかりで雪道を踏破し、花輪支庁に赴任しました。花輪支庁は出来たばかりの役所で、諸事雑然としていました。仕事らしい仕事もなく、職員は暇を持て余していました。
二月下旬、花輪支庁管轄内の山村で餓死者が発生しているとの報がもたらされ、正造が実地検分に派遣されることになりました。正造は雪を冒して進みました。山を越え、谷を踏み、山間の村を訪れると事態は深刻でした。路傍や家内に餓死者が累々と横たわっています。ようやく生き残っている者は稗糠の粥を飲んで露命を繋いでいました。この飢餓は、昨秋来からの不作によって発生したものです。この地方では、夏に「やませ」という北風が吹くと作物が実りません。生き残っていた百姓に、正造は自分の弁当を分け与え、かわりに稗糠の粥を飲んでみました。
「!?」
粗食に慣れているはずの正造でさえ飲み下せない代物でした。同じ百姓として正造は心底から同情し、我が事のように憤っりました。正造は健脚を利して担当の村々を踏破し、花輪支庁に復命すると直ちに報告を書き上げ、さらに江刺県庁に出向いて現状報告のうえ救済策を要請しました。正造の献策は聞き届けられ、三月には秋田米五百俵が各村に配給されました。
花輪支庁が役所としての体裁を整えはじめた六月、正造は聴訟課員と開墾課員を兼任させられ、多忙を極めていました。世は旧体制から新体制への移行期です。司法制度は弾正台から新律綱領への移行期であり、また市町村境や府県境の確定、土地に関する諸々の帳簿整備、訴訟や開墾の請願処理など仕事は山のようにありました。
正造の上司は木村新八郎大属です。木村は旧幕臣で小普請役を務めていた男で、既に六十才の老境でした。これが典型的な小役人タイプの人間でした。小さなことに一々よけいな口を出して現場を混乱させました。例えば、正造が県境の標柱に「江刺県管轄」と表記します。すると木村は「江刺県支配所」に直せと言うのです。支庁正門の標札に「支庁」と書けば「役所」に直せと言います。掲示板に「朝八時出頭」と書けば「朝五つ時出頭」に直せと言います。暇ならともかく、業務山積の折、あまりに細かいことを後出しで口出しするので正造はその度に腹が立ちました。正造に限らず、木村大属の下僚の誰もが木村大属を呪いました。
「あんな頭の古い男の下で働けるか」
木村大属のあまりの口うるささに辟易し、職を辞してしまった下僚さえ現れました。正造は我慢しました。もともと働くことが好きな性分です。勤労の喜びに比べれば、木村の差し出口など小事です。正造の仕事はとるに足りない雑事でしたが、新国家建設の最前線に立ち会っているという時代の躍動感があり、正造はやり甲斐に満ちていました。
しかしながら、やはり不満は溜まっていきます。ついに正造は木村大属と衝突してしまいます。それは大広間での会議中のことです。仕事に進め方についてふたりの意見が割れました。木村大属と正造の議論はやがて激論の応酬となりました。正造は現場の立場から効率的な業務遂行の方法を述べ、それを認めるように求めました。
(欺くこと勿れ、而してこれを犯せ)
孔子の言葉どおり、正造は激烈な口調で直言します。さらに、日頃の細々とした木村大属の差し出口がいかに現場作業を停滞させているかを正造は指摘しました。部下の手前、木村大属も反論せざるを得ません。双方、大声での応酬となりましたが、議論に勝ったのは正造です。この口論は役所内の話題になりましたが、木村大属が翌日から十日あまりも休んだため、いよいよ評判が評判を呼びました。
「田中の奴、やりやがった」
木村大属からの後出しの指図に辟易していた属僚たちは誰もが溜飲を下げました。木村新八郎大属は大いに面目を失いましたが、それでも私怨を抱くような人物ではなかったようです。木村は、休暇中の一日、秘かに使いを寄越して正造を自宅に招きました。
「その後、つらつら考えるに大いに悟るところがあった」
木村大属は正造の忠言に謝意を述べました。むろん正造にも私心はありません。あとは飲食を共にして親睦を深めました。木村大属が職場復帰すると、ふたりの間に業務上の衝突はなくなりました。それどころか木村大属は正造の最大の理解者となってくれました。おかげで正造は大いに驥足を伸ばして働くことができました。
やがて正造にとって二度目の東北の冬がきました。身体頑健な正造にとっても東北の寒気はつらいものでした。正造にはリウマチの持病があります。若い頃の梅毒が原因かも知れず、十ヶ月に及んだ三尺牢での生活が災いしたのかも知れません。とにかく過労が続くと四肢がこわばり、ひどく痛みます。冬の寒さはリウマチの痛みに拍車をかけます。そのため衣服の着脱さえ思うにまかせない時もあります。年内いっぱい職務に精励した正造は、明治四年の正月に休暇をとりました。鹿角にはいくつかの温泉があります。正造は小豆沢温泉で湯治することにしました。湯治の効能は著しく、五日ほどで四肢の痛みはほとんど治癒しました。こうなると退屈嫌いの正造は、のんびりしているよりも仕事をしている方がよく、一月八日に仕事に戻りました。
事件が起こったのは一月十日の午前二時頃です。官舎で眠っていた正造は戸を叩く音で目を覚ましました。戸を開けると花輪支庁の小使いがオロオロしています。
「大変だ、大変だ」
「どうしたんだ」
「大変だ、大変なんです」
小使いは半ベソをかいていて、埒があきません。正造はやむなく茶碗に水を汲んできて呑ませました。
「落ち着いて話せ」
「木村さんが只今、斬られました」
「なに、死んだのか」
「まだ生きております」
「それを早く言え」
正造は聴訟課の課員です。聴訟課は捕亡吏を職掌していたから、直ちに手を打たねばなりません。ちなみに捕亡とは巡査のことです。
「今すぐ医師を叩き起こせ。付近の医師をくまなく訪ねて叩き起こせ。誰彼かまわず連れてこい。官吏でも捕亡でもいい、とにかく手当たり次第にこの事態を言って廻れ。もどったら草鞋五十足を集め、飯三斗を炊き出せ」
正造は着物を着替えながら小使いに命じると、自身は木村新八郎の官舎へ走りました。着くと、顔見知りの桑吉がすがりついてきました。桑吉は木村新八郎の次男でまだ十五才です。木村新八郎大属は倒れていましたが、まだ息がありました。
「正造ですよ」
「何分、頼みます」
木村大属は苦しげに言いました。応急手当をせねばなりません。木村家の下僕も桑吉も動転してしまい、右往左往するばかりで手当も何もしていませんでした。
「おい、桑吉、しっかりしろ。鶏卵はあるか。ふんどし、手拭い、さらしをかき集めよ」
正造は木村大属の傷を確かめました。頭部を斬られています。正造は卵の白身を傷口に塗ってやり、手拭いでぐるぐる巻くと、蒲団を積み重ねて寄りかからせました。
「いかがです」
「何分、頼みます」
生きてはいるが、木村は同じことしか言いません。意識が朦朧としているらしい。応急手当を終えた正造は桑吉に事情を聴きました。
「寝ていると左耳に何か温かい湯のようなものがかかって目が覚めました。起き上がると父の顔が血まみれでした。父は賊を捜すため雪隠に行きましたが、見つからず、戻ってきました。『誰だ、何処へ行った』と父が声を上げたので、私は黙るようにしぐさで示しました。すると玄関口の方から賊が現われ、父を斬りつけました。賊は色白で小紋の服を着ていました」
やがて医師が駆けつけてきましたが、もはや木村新八郎は意識を失っており、ついに事切れました。桑吉が泣き叫ぶ中、正造は、すでに数十名ほど集まっていた捕亡に草鞋と握り飯を分け与え、部署を指図しました。ちなみに正造は小中村で米泥棒や財布泥棒を何人か捕まえたことがあります。殺人事件は初めてですが、捕り物には手慣れています。
厳冬期の東北です。雪は深く、道は限られています。容易に逃げられないと考えられました。逃げる者がいれば目立つはずです。正造は盛岡、大湯、秋田の三街道にそれぞれ二名を向かわせて捜索させる一方、残りの人数をもって近隣の旧士族の家々を廻り、検刀させることにしました。犯人の刀には血脂が残っているはずです。
(いったい誰が何のために)
正造は推理します。犯人は金も奪わずに逃げています。おそらく木村新八郎に対する怨恨であろうと考えられました。木村は旧幕臣です。ひょっとしたら戊辰戦争にからまる佐幕派と尊攘派の抗争が背景にあるのかも知れません。
(新政府に遺恨を抱く旧盛岡藩士の仕業かも知れない)
鹿角郡は旧盛岡藩領です。盛岡藩は佐幕でした。隣の秋田藩は尊皇でした。尊皇の旧秋田藩士が遺恨で木村を斬ったとすれば犯人は秋田に逃げる可能性が高い。しかし、物証がありませんでした。
正造の機転によって迅速に捜索が開始されたにもかかわらず、犯人の手がかりは得られませんでした。やがて正造は検死報告書の作成を最後に聴訟課の仕事から解放され、開墾課の仕事に専念することになりました。
正造の仕事ぶりは評価されていました。開墾課業務のために正造が作成した図面や書類には独自の工夫が施されており、読みやすく分りやすかったからです。役所内の誰もが感心しました。江刺県庁内でも正造作成の書類が評判になり、ついに使部心得への昇進と県庁への異動が内定したのです。このことは花輪支庁参事官から直接申し渡されました。
「花輪支庁の開墾事務を終え次第早々本県へ赴任すること」
正造は自分の仕事が認められたことが素直にうれしく、今は亡き木村大属にも感謝しました。生前の木村大属は、具申書の控えを正造に見せてくれたことがあります。その具申書は正造の精励ぶりを本庁に報告する内容でした。
正造は勇躍し、たまりにたまっていた二百八十余件の開墾請願許可を一挙に片付けようと張り切りました。大仕事です。請願者の話を聞き、現地を踏査し、村役人に確認し、部下を指図し、テキパキと案件を処理していきました。没頭すること二ヶ月、ようやく全ての事務を終え、関係書類を二部の製本にまとめることができました。