払奸
新政府の御代となりました。六角家は所領を安堵され、小中村は戦禍を避け、奸臣等は自由を奪われました。万事めでたし、めでたしと思われました。
ところが状況が急転します。なんと戸田藩お預けに処されていた林三郎兵衛等が一ヶ月あまりで釈放されたのです。奸臣等は六角家における地位を回復すると、公選派に対する復讐を開始します。最大の標的は藤七と藤吉です。二人は陋巷に潜伏して逃げ回りましたが、ついに捕えられてしまいます。
正造は水戸へ走りました。天狗党に依頼して二人を助け出そうとしたのです。しかし、水戸藩は会津征伐の準備に忙殺されており、正造の訴えに耳を貸す者はありません。やむなく正造は江戸へ走り、奔走数日、ついに烏丸家への伝手を得ることができました。烏丸家は六角家と姻戚関係にあります。正造は烏丸家への陳情嘆願書を書き上げ、奉りました。
その嘆願書は、烏丸家から、こともあろうに林三郎兵衛の手に渡ってしまいます。書中には林一派の奸計が列挙されており、しかも「御当主様御暗君」などと不敬なことまで書いてあります。嘆願書を捧呈し終えて一安心していた正造はあっけなく捕縛されてしまいます。
林三郎兵衛は陰険な表情で正造に言い渡します。
「その方の願いどおり、藤七、藤吉両人を出牢せしめ、その方を以てこれに代わらしむ」
藤七と藤吉は三尺立方の獄を出され、代わりに正造が入れられました。三名は互いに顔を見合わせましたが、言葉を交わすことは許されませんでした。
翌日、六角家江戸屋敷表玄関に設けられた仮の御白洲に正造は引っ立てられました。六角家の幼君や林三郎兵衛らが見下ろす地面に正造は後手に縛られたまま座らされています。二の腕から手首まで厳重に縛められています。吟味役は林の息のかかった旧幕府吟味役です。正造はジリジリしながら訴訟の進行を睨んでいました。全てはヤラセの芝居です。林は知らぬ存ぜぬを決め込み、吟味役もそれを了とします。ようやく発言を許された正造は鬱憤を晴らすように朗々と淀みなく林一派の罪状を申し述べました。
「三郎兵衛、時勢を弁えず、御幼少の若君へ御嫁取御普請と号して、御先代の御中止遊ばされ候えし御普請を、御先代御死去後において再興し、反対の我々父子に蟄居を命じ、土屋亮左右衛門を逐い、たちまち表門を始め両長屋門の改築を致し、御用途金をしてことごとく之を濫費したるは、全く金銭を無用有害に用いたるの証なり。しかして三郎兵衛が無用の土木を専断断行したるは、その実、出入りの町人共より多くの賄賂を取るの目的を以ってしたるに外ならずして、その証拠は現に諸材木、屋根瓦、門金具等すべて見積もり仕様の半金にも価せざる粗悪の材料を以て知るべきなり」
正造の声は江戸屋敷に響きわたりました。林一派の悪行を聞かされた旧幕臣の吟味役は驚いてしまいます。知らぬ事ばかりがズラズラ出て来たからです。さすがに正造の言い分を無視できなくなり、吟味役は林に質します。
「この儀は如何」
「恐れ入り候」
林三郎兵衛は土色の顔で答えると、早々に退出しました。正造はさらに弁じようとしましたが、これは許されず、第一回目の詮議が終わりました。正造は自信を深めていました。
(明日こそは三郎兵衛に目に物見せてくれよう)
翌日、二回目の詮議が開かれました。場所は表玄関から移り、鬱蒼たる樹林に囲われた内庭です。嫌な予感がしました。
(なんの)
正造は、凛乎たる自信を奮い起こして不安を打ち消し、充溢する気力を腹中に蔵して粗筵に座しました。その途端、吟味役は正造を大喝しました。
「田中兼三郎より差し出したる書面は全体不敬なり、無礼なり」
それだけ言うと座を立ってしまいます。林から相当の鼻薬を使われたに違いありません。すると、手に手に責め具を持った小役人どもが正造を取り巻き、正造の背中を乱打し始めました。正造の背が血汐に染まった頃、吟味役が現われました。
「どうだ恐れ入ったか」
「否」
正造は苦痛に屈せず、なおも林一派の横暴、不正を理路整然と論じはじめます。しかし、吟味役には聞く気がありません。座を蹴って去ると、再び役人達による拷問が始まりました。詮議はそれっきりです。正造は牢に放りこまれました。正造の生殺与奪は完全に林三郎兵衛に握られてしまったのです。
正造は、およそ九十センチ立方の空間のなかに押し込められています。身体の大きな正造にはそれだけでも辛い。拷問によって傷付けられた背中が激しく痛みますが、どうする術もありません。緩慢な苦痛が正造を間断なく襲います。入牢刑は実に残酷なものです。悲惨な状況ではありましたが、正造の意気はなお軒昂です。
(我ながらよくやった)
林三郎兵衛は相当に焦っているらしい。正造の証言が相手の急所を突いている証拠です。激しい苦痛を埋めて余りある満足感が心を充たしています。
(死んで堪るか)
肉体的苦痛と精神的昂揚のなかで正造は生き抜く決意を固めました。正造は生き抜くために食を断ちました。毒殺を恐れたのです。獄内で給される食事には手を触れません。幸い懐には鰹節が二本あります。仲間が差し入れてくれたものです。正造は空腹を感じるたびにこれを舐め、しゃぶり、時に囓って飢えを凌ぎました。
徐々に背中の傷が癒え、身体の自由が効くようになってくると、牢の狭さが苦痛になってきます。非人間的なこの狭さはどうでしょう。立つことも出来ず、座っても頭がつかえる。横になっても膝を抱えねばならず、身体を伸ばすことが出来ません。身体的な苦痛は精神にも影響を及ぼします。
(起ちあがって大地を踏みしめたい)
という欲求は、叫び出したいほどの衝動となって気を狂わせるのです。三尺立方という、人間にとって最も苦痛な空間を発見したのは誰なのでしょう。正造は時に犬のように四つん這いになって胴体部分を延ばし、時に仰向けに寝て脚部を目一杯伸ばしました。それでも筋肉は徐々に衰えます。入牢が長引けば廃用性筋萎縮が進行して身体が衰えていくでしょう。やがて寝たきり状態になると呼吸筋までが衰えて死に至るのです。三尺牢は緩慢な死刑装置でした。
飯入れの老僕は既に七十才を超えていました。顔のシワが深く、ほとんどの歯が抜けています。狭い六角家のこととて、この歯抜けの老僕は正造の祖父も父も知っていました。給食を拒み続けて痩せていく正造を見て哀れに思い、何度か忠告しました。
「そんなことでは身体がもたん。食え」
それでも正造は毒殺を恐れて給食を口にしません。老僕は堪りかねて正造の様子を人に伝えました。「正造瀕死」の噂が広まり、江戸屋敷内に同情論が湧き上がりました。かつて正造は、慣れない社交をして江戸屋敷内に公選派の同志を形成しておいたのですが、それが生きました。公選派の運動によって訴訟の吟味役が交代したのです。正造を拷問した旧幕府吟味役に代わり、烏丸家の吟味役が就任しました。
正造が入牢して既に三十日が過ぎていました。この間、食事は一切とらず、鰹節だけを栄養にして生き存えています。頬は痩け、目は落ちくぼみ、肋骨もあばらが浮いています。それでも気力だけは確かで、次なる訴訟の場においてこそ、林一派の悪事を曝き、身の無実を証明せんものと闘志を燃やしています。そこへ見慣れぬ武士が現われました。
「なぜ食事をとらぬか」
武士は丁重に尋ねました。正造は林一派による毒殺を怖れているのだと正直に告げます。すると武士は大いにうなずき、次いで諭しました。
「さもあろう。しかし、今より後は毫もその懸念はない。自分は新たに任命された吟味役である。以後は安んじて食事を口にするがよい」
それでも正造は疑いを解かず、鰹節を囓り続けました。
数日後、いよいよ第三回目の詮議が開かれました。正造が正面を見上げるとあの武士が吟味役として威儀を正しています。この日以降、正造は安心して獄食を食べるようになりました。
結果的に正造は十ヶ月と二十日間という長期間の入牢を余儀なくされました。訴訟は公正に執り行われ、第四回目の詮議において御沙汰が下りました。正造に対する判決は「領分永の追放」です。
「領分を騒がし身分柄にあるまじき容易ならざる企てを起こし、僭越の建白をなせしは不届きの至りなるにより、厳重の仕置き申し付くべきの処、格別の御慈悲を以て、一家残らず、領分永の追放申し付くるものなり」
藤七と藤吉は「領分払い」、その他の名主は「村払い」とされました。一方、林三郎兵衛とその一派はことごとく「永の暇」とされ、六角家を放逐されました。どちらが勝ったとも言い難い、喧嘩両成敗の御沙汰です。それでも百姓らの運動によって悪代官が駆逐されたことを思えば、公選派の勝ちといって良いでしょう。
それにしても御家騒動ほど無益なものはありません。五年にわたる騒動の間、百姓たちは多額の運動費を浪費しました。運動費捻出のために家産を失った農民もいます。
正造も二十代の大半をこの不毛な騒動に費やし、しかも多額の借財を背負う羽目になりました。藍玉で儲けた三百両などはアッという間に消し飛んでいました。借金は元金と利子をあわせて千両です。
正造は処分可能な財産をかき集めて債権者に示しました。債権者は多く、いずれも近村の農民です。直蔵、慶蔵、万吉、彦左衛門、仲吉、善八、庄蔵、茂平、源蔵、馬之助、丈吉、文右衛門などの債権者は正造に同情的です。もともと公選派の仲間同士です。六角家の奸臣が排除されたことで充分に恩恵を受けています。債権者らは相談の上、正造の財産のうち三分の二には手をつけず、三分の一を平等に分け合うことにしました。ありがたいことには田畑などを法外な高値で見積もってくれました。おかげで借金返済の目途がつきました。正造は債権者の恩義に深く感謝します。
それでも「領分永の追放」となった正造は小中村を離れ、新堀米という在所で手習師匠になりました。正造は手許に残った財産を全て隠居料として両親に渡してしまいました。だから、自身は天地に身ひとつの境涯です。しかし、まだ二十八才の正造はむしろ希望に満ちています。三尺牢に閉じ込められていたことによる心身の苦痛はなお濃厚に記憶に残っています。同時に身体を自由に動かし伸ばすことの幸せを感じました。正造は、無邪気な子供らに接しながら暢気に過ごそうと思いました。驚くべきことに正造は炊事をしませんでした。面倒だったからです。空腹でも平気でした。苛酷な入牢中の断食体験が正造の体質を変えたもののようです。これを見た、子弟の父母らが心配し、持ち回りで正造の食事を世話することになりました。
(不思議なものだ)
頼んでもいないのに食事が出てくるのです。寺子屋の評判は上々です。門人五人から始まったものが、百日あまりで三十人に増えました。
「子弟の間、何時も和気藹々たり」
後に正造は書いています。子供達が皆仲良くしているのは、師匠たる正造の感化であるに違いありません。教えるのは素読と習字です。たまに訓詁の講釈もします。明治二年のこの頃、太政官制度が改革されて府県が設置されたりしていましたが、教育制度の整備は未着手です。
「己の欲せざる所、人に施すこと勿れ」
この意味を正造は次のように教えました。
「自分の心にもないことを、人にしてはいけない。その気がないなら、するなということだ。逆にいえば、人に何かするとすれば、それは自分が心からしたいことでなければならない。心にもないことをするのは巧言令色というものだ。何事にも心を込めよという教えだ」
子供たちに教えつつ、正造は自身の過去を振り返っています。正造は百姓身分であることを省みず、御家騒動の渦中へと猪突猛進していきました。それは疑いようもなく正造自身が望んだことです。名主の仕事の退屈さを嫌い、お家騒動を心中ひそかに喜んでいました。そして、そのとおりのことをやったのです。悔いはありませんでした。
(自分はいったい何者か)
そんなことを考えながら正造は教えています。ちなみに論語は過激思想です。例えば次の一節です。
「子路、君に事えんことを問う。子曰く、欺くこと勿れ、而して之を犯せ」
正造は次のように解釈して教えます。
「主君に仕えるとはどういうことかと子路が問うた。先生は言われた。欺くな。そして主君を犯せ。犯せ、といっても殴れというわけではない。では、どういう意味か。それは、主君に逆らってでも道理に適った意見を直言せよ、という意味である」
主君に対して諌言せよと孔子は教えています。また孔子は別の章で次のように言います。
「道を以って君に事うるなり。不可なれば則ち止む」
その意味するところは、「道を以って君主に仕えるのだ。君主が道を行なわないならば辞職する」です。つまり、主君ではなく道に仕えるのです。その意味で論語は君主たちにとって不都合な過激思想でした。なにしろ君主の上位に天をおいているのです。正造は素直に論語を読み、自身の行動に恥ずるところはないと思いました。道が行なわれなかったからこそ、林三郎兵衛に対して叛旗を翻したのです。