辛酸佳境に入る
政治家田中正造の面目を躍如たらしめる逸話があります。明治二十九年の末、改進党事務所での出来事です。犬養毅が正造に言いました。
「田中さん、今は鉱毒問題のごとき一局部の問題に汲々たる時でもありますまい」
正造はキッとなって反論します。
「曾我兄弟は父の仇のために終生を畢わり、佐倉宗五郎は人民のために死んだ。鉱毒の如き三十万の人民、四万町歩の被害というこの大問題が区々たる一部局の問題とは何か。徒に猟官に汲々たるものに問題の大小など分かってたまるか」
後に「憲政の神」と称賛される犬養毅もペシャンコになりました。正造は、抽象的な憲政論ではなく、あくまでも国民生活の実態に心を動かす政治家でした。
その正造は、明治三十四年十月二十三日、衆議院議員を辞職しました。
「道を以って議会に訴うるなり。不可なれば則ち止む」
そんな心境だったのでしょう。帝国議会が頼みにならぬ以上、衆議院議員の地位に恋々としてはいられない。直情な正造は、本気で「よき人」になろうとしていました。
「野人」というのが議会内での正造の仇名でしたが、議員辞職した正造は文字どおり野に下って野人となりました。国会議員としての権限を失い、金もなく、ただ燃える情熱だけがあります。情熱は正造を狂わせます。
「而して之を犯せ」
正造は最後の手段として天皇陛下への直訴を考えました。政府も議会も当てにならぬことがわかった以上、もはや訴えるべき相手は天皇陛下しかありません。正造は何人かの文章家に秘計を打ち明け、直訴状の執筆を依頼しました。天皇陛下への直訴状ですから、粗漏があっては不敬になると畏れたのです。優れた文章家の助けが必要でした。しかし、誰もが後難を恐れて執筆を断り、むしろ正造の無謀を止めようとしました。直訴などすれば死は免れまい。唯一、正造の要請に応えて直訴状を執筆してくれたのは幸徳秋水です。親ほどに年の離れた老翁の嘆願を幸徳は受け容れました。正造が切々と語る鉱毒被害の惨状を幸徳は記録も取らずに聞き流しました。
(聞いているのか?)
正造は心配しましたが、後日、できあがってきた幸德の文章は見事でした。正造はこれに満足しましたが、なお正確を期すために修正を加え、その箇所に訂正印を押しました。
明治三十四年十二月十日は、第十六議会の開会日です。その朝、正造は日比谷にいました。直訴すべき場所を下見すると、なお時間がありました。正造は衆議院議長官舎を訪れ、顔見知りの給仕に頼んで応接間を借り、この期に及んでなお直訴状の添削作業を始めました。帝国議会では天皇陛下をお迎えして開院式が行なわれています。開院式から御還御になる天皇陛下に直訴するというのが正造の計画です。正造は、陛下の御還御を知らせるよう給仕に依頼し、添削作業に熱中しました。
「御還御です」
午前十一時四十分頃、給仕の声で我に帰った正造は、直訴状を折りたたんで奉書紙に収めました。大通りに出た正造は人垣をかき分け、大音声に叫びつつ御料車に駆け寄ろうとしました。
「お願いがございます!」
身体が思うように動きませんでした。既に還暦を過ぎ、持病のリウマチも悪化しています。転倒する正造を尻目に御料馬は歩みを乱すことなく進み、しずしずと通過していきました。決死の覚悟で敢行した直訴は空振りに終わりました。
にもかかわらず新聞各紙はこの事件を大々的に報じました。幸德秋水が直訴状の写しを公表したからです。しかしながら直訴は失敗しており、問うべき罪はありません。警察は狂人の挙動として片付け、同日の夕方には正造を無罪放免にしました。
ところが半年後の明治三十五年六月、正造は巣鴨監獄に収監されました。その理由は直訴未遂ではなく、なんと欠伸でした。さかのぼること二年、川俣事件の第十五回公判を傍聴していた正造はふと眠気を催しました。ちょうど検察官の論告中でした。検察官はありもせぬ罪状を捏造し、長々と陳述しています。そんな検察官への憤懣が奇行になりました。正造はあてつけ気味に大欠伸をしてみせたのです。
「はあーあ、あー、あっと」
これみよがしの大声が法廷に響きました。これがまずかったのです。二年前の微罪ながら正造は官吏侮辱罪に問われ、ついに重禁固一ヶ月十日の刑に服することになりました。生涯で四度目の入獄です。
鉱毒被害は渡良瀬川流域の肥沃な大地から生命をことごとく奪い去り、茫漠たる無機的空間に変えてしまいました。土地とともに生きてきた農民たちにとって、この苦しみと悲しみは筆舌に尽くしがたいものです。その悲惨を知るには吾妻村下羽田の庭田源八という老農の手になる文章を読むとよいでしょう。
『立春正月の節。雪が一尺以上も降りますと、まだ寒うございますから、なかなか解けません。子供などがその雪を二坪ぐらい片付けまして、餌を撒き置きますると、二日も三日も餓えておる小鳥が参ります。そこへ青竹弓でこしらえたブツハキといふものを仕掛け、餌を漁るのを待ち受け、急に糸を引きますると、矢がはずれ青竹弓がはずれまして、雀や鳩が一度に三羽も五羽も獲れました。また雪を除き餌をまいた所へ麦ふるいの篭を斜にかぶせ、細き竹に糸を付け、小鳥が餌に飢えて降りてきたのを見て糸を引きて獲る。一羽二羽は獲れ申候。近年、鉱毒被害のため小鳥が少なくなり、二十歳以下の者、この例を知る者なし。
正月の節よりも十日もたちまして雪が七寸ないし一尺も降りまして、寒気は左程ゆるみましたとも見えませぬけれど、最早陽気でございまして、あくる日が晴天になりますと、雪は八、九時、十時頃より段々解けまする。田圃でも日向のよい所は、ところどころ土が雪より現はれます。陽炎が立ちまする有様、陽気が土中よりのぼりて湯気の如くに立ちのぼる。然るに鉱毒被害が深さ八、九寸より三尺に及んだため、田圃には更に陽気の立ちのぼるを見なくなりました。
清明三月の節になりますると、藪の中や林の縁に野菊や野芹や蕗や三ツ葉ウドなどがたくさん生えました。川端にはクコなどと申すものが多く生えました。三月の節句に草餅を搗きまするに蓬を使いますが、蓬はいくらでもありまして、よく摘みましたものでござりますが、只今では、鉱毒地には蓬が少なき故、利根川堤や山の手へ行つて摘んで参ります。近年は拠ん所なく、蓬の代りに青粉と申すのを買ひまして、搗きまする。
桜の花の盛りにはマルタという魚が群れをなします。梨の花盛りを旬として、渡良瀬川へ川幅一杯に網を張り通し、夕暮五時頃より、翌朝六、七時までに、魚が百貫以上も獲れました。また闇の夜などに、川や沼に大高浪押し来り、小胆の人は大蛇かと驚きましたが、カワウソが多く子を連れて、泳ぎ歩くのでござりました。淵と名のつきましたところは、平時にも水が二丈や三丈はありました。鯉など年中はねておりました。只今では毒鉱土砂沈殿し、河底埋塞のため、平水の節は、淵と名のつきました所も八尺か九尺しか水深がありません。浅くなりました故、魚はおりません。
小満四月、中の節。山林田圃などには蛇が多くおりました。蛇の種類も色々ありました。山カガシというのがあり、あのシマ蛇というのがあり、地モグリというのがあり、青大将というのがあり、また、カナメというのがありましたが、只今では鉱毒地には更に御座なく候と申してもよろしきくらいでござります。また畑の境界などには、ウツ木と申しまする樹を仕立てます。この木は根が格別ふえませぬ故、境木などに至極よろしくござります。この木に卯の花と申す真白な花が咲き乱れました。この花の頃は時鳥があちこち啼いて、飛びちがいましたものでござりますが、只今では、虫や蜘蛛が鉱毒のためおりませぬ故か、一と声も聞きませぬ。卯の花も咲きませぬ。カマキリや、ケラ、ムカデ、蜂、蜘蛛などがおびただしくおりました。土蜘蛛と申しまして木の根や垣根などに巣の袋をかけておりましたが、鉱毒地には、只今いっさいおりませぬ。
芒種五月の節にあい成りますると、野にも川にも螢が夥しくおりまして子守や子供衆は日の暮を待ち兼ねて螢狩りに行きましたものでござりますが、鉱毒のため少しも見えませぬ。此節に到りますると、大麦は丈五尺位ありました。並みの馬につけますには、余程高く付けませぬでは、穂を地面に引きずりました。一反で三石四、五升くらい獲れました。小麦も丈が四尺余もありました。一反で二石五斗位は獲れました。菜種も丈が六尺以上ありました。一反で一石八、九升まで獲れました。朝鮮菜と申しまするは、丈が七尺以上ありました。一反二石以上とれました。辛子は丈が八尺より九尺位ありました。一反で一石以上とれました。下野国足利郡吾妻村大字小羽田は、関東にても有名の肥土でありましたが、只今は鉱毒被害のため、何も生えませぬ。
処暑七月の中の節。土用明けてから十日もたちますると渡良瀬川、朝日出づる頃よりして、何千万と数限なきカゲロウが川の真中、幅三間位のところを、列を連ねて真白に飛び登り一時間半もたちますると、早や流れ下りました。これが毎朝十五日くらい続きましたが、只今は少しも飛びませぬ。また鵜烏といふ鳥が川や沼に年中おり、魚を餌にして棲んでおりました。また暑気強き日、大雷が鳴りまして、渡良瀬の河原、焼け砂に急に大雨が降りますと、午後六、七時頃には右申上げました河原焼砂は雨に流れ出ます。このため川水は泥濁りになりますると、小魚が喜びまして、川原の浅瀬に多くやってきます。こに投網と申すを打ちますと、沢山に獲れました。網を持ちませぬ者は、竹箒などで掃き上げて獲りましたものでござります。また田面、沼川の辺には、多く白鷺がおりまして、小魚を餌にして飛びあるきましたが、只今では、夕立いたし大雨が降りましても、魚は獲れず、白鷺も鵜烏もおりませぬ。
大雪十一月の節になりますと、大根や牛蒡や葱芋などが、多く獲れました。この芋などは、人々何れも野中または道端などに穴を掘りまして、この穴に五駄分も七駄分も入れて置きました。こうした塚が一戸につき三つも四つも五つもござりましたから、それぞれ我家の印や苗字などを、塚の上に印をつけておきまして、これに麦種を蒔入れて置きまする。来春に相成りますると、その麦が青々と生えまして、心覚えになりましたものでござりまするが、只今は、鉱毒のため芋が獲れませぬから、何処を歩きましても、この塚はござりませぬ。
大寒十二月の節に相成りますると、貉や狐などが人家軒端や宅地などを、めぐり歩きました。貉はガイガイガイと鳴き、狐はコンコンコンと鳴く。ケインケインと鳴くのもありました。屋敷周りなどに、人参など土に埋めて置きますると、掘り出して喰ふものでござりましたが、鉱毒のため野に鼠もおらず、虫類も無く、魚類も少なき故なるべし、二十歳以下の青年は御存じありますまい』
生活の全てを奪われた老農の悲しみが飾り気なく書かれています。この庭田源八の文章を世に伝えたのは毎日新聞記者の木下尚江です。木下は鉱毒被害の現場をくりかえし取材するうち、田中正造と相知るようになり、晩年の正造の様子を書き残しました。正造と木下尚江とは三十ほども年が離れています。その若者に対しても正造は礼儀正しく接しました。木下の目に映る正造は「山のような体躯」の大男であり、「大蛇のような眼球」を持ち、破鐘のように咆吼しました。しかし、正造の容貌には既に疲労の色が濃くなっていました。
明治三十七年七月、正造は谷中村に入りました。すでに政府は谷中村を買収して遊水地化する計画を進めています。農民を救済するのではなく、農民を追い払い、激甚被害地の谷中村そのものを廃村にして水没させ、総てを隠蔽しようとしたのです。四百五十戸ほどの農家を追い出すため官憲はありとあらゆる非道を行ないました。天井川を浚渫せず、堤防が崩れても修復しませんでした。このため洪水が頻繁に発生して農作物が収穫できません。農民は生きるために借金せざるを得ません。民選村長を栃木県は承認せず、官選村長を送り込みました。村民が自力で堤防を修復すると、官憲は河川法違反だと非難し、わざわざ税金で人足を雇い、修復されたばかりの堤防を破壊しました。
「打ち壊しが来るぞ」
村内に流言を広めておいて、そこへ商人を入れます。家屋、農地、家財道具、家畜、家禽など、ありとあらゆるものが安く買いたたかれました。暮らしていけなくなった農民の多くは、わずかばかりの補償金とひきかえに村を出て行きます。それでもなお頑強に抵抗する農民がいました。正造は残留農家を歩いてまわり、大きな声で励ましました。
「この田中正造がきっと敵討ちをしてあげますぞ」
そう言いながら、正造は目に涙を浮かべます。もはや万策は尽きているし、すでに農村は無残なほどに荒廃してしまっています。それでも村にとどまろうとする農民がいる限り、正造は抵抗運動を続けるつもりです。抵抗運動の無益なことを説き、正造を翻意させようとする人々は少なくありません。ですが、正造にはまだ武器が残っていました。言論です。が、所詮は言論も商売であり、さもなければプロパガンダに過ぎません。わずかな原稿料と引き替えに、心ない中傷に曝されました。
明治四十年六月、最後まで谷中村に残っていた農家十六戸の家屋が強制破壊されました。その際、心境を問われた正造は次のように答えました。
辛酸、佳境に入る
楽また其の中に有り
農民は仮宅小屋を建てて谷中村に住み続けました。台風がくれば小屋の屋根は吹っ飛びます。老人から幼児まで蓑笠を身につけて台風が過ぎるのを立ちん坊で待つしかありませんでした。哀れというしかありません。正造も一緒に濡れました。
正造には溢れるような善意と正義感がありました。しかし、政治の現実には疎く、政略がなく、政治勢力を拡大するための裏工作など一切しませんでした。正義を主張すれば世に通じると信じているのです。もともと正造は商才の持ち主でした。渡良瀬流域の地力さえあれば正造はいくらでも救民事業を立ち上げ得たでしょう。しかし、鉱毒は田園そのものを破壊してしまったため正造にも為す術がありませんでした。一毛ほどの私心が正造にあれば、衆議院議員を続けつつ、ほどほどに足尾鉱毒問題に取り組み、ほどほどに私生活を維持することができたでしょう。それが政治家というものであり、それで良いのです。ところが正造は、何事も徹底しなければ我慢がならない性分です。すべてを放擲して鉱毒問題に没入しました。やがて議員の地位も金銭も体力も失い、ついには鉱毒被害農民と生活を共にし、一緒に涙を流すだけの存在になりました。「鉱毒文学」の最終盤はいかにも哀切です。
『嗚呼我々は身のためと、人のためには死も怖じず、嗚呼我々は土地のため、国のためには死も怖じず、嗚呼我々は憲法を、守るためには死も怖じず、時の政府は何故に、かくも我等を虐ぐる、早く清めよ渡瀬川、清めて死人の処置をせよ、清めて我等を殺すなよ、嗚呼我々は大君の、愛し賜る国民ぞ、早く清めよ渡瀬川、早く清めよ渡瀬川』
大正二年、民権政治の開花を予感させる憲政擁護運動の最中、田中正造は死にました。財産は何もありませんでした。正造の生涯は、その甚大な精勤と努力にかかわらず、成功からは縁遠く、得られた報酬は皆無でした。




