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帝国議会

 明治二十二年二月十一日、大日本帝国憲法が公布されました。これ以後、三島通庸のような藩閥官僚による暴政は緩慢に消滅していきます。立憲政治の萌芽です。

 明治二十三年の第一回衆議院議員選挙に栃木三区から出馬した正造は、支持を得て当選しました。正造は立憲改進党に属し、奇人ぶりを発揮しながらも、民権論の立場から藩閥政治をきびしく批判しました。

 渡良瀬川流域に何も問題が起こらなければ、田中正造は民権政治家としての後半生を全うできたでしょう。しかし、天は新たな試練を正造に与えます。足尾鉱毒事件です。この事件に取り組む正造を立憲政治は必ずしも助けませんでした。


 足尾銅山の歴史は古いもので、銅の採掘が始まったのは江戸時代の初期です。銅の採掘量は年を追って増えましたが、万事が人力頼みの時代には足尾の鉱毒が渡良瀬川を汚染するまでにはなりませんでした。足尾から産出された銅は、江戸城や日光東照宮の建造に利用され、寛永通宝の鋳造にも使われました。足尾銅山は百年ほどで有望な鉱脈が掘り尽くされたため、幕末には閉山状態となりました。

 維新後、足尾銅山の経営に乗りだしたのは古河市兵衛です。古河は足尾銅山のほか、阿仁銅山、太良鉱山、八森鉱山、院内銀山、不老倉銅山、永松銅山、大鳥銅山、水沢銅山、草倉銅山、勝野炭鉱などを経営し、鉱山王と呼ばれ、古河財閥を形成した人物です。その幼少期は貧困でした。幼くして丁稚奉公に出され、実地を踏み、独学で商売を学びました。数々の商売に手を出して失敗と成功を繰り返すうち、鉱山業に志を固めます。足尾銅山を買収した古河は、明治十年から経営を開始しました。数年間は全くの赤字経営でしたが、明治十四年に有望な新鉱脈が発見され、経営が一気に好転します。足尾銅山の産銅量は明治十五年の百三十二トンから、翌年には六百四十七トン、明治十七年には二千二百八十六トンと飛躍的に増えました。古河市兵衛は水力発電による電化を導入したり、ドイツから最新機械を導入したりして増産に努めました。そのため産銅量はますます増えました。明治二十三年には五千トンを越え、明治三十三年以後は毎年六千トン台を維持しました。銅は日本の主要輸出品目となり、外貨獲得に貢献したのです。

 足尾は大いに栄えました。最盛期、足尾の人口は十万人を超えたといいます。峨々たる山岳地帯に現出した鉱山都市といってよく、今日なお残る産業遺産によって当時の殷賑ぶりを想像することができます。

 ですが、鉱毒被害は早くも明治十三年に発生していました。渡良瀬川で鮎が大量死したのです。原因は不明でした。栃木県令藤川為親は「渡良瀬川の魚を食すべからず」との布告を発しました。以後、豊かだった渡良瀬川の魚類は激減し、明治二十三年頃までにほとんど死滅します。このため三千軒ほどあった渡良瀬川の漁家は生業を失いました。被害は川だけではありません。精錬所から立ち上る煤煙は足尾山地の山林を死滅させ、数ヵ村が煙害によって廃村となりました。広大な山地が禿山となり、大量の表土が流出しました。土砂の流出によって渡良瀬川の下流は天井川と化しました。このため下流域では洪水が頻発するようになり、洪水とともに河床の鉱毒が溢れ出し、流域の田畑や井戸を侵しました。このため稲や桑をはじめとする農作物全般の収穫が激減しました。やっと収穫できても風評のために安く買いたたかれました。家畜や家禽が死んでゆき、妊婦の流産や死産が増えました。無事に出産しても母親の乳が出ず、幼くして死ぬ児が増えました。適齢期の男女は結婚相手を見つけるのが困難になりました。

 鉱毒によって生業を奪われた農漁民たちは貧窮にあえぎ、健康を蝕まれました。それでも鉱毒を含んだ土地を耕すしかなく、その川水や井戸水を飲むしかありませんでした。烟害があると知っていても鉱毒の染みこんだ薪を焚かざるを得ないのです。土地の資産価値は減失し、急場を凌ぐために売ろうとしても買い手がつきません。豊かで平和だった渡良瀬川流域の農村生活は根底から崩れ去りました。田中正造の著した「鉱毒文学」は、その悲惨を次のように伝えています。


『昼なお暗き足尾山、野火煙毒と濫伐に、雨露湛える力なく、降る雨毎の洪水は、岩石崩れ砂流れ、かてて加えて流毒は、渡良瀬川をかき濁し、その害いとど著く、魚介の類は言うもさら、沿岸田畑は害されて、見渡す限りの良田は、みな毒波に浸されて、家屋人畜流亡し、田畑に一穂の稔りなく、家に喰らうの粟もなく、見るも哀れの枯野原、嗚呼我々の祖先こそ、みな渡良瀬の賜ものに、かくも賑わいたるものを』


 その被害範囲は群馬、茨城、埼玉、栃木の四県、十二郡に及びました。富農でさえ零落し、一家離散しました。それでも土地にしがみつくのが農民です。女たちは機織りの賃仕事に精を出し、何とか家計を支えようとしました。幼い子供までが就学をあきらめて懸命に働きました。

 甚大な被害です。にもかかわらず原因究明は遅々として進みませんでした。農民たちは被害を訴えるため陳情団を組織し、何度も上京しましたが、その度に警察によって鎮圧されました。富国強兵を進めつつある明治政府は、この問題を等閑視し、煙たがり、先送りしました。その態度は、高度経済成長期に発生した公害問題に対する日本政府の姿と何ら変わりません。足尾精錬所からの煤煙と排水が原因であると特定されたのは、ようやく明治二十五年のことです。鉱毒被害の発生からすでに十年以上が経過していました。


 衆議院議員となった田中正造の政治課題は、当初、薩長藩閥政治の打破、自由民権の確立、経費削減と民力涵養でした。正造は帝国議会が開かれるたびに演説したり、多数の質問主意書を提出して政府を追及しました。ところが質問に対する政府答弁は要領を得ず、それどころか全く答弁しない場合さえありました。

「その答弁が常に粗を極め、漫を極め、ために質問者は疑上疑を生じ、惑上惑を重ね、到底するところしばしば紛擾抗争を醸して立法行政の間ますます溝を穿ちつつあるは、余が年来実地に見聞するところなり」

 正造は憤りを込めて書き残しています。正造の堂々たる議員活動を物語る逸話は少なくありません。なかでも第十三議会中、明治三十二年三月六日の演説はいかにも正造らしいものでした。この議会に政府は議院法中改正法律案を提出していました。その内容は議員歳費を八百円から二千円に値上げするという内容です。大部分の議員は賛成でした。歳費が上がればありがたい。反対意見は少数でした。正造は、その少数意見の先鋒でしたから、反対議員を代表して演壇に立つことになりました。

 正造が演壇に登ると議場内に笑声が湧きました。着古したヨレヨレの着物に袴を穿き、蓬頭垢面のまま恥ずかしげもなく登院する正造は、帝国議会の奇人とされていました。確かに変わり者です。正造は自分の身なりを気にしない性分でしたし、そもそも金がありませんでした。金があれば惜しげもなく政治活動に投入してしまい、自分のためには使わなかったのです。しかし、正造は議場内の嘲笑など気にする風もなく、割れ鐘のような大声で歳費値上げに反対する演説を行ないました。

「議員は国家の歳計を自ら増減するの大権を持って居る以上、自分が取るところの歳費に至っては、これは取っても宜しいものでも万々取っても宜しいものでも、自らこれを謹まなければならぬ。若し国家が富んで租税も減ずる、総て租税を安くすることになったならば、あるいは我が国家が挙げて議員の歳費も高くしてやっても宜しいではないか、多くしてやっても宜しいではないかと、国民の声が立ってきても、議員たるものは容易に歳費を増加することはできない。それが議員の品位である」

 みすぼらしい風采の正造が歳費値上げに反対し、きらきらしい一張羅を身にまとっている議員らが賛成するのですから奇妙といえば奇妙です。この第十三議会では地租、酒税、所得税、醤油税などの増税案が通過していましたから、民力涵養を掲げる正造は何としても議員歳費の値上げに反対です。

 しかし、歳費値上げ法案は多数の賛成によって成立してしまいます。正造は黙って歳費二千円を受取っても良かったのですが、そうしませんでした。四月十九日に歳費辞退届を衆議院議長に提出し、歳費を辞退してしまったのです。正造は地元の支援者に幾何かの借金をしていましたが、その返済見通しがなくなりました。それでもかまわずに義を貫く。まるで子供です。


 渡良瀬川流域の農業被害の原因が足尾銅山の鉱毒だと特定されて以後、正造は鉱毒問題に全力を投ずるようになります。正造の選挙区である栃木三区こそ足尾鉱毒被害の最も深刻な地域でしたから、看過できるはずがないのです。足尾鉱毒問題について正造は繰り返し質問主意書を提出し、質問演説を繰り返します。


       質問主意書  質問演説

 第二議会     一通    一回

 第三議会     二通    二回

 第九議会     一通    一回

 第十議会     二通    二回

 第十二議会    一通    一回

 第十三議会    六通    四回

 第十四議会  三十三通    五回

 第十五議会   十二通    二回


 正造は被害地の窮状と救民を切に訴え、政府の不作為と不誠実を責めました。帝国議会が閉会になると、正造は鉱毒被害の現場に何度も足を運び、その被害実態を把握しようとしました。被害の波及範囲は広く、作業は困難を極めましたが、明治三十年までに一応の整理を終えました。「足尾銅山鉱毒被害種類参考書」と題された報告書には具体的な被害内容が列挙されています。


○個人の被害

・田畑荒廃に因れる不動産の減失

・土地変悪に因れる地下の低落

・地下低落に因れる売買実価の下落

・土地変悪に因れる肥料の減失

・田畑荒廃及び土質変悪に因れる収穫の減失

藁稈(こうかん)浸毒に因れる用料及び肥料の減失

・苅草浸毒に因れる家畜飼料及び肥料の減失

・積肥浸毒に因れる土壌培養力の減失

・毒水浸入に因れる家宅倉庫の減失

・家宅倉庫の浸毒に因れる穀菜其他飲食物の減失

・家宅倉庫の浸毒に因れる家畜家禽の斃死

・家宅倉庫浸入に因れる床下土砂の入替費増加

・土中浸毒に因れる水脈の閉塞及び井水新鑿費増加

・原野浸毒に因れる茅葭の枯凋及び草屋根葺料の買入費増加

・河川沼地の浸毒に因れる漁業の廃絶

・穀菜其他飲食物の減失に因れる営養補足費の増加

・漁業廃絶に因れる営養補足費の増加

・財産減失に因れる衣食住の欠乏

・貧困窮迫に因れる身体営養の不足

・貧困窮迫に因れる浸害物喫食の害

・井水浸毒に因れる飲料の汚害

・薪炭浸毒に因れる焚火の烟害

・毒水蒸発に因れる毒気の呼吸

・土質変悪に因れる筋骨過労の害

・土地荒廃に因れる所有権の消滅

・財産減失に因れる選挙権の消滅


○地方の被害

・土地荒廃に因れる共有地の減失

・毒水浸入に因れる共有家屋建物の減失

・地価低落に因れる税源の減失

・土地売買実価下落に因れる富力の減失

・鉱毒浸害に因れる堤防の竹木草苔枯凋

・竹木草苔枯凋に因れる堤防の決潰

・堤防決潰等に因れる道路及び橋梁の損失

・銅山薪炭の増加に因れる水源山林の乱伐

・山林乱伐に因れる土地流失河底埋塞

・河底埋塞に因れる舟楫往来の減失

・鉱毒浸害に因れる用水路の損失

・堤防決潰に因れる治水費の増加

・道路橋梁の損失に因れる土木費の増加

・生産貧窮に因れる救恤費の増加

・戸数人口の減失に因れる自治権の縮小


○国家の被害

・土地荒廃に因れる面積の減失

・土地荒廃に因れる国有地の減失

・毒水浸入に因れる国庫収入の減少

・地方財力の減失に因れる国力の減少

・地方の負担過重に因れる国庫補助の増加

・健康被害に因れる兵丁合格者の減失

・貧困窮迫に因れる国民教育の不振

・貧困窮迫に因れる犯罪者の増加

・道路橋梁の損失に因れる郵便電信の不通


 正造の、地を嘗めるような調査ぶりが目に見えるようです。正造は被害の計量的把握にも努めました。例えば、群馬県邑楽郡の被害耕地面積は六千二百三十四町歩、被害金額三百九十二万円という推計値を明治二十九年に発表しました。また、明治三十年に正造がまとめた四県十郡の被害統計によれば、被害耕地面積は三万三千四百六十六町歩、被害金額は千八百二十八万円です。鉱毒水の直接被害を受けた戸数は一万六千四百七十戸であり、その人口は九万八千八百八十人にのぼる。そして、鉱毒の害による死者は千人を超えていました。こうした調査結果を基にして、正造は機会ある毎に鉱毒問題の深刻さを帝国議会で訴え、その救済を政府に請うたのです。

 正造の活躍によって足尾鉱毒問題は時事問題となり、世に知られるようになりはしました。しかし、政府も帝国議会も対策には鈍感でした。警官隊は被害民の請願運動を容赦なく暴力によって鎮圧しました。鉱毒被害を正確に伝える新聞も一部にはあったものの、吏党系の新聞各紙は被害民をあたかも暴民扱いし、正造の救民活動を売名行為と中傷しました。政府側の懐柔工作もあって被害民の内部に内紛が生じ、正造の救済活動は必ずしも思うにまかせませんでした。

 第十議会中の明治三十年三月二十四日、正造は演壇に立ち、政府と議会を責めました。

「対応が遅すぎるのである。その間にも被害は拡大していく」

 鉱毒被害を訴えに訴えても、多数の議員にとっては他人事でした。

〔笑声起る〕

 と衆議院議事速記録にあります。正造の演説中しばしば記録に残るほどの笑声が湧き起こったのです。正造は激昂せざるを得ません。

「お笑いになるお方があるから、なお一歩進んで言わなければなりませぬことが出来てきました。農商務大臣の別荘の向島の邸で菜が一本も出来なくなったら諸君どうする。すなわち自分の頭に感ずるのである。失礼ながら早稲田の大隈さんの邸のあの綺麗な庭が一本の草もない花もないとなったら諸君どうであるか。伊藤さんの小田原の滄浪閣も前の方の砂や、大磯の別邸の前の方の砂が鉱毒の砂ならどうでございましょう。自分の身の上に来れば分かるけれども、身の上に来ない内はどうも頭に懸けないのであります。この上はいよいよ彼是と面倒なことを申しておりましたならば、鉱毒の水を汲んできて農商務大臣に飲んでもらいましょう」

 このとき農商務大臣は榎本武揚でしたが、五日後には大隈重信に交代しました。田中正造は奇矯に走ります。正造は鉱毒の土を樽に入れて大八車に載せ、早稲田の大隈邸に運び入れ、大隈自慢の庭樹の根方にぶちまけました。大隈重信は不在でした。

「大隈公に鉱毒の害を見せるのだ」

 当惑する大隈家用人たちに言い捨てて正造は去りました。帰宅した大隈は事情を知って大いに驚き、鉱毒の土を取り除けさせました。大隈ほどの人物でも足尾の鉱毒には怯えていたようです。大隈は大いに立腹し、明治十五年以来の正造との交友を絶ってしまいます。


 第十四議会における正造の質問主意書提出数は三十三通と突出しています。議会中の二月十三日に発生した言論弾圧事件に怒った正造が、執拗に政府を追及したのでする。川俣事件といいます。

 川俣事件に至る経緯は概ね次のとおりです。足尾鉱毒に苦しむ被害農民たちはしばしば「押し出し」を実施していました。「押し出し」とは、集団で上京して請願運動することです。第一回の押し出しは明治三十年三月二日に行なわれました。およそ二千人の農民が米を持参し、徒歩で東京に向かいました。列車の運賃も惜しいほど困窮していたのです。この時には農商務大臣榎本武揚に面会することができました。榎本には心があったといえます。後日、榎本大臣は現場を視察し、現地の惨状に大いに驚き、鉱毒調査委員会を省内に設置しました。請願は実ったといえます。が、そうした政府内の動向は農民には分かりにくいものでしたし、そもそも日々の生活に困っている農民にしてみれば、調査委員会の設立などで納得できるはずがありません。

 同月二十四日、第二回の押し出しが行なわれました。およそ七千人が東京を目指しましたが、警官隊によって止められました。請願運動をやめるよう説得された農民らは解散し、代表者三名のみが上京しました。しかし、農商務相には会えませんでした。

 第三回の押し出しは明治三十一年九月です。およそ二千五百人の被害農民は東京府足立郡に至りましたが、そこで警察官と憲兵隊にさえぎられました。官憲は解散するよう農民たちを説得しました。正造も現場に駆けつけて解散するよう説得しました。正造の立場は苦しいものでした。当時、正造の属する進歩党は与党でしたから、正造は進歩党と被害農民の間で板挟みになっていたのです。

「俺が何とかする」

 正造は激昂する農民らに懇願し、押し出しを解散させました。そして農民代表五十人とともに上京し、農商務大臣大石正巳との面会を実現させました。しかし、隈板内閣はあっけなく翌月に総辞職してしまい、一切の約束は反故となりました。

 そして第四回の押し出しです。明治三十三年二月、群馬県川俣で利根川を渡ろうとした押し出しの農民らを警官隊がさえぎり、小競り合いの末、乱闘事件が発生しました。この事件を知った正造は大いに怒り、第十四議会において政府の不作為と怠慢と不法と暴力を責めるため三十三通の質問主意書を濫発したのです。

 明治二十四年から三十三年までの間に正造が提出した総計五十八通に及ぶ足尾鉱毒問題関連の質問主意書は、その標題を一瞥するだけでも鉱毒被害の甚大さと政府の無責任とを伝えてくれています。


公益ニ有害ノ鉱業ヲ停止セサル儀ニ付質問(第十議会)


邦内ノ一国ニ比スヘキ戸口ヲ有スル土地ニ対シ鉱毒加害処分ヲ果ササル儀ニ付質問(第十二議会)


足尾銅山鉱業被害民及国民ノ請願陳情及県会建議及衆議院質問ニ対シ当局大臣責任ヲ重ンセサル儀ニ付キ質問(第十三議会)


足尾銅山鉱毒被害地ノ広キ其請願ニ対シ各省互ニ責任ヲ避ケ各省互ニ相通シテ調査及其協議ヲ為サス空シク歳月ヲ経過セシメタル儀ニ付質問書(第十三議会)


足尾銅山鉱毒事変ニ対シ政府ハ未タ何等ノ処分ヲ施サス又議会開会中ニ際スルモ其案件ヲ提出セサル儀ニ付質問(第十三議会)


鉱毒ハ人ヲ殺シ当局諸大臣ハ其請願者ニ面会ヲ許ササル儀ニ付質問書(第十四議会)


院議ヲ無視シ被害民ヲ毒殺シ其請願者ヲ撲殺スル儀二付質問書(第十四議会)


警吏大勢凶器ヲ以テ無罪ノ被害民ヲ打撲シタル儀ニ付質問書(第十四議会)


政府自ラ多年憲法ヲ破毀シ曩ニハ毒ヲ以テシ今ハ官吏ヲ以テシ以テ人民ヲ殺傷セシ儀ニ付質問書(第十四議会)


良民ノ請願ヲ目シテ凶徒ト為スノ儀ニ就キ質問(第十四議会)


政府ハ特ニ関八州ノ人民カ従順ナルヲ侮リ各所ニ於テ無量数十万町ノ山林ヲ押領シ之ヲ愛スル所ノ縁故ニ与ヘ一方ニハ己レカ利欲ノタメニ六万余ノ有租地ヲ挙ケテ砂漠トナスヲ憚ラス終ニ其ノ被害民ヲ毒殺シ及殺傷セシ儀ニ付質問書(第十四議会)


加害者古河市兵衛ニ縁故アルモノヲ地方官吏ニ任シテ被害民ヲ殺シ尽サントスル儀ニ付質問書(第十四議会)


政府カ皇室ノ尊栄ヲ冒涜シ憲法ヲ無視スルノ甚タシキ儀ニ付質問書(第十四議会)


我等被害民ヲ救ヘヨ然ラサレハ之ニ死ヲ与ヘヨトノ請願ニ対シ之レニ暴行ヲ加ヘ殺傷セシメシハ何等ノ理由ニ出テタルカノ儀ニ付質問書(第十四議会)


鉱毒ヲ以テ多大ノ国土及人民ヲ害シ兵役壮丁ヲ減損セシ古河市兵衛ヲ遇スルニ位階ヲ以テセシ儀ニ付質問書(第十五議会)


 正造の質問主意書には多数の賛成者がいました。鉱毒の被害は四県十二郡に及んでいましたから、鉱毒問題に強い関心を持つ議員は少なくありませんでした。しかし、これらの質問に対する政府答弁書の内容は、正造を絶望させるに充分でした。

「質問ノ如キ事実ヲ認メズ」

 明治三十四年三月二十四日は、第十五議会の最終日でした。午後の会議が始まると正造は大声を張り上げました。

「二百三十九番」

「二百三十九番、何ですか」

 衆院議長片岡健吉が正造に発言を許しました。

「私は緊急にひとつお願い申したいことがございます。今日、答弁書の御披露がございませぬから、あちらの書記の部屋へいってみまして、農商務省の答弁書を二、三箇条見ましたけれども、存外不埒千万なる、この有名なる誰も知らない者はない渡良瀬川の魚が一尾も減っていないと明記してある。農商務省の大泥棒奴が、盗人野郎共が!」

 正造は咆吼しました。暴言であることは正造とてわかっています。しかし、気分が激してもはや冷静ではいられません。

「この国賊、国賊が政府を牛耳って居るということがいよいよ分かりました以上、そのことに決心しなければならぬのでございまする。この国賊を、懐手をして国家の田畑を悪くした野郎を、従五位に進めるというような、この大泥棒野郎が、大泥棒野郎が!」

 議場は騒然となりました。怒号が飛び交い、正造の退場を求める野次があふれました。片岡議長は正造を制します。

「田中君、あなたの発言は要領を得ない。簡単に要領よく仰い」

「そういうわけでありますから、政府へ質問書を差し出したることについて演説を致しとうございます」

「議場に諮らないと許すことができませぬ」

「議長において御取計りを願います」

「田中正造君に演説を許すことに賛成の諸君の起立を求めます」

「少数と認めます」

 それでも正造は発言の許可を求めて喚き続けます。

「田中正造君、発言を許しませぬ。静かになさい。第十五回帝国議会も本日を以て終了を告げたのでございます」

 これが正造にとって最後の帝国議会となりました。正造は足かけ十年にわたり衆議院議員を勤めました。憲法政治に基づく法の正義と法の前の平等を通じ、足尾鉱毒被害農民が救われると信じて奮闘しました。しかし、ついに政府も議会も頼みにならぬと悟りました。「鉱毒文学」の一節は悲嘆に満ちています。


『悲惨の数は限りなく、時の政府へ嘆願も、悪人輩に遮られ、九年の長きその間、今に清めぬ渡瀬川、時の政府へ嘆願も、費用に今は疲れ果て、親子は非命にたおされて、今に清めぬ渡瀬川』



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