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入獄三度

「三島征伐」

 正造はひとりで力んで動き回ってきました。紙と筆以外に便利な機器など何もない時代です。正造は足と目と手で証拠を集めました。この証拠を官憲に突きつけて、三島の暴政を白日のもとに曝し、世の正義に訴えようとしています。しかし、実際には官憲の捜索から逃げ回るばかりであり、収集した暴政の証拠を持て余しています。この証拠をどう活用すればよいか。

 正造は、集めた証拠を新聞社に持ち込もうとは考えていません。持ち込めば新聞記事にはなるでしょうが、たとえ新聞記事になっても三島の暴政を抑止する力にはなりません。それに、新聞社が発禁処分を喰らって経営難に陥るだけのことです。何とか心ある政府要人に証拠書類を届け、鬼県令三島通庸を栃木県から追い払ってもらいたい。正造がやっとの思いで東京に潜入したのはそのためです。これからが正念場です。

 赤羽万次郎は一刻ほどして帰ってきました。ゆり起こされた正造はまだなお眠く、ボンヤリしています。

「おい、寝ている場合じゃないぞ。外には偵吏がウロウロしている。ここも危ない」

 正造は赤羽に連れられて根津へ逃れ、そこで別れました。赤羽としては、とにかく正造を逃がすのに精一杯で、それ以上の知恵は湧きませんでした。言われるままになっていた正造は、とにかく眠い。目に入った旅籠に泊まろうとしましたが、宿の女将は正造の風体を怪しみ、あれこれうるさく詮索してきました。官憲の捜索が相当に厳しい様子です。正造は泊まりを諦めて、辻待ちしている人力車を拾いました。

「品川まで」

 そういうと車上で眠りました。品川に着くと、別の人力車を拾いました。

「新宿まで」

 また車上で眠りました。安心して眠れる場所は、この小さな移動空間しかないのです。やがて新宿に着くと正造は歩き出しました。十月四日の未明です。正造の足は外務大臣井上馨邸に向かっています。時あたかも鹿鳴館時代です。

(開明家の井上外相なら、わかってくれるのではないか)

 根拠はありません。正造の一方的な思い込みです。しかし、歩くうちに心配になってきました。面識もなく紹介状もないからです。これでは訪ねたところで会えるかどうかわからない。思い直した正造は警視総監大迫貞清の邸へ向かいました。大迫は薩摩藩出身の内務官僚です。大迫貞清は大度寛宏の人物として知られていました。明治七年、静岡県令に就任した大迫は干渉や圧政を排し、旧幕臣が数多く移住していた静岡県を見事に治めました。大迫を静岡県令に推薦したのは勝海舟であったといいます。

(あの大迫貞清ならわかってくれるのではないか)

 これも正造の一方的な期待です。もはや正造は万策尽き、当たって砕けろという心境になっています。訪ねてみると大迫警視総監は不在でした。正造は書き置きをして辞しました。

(やっぱり井上外相だ)

 誰かに紹介状を書いてもらわねばなりません。正造は知人を訪ね歩きます。念頭にあったのは小野梓、角田真平、島田三郎などです。いずれも著名な民権論者です。正造は島田三郎に会うことができました。その島田は警察から釈放されてきたばかりでした。加波山事件への関与を疑われ、厳しい取り調べを受けた直後です。そのためかどうか島田三郎は弱気でした。出頭せよとしきりに勧めるのです。

「朋友はみな入監して、足下の所在を吐けと拷問されている。足下、片時も早く警視庁に出で、朋友の苦難を救え」

 島田が言うのも無理はありません。知人友人、親類縁者の多くが理由なく拘束され、厳しく糾問されているのです。正造とて知らぬわけではなく、心苦しいところです。

「相手は鬼県令の三島通庸だ。覚悟はしていた。いやしくも政事家たる者、政友のために疑獄に投ぜらるるは予期するところのはず。いわんや正を履む者、誰か懼れんや。区々たる障碍に遭って志を屈するは本意にあらず。政友の苦難を思わぬわけではないが、これを厭うて志を枉ぐるわけにはいかぬ」

 正造は志を明らかにして、外相井上馨への紹介状を書いてくれと島田に懇願しました。

「足下の言や好し。しかし、今もし捕吏の手に陥れば百事はことごとく水泡に帰するぞ」

 島田は悲観的です。見込みはないから出頭せよと言います。もうこれ以上、無関係の人々を苦しめるべきではない、そう言って島田は新聞記事を幾つも示しました。いずれも正造の政友や縁者が逮捕されたり、家宅捜索されたりしたという記事です。こうなると、さすが強情な正造も窮するほかはありません。自分自身の苦痛は耐えられても、他人の苦難と災厄は耐えがたいものです。正造は非情な男ではないのです。己の志のために己が苦しむのなら平気だし、納得もでき、我慢もできますが、他人を苦しめて平然としているような冷血漢ではありません。

「君、早く決せよ」

 島田三郎に促され、正造はついに諾しました。そうと決まれば早い方がいい。正造は鍛冶橋の警視庁に出頭しました。苦労して集めた証拠書類を持参しています。

「どういう御用でおいでになりましたか」

 警視庁の田中正造に対する応対は丁寧でした。正造は広々とした応接室に通され、捜査第一課長と向い合っています。

「私は外務大臣に面会するため上京したのであり、他意はない。にもかかわらず、田中正造捜索のためと称し、朋友縁者ことごとく警察に捕縛されているのは何故か」

 そう言いながら正造は島田三郎にもらった新聞記事を示しました。

「自首ですか」

「自首ではない。そもそも私に何の罪科があるというのか。ただ理由を聞きたいだけだ。県令三島通庸は何故に理由もなく私の朋友縁故を逮捕し、これを拷問するのか。それを質したいだけだ」

「三島県令からは四、五日前に逮捕の依頼が届いております。警視庁はここ三日間あなたを捜索しておりました」

「逮捕する理由は何か」

「それは栃木県に聞かねばわかりません。おそらくは加波山事件の捜索でありましょう。しかし、理由については警視庁の関知するところではありません。ただ、我々はあなたを栃木県まで護送せねばなりません」

「それはダメだ。栃木県には法律がない。無法地帯だ。その暴政の証拠を集め、その事実を天下に暴露するのが今の私の仕事だ。栃木県に送られたら、私は間違いなく三島によって殺されるだろう。とにかくこれを見てくれ」

 正造は持参した証拠書類をひろげて滔々とまくしたてました。正造の収集した書類はまだ充分に整理されているわけではありませんでしたが、それでも三島の圧政を証して余りあるものです。寄付金の強制徴収、土地の強制収用、労役の強制、家屋田畑の破壊、住民に対する官吏の乱暴、逮捕、拷問などなど、その被害は栃木県全域に及んでいます。正造の推計では総被害額は数百万円にも及びます。地方税収わずか三十万円の栃木県においてです。その他、教育の停滞、風俗の壊乱、冤罪の蔓延、文書偽造など金額換算不能な要素を含めると、想像を絶する被害です。これでは県土県民が疲弊するに決まっています。正造は木村浅七宅の図面を広げ、さらに詳細に説明しようとしました。

「いや、お待ち下さい。ここは法廷ではありません」

「しゃべるだけはしゃべらせてください。聴くも聴かぬもあなたの自由です」

 捜査第一課長は黙りました。正造の話がひととおり終わるのを待ち、形を改めて言いました。

「我が帝国の治下、寸尺の地と雖も無法の地はありません。保証してもよい」

「その言葉に責任を持つか」

 正造は証拠物件の保全と一身の安全を条件に栃木県への護送に同意しました。課長は正造に弁当を与えた後、留置場に送りました。翌日、正造は一日がかりで宇都宮へ護送されました。宇都宮警察署に入ると弁当を与えられました。正造が食べようとすると、監視していた巡査は煙草の灰を弁当の上に灰を落としました。正造が灰を除けると、巡査は再び灰を落とし、薄ら笑いを浮かべます。

 翌日、正造は宇都宮監獄に移されました。田中正造の決死の活動も、結局のところ県政の大局には何等の影響を与え得ませんでした。県令三島通庸は、やりたいだけのことをやりました。県庁官衙の移転、郡長官衙の改造、塩原新道の開削、陸羽街道の改良、県道の新造などが県民の血涙と膏血を犠牲にして遂行されました。わずかの抵抗も怠業も許されませんでした。栃木県民は牛馬のように酷使され、虐待されました。田中正造がひそかに抵抗しているとわかると、その捕縛が命じられました。たまたま加波山事件が起こると、これを奇貨として捜査態勢を強化し、親類縁者はもとより知人友人から県会議員に至るまで百数十名を拘引、尋問し、ひどい場合には拷問を加えました。

 正造が獄中にあった十月下旬、太政大臣三条実美をはじめとする貴顕紳士の臨席を得て、三島通庸栃木県令は県庁開庁式、塩原新道開通式、三方道路開通式を華々しく挙行しました。

「道路は文明の母である」

 三島通庸は文明の名において暴政を正当化しました。ときに文明は猛々しい侵略者のように振る舞うもののようです。

 

 正造は入獄七十九日にして出獄を許されました。明治十七年十二月二十二日のことです。既に三島通庸は栄転して内務省土木局長となっています。三島は栃木県を去るにあたり、暴政の証拠書類をことごとく強制収集し、隠滅し去りました。正造が警視庁に預けた証拠書類一式も消え去っていました。官権の暴逆と民権の脆弱は、この時代の拭い去れない現実でした。

 出獄した正造を栃木県民は歓待しました。県内各地で歓迎式が催されました。正造の奮闘を県民は評価していたのです。この信用が正造の国政進出への土台となります。

 三島通庸の後、栃木県令は樺山資雄に代わりました。樺山は徳政を布いて三島暴政からの回復と救済に努めました。栃木県会も樺山県令に協力して県勢復興を目指しました。しかしながら、いったん荒廃した民心は容易に安定せず、疲弊した経済はなかなか復旧しませんでした。県会議員らは額を集めて泣きました。

「三島暴政の害毒、かくも甚だしきか」



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