夜路
『そもそも渡良瀬水源は、遠く流れを足尾より、関八州の沃野をば、貫き渡りて六十里、機業に名高き桐生町、足利佐野に館林、そのほか沿岸村々は、皆この河の賜ものぞ』
田中正造が晩年に書き記した「鉱毒文学」の冒頭部分です。関東平野の北辺を流れる渡良瀬川の流域は、人々の労働と自然とが見事に調和した豊かな田園地帯でした。米や小麦などの農産品、道端に生えている芹や蕗や蓬、梨などの果樹、川や沼で獲れる魚類などは人々の恒産となり、恒産はは恒心を生み、平穏な暮らしの基礎となりました。人々は星を戴いて家を出て、月を踏んで野より帰り、芋粥粟粥で餓えを満たして暮らしていました。
その渡良瀬川流域の村に田中正造が生まれたのは天保十二年の冬です。幼名は兼三郎。父は富蔵、母はサキと言いました。
「予は下野の百姓なり」
正造は半生記に誇らしげに書いています。家は代々の名主です。幕末維新の動乱はまだ始まっていませんでした。天保の大飢饉も数年前にはおさまって、田中家のある小中村は平穏でした。小中村の領主は高家旗本の六角家で、石高は二千石、下野七村と武蔵二村を治めていました。
正造は強情な子供でした。強情なうえに腕力も強かったので、ともすれば下僕をいじめました。これを見た母のサキは心配し、わが子の性情を矯めるため時に折檻しました。真っ暗な夜間に屋外に追い出し、正造がどんなに泣き叫んでもしばらくは家に入れませんでした。正造が大きくなり乱暴が激しくなると、サキは事ある毎に正造に言い聞かせました。
「そんなことをすると村の者が悪く言うよ」
ある日、正造は用事のため近村へ行くことになりました。それを伝え聞いた隣家の源治は、正造に伝言を頼みました。行き先の村にある賃機屋への伝言です。正造は気安く引受けて出かけました。ところが、正造は自分の用件に気をとられ、つい賃機屋に立ち寄って伝言するのを忘れてしまいます。
その夜、帰宅した正造は夕餉をすませて寛いでいたのですが、そこへ源治が訪ねてきました。正造に頼んでおいた伝言の返事を聞きに来たのです。
「おばんです。正造さんは?」
源治の声が正造に約束を思い出させます。
(しまった)
伝言の約束を思い出した正造は、身体が熱くなるのを感じました。憩のひとときは吹っ飛び、いきなり生死の竿頭に立たされたように正造は感じました。
(どうする?)
進退きわまった正造は裏口から夜道に飛び出すと、近村への道を駆け出しました。後ろから正造を呼ぶ声がします。正造は、かまわず逃げました。
(源治さんに会わせる顔がない)
頭を下げて詫びを入れれば済みそうなものでしたが、まだ若すぎる正造は謝るくらいなら死んだ方がマシだと思い詰めていました。何よりも自分のド忘れが恥ずかしい。昼間に歩いたばかりの道を正造は裸足で走ります。月がなく夜道は暗い。とりわけ木陰などに入ると夜目が効かないほどの漆黒です。気持ちは焦るのに歩速は鈍ります。すでに何度か木の枝に頭をぶつけたり、道端の地蔵に脛をぶつけたりしています。倒した地蔵をそのままにもしておけず、暗闇の中、手探りで元どおりにせねばなりませんでした。
夜道は危険です。野犬もいれば盗賊もいます。刀の試し斬りをするために侍が辻斬りすることもあります。が、そんなことは正造の眼中にありません。夢中で急ぎます。深更に及んでようやく隣村の賃機屋に着きました。正造は容赦なく戸を叩きます。たたき起こされる賃機屋こそ迷惑です。戸がガタゴトと動き、主人が顔を出すと、正造はせわしなく声をあげます。
「小中村の、源治さんから、早く織ってけれっつうこって」
「源治け、ああ、わかったげ」
たったそれだけの会話を交わすと、正造は小中村へとって返します。バカバカしいとは思っていません。むしろ清々しい気分です。休まずに帰路を急ぎます。小中村へ帰ると正造は源治をたたき起こし、賃機屋の返事を伝えました。東の空は朝焼けに染まっていました。
この出来事は小中村でちょっとした話題になりました。
「田中の跡取りは少し抜けとるが、信用できるげに」
正造は体力に恵まれ、身体を動かす野良仕事が大好きです。一方、勉学は苦手でした。学問の機会は充分に与えられていましたが、聖賢の教えは正造の頭脳には容易に定着しませんでした。四書五経はチンプンカンプンだったのです。
(自分には記憶力がない)
正造はそう思いました。いずれ名主を継げば必要になるからというので算盤も習わされました。しかし、算術は砂を噛むように面白くない。
(将来、名主が勤まるかどうか)
両親の心配は絶えません。
この頃、日本近海では外国船の来航件数が増えていましたが、嘉永六年、ついにペリー艦隊が浦賀に現われました。攘夷論と佐幕論で日本中が沸騰しはじめました。ですが、小中村には平和な時間が流れつづけました。関東地方の諸藩は水戸藩を除いてことごとく佐幕派であり、攘夷論はほとんど聞かれません。正造も政治には興味がありません。
政治などよりも、もっと深刻な悩みを正造は抱えていました。数え年で十五才になった正造は悪友にそそのかされて梁田宿の遊廓へ登楼し、見事に性病に感染していたのです。
(どうすっぺ)
正造は切羽詰まります。正直に感染したことを白状すれば恥になります。だからといってこのまま放置すれば、死に至るでしょう。いつも元気な正造がすっかり沈み込み、鬱々とするようになりました。
(正造の様子がおかしい)
母のサキは感づきます。飯もろくに食べないし、褌に奇妙なシミが付いているのです。サキは夫の富蔵に相談します。
(さては正造め)
富蔵はニヤニヤしましたが、サキに睨まれて真顔にもどりました。ともかくふたりは正造を注意深く見守り続けました。そんな折りも折り、正造が忽然と姿を消しました。
(このままでは座して死を待つだけである。しかし、この事態を暴露するのは恥辱である。いっそ江戸へ出て、名医を頼り、病を癒やしたうえで帰郷しよう)
そんな正造の稚拙な考えが、父の富蔵には手にとるようにわかりました。富蔵は人を雇って正造を捜索させ、村を出る手前で捕えさせました。正造は一室に幽閉され、投薬と信心による治療を強制されました。これは田中家にとって一大事です。跡取り息子が病気持ちだと知れれば、嫁の来手がなくなります。
正造はしばらくの間こそ幽閉生活を我慢していましたが、やがて限界が来ます。この時代の医師や薬は占い程度でしかありません。第一、若い心身が幽閉生活に耐えられなくなっていました。
(なんといっても湯治だ)
正造は屁理屈で自分を納得させ、無断で家を出ました。行く先は塩原新湯温泉です。湯治宿に投宿して一週間ほど過ぎたとき、前ぶれもなく叔父がやってきました。
「正造、バアさんが重篤じゃけ、一緒に帰るっぺ」
その言い様がいかにも嘘くさい。勉学の苦手な正造でしたが、人情の機微には目端が利きます。その夜、正造は叔父を出し抜いて帰途につきます。馬を雇って百キロ以上の行程を一日弱で駆け抜け、家に戻りました。家では祖母が仮病の準備をしていましたが、そこへ正造が帰ってきたので嘘が露見してしまいます。家族の鼻を明かした正造は、やがて帰ってきた叔父を詰問します。
「人をだましたっぺ」
正義感の強い正造は叔父を責め、ついには詫び状まで書かせました。肝心の性病は湯治の効能があったらしく治ってしまいました。
その後、これといって為すこともなく一年ほどが平穏に過ぎました。すると、正造は訳もなく焦りだしました。
(こんなことではいかん)
何事かを為さねばならぬ、という若者らしい苛立ちです。正造は農業に打ち込みはじめます。もともと身体を使って働くことが好きです。田を増やそうと思い、まず七坪ほどの池を埋めて田にしてみました。これはうまくいきました。気をよくした正造は、次ぎに八十坪ほどもある池の干拓に取り組みます。人の手も借りましたが、正造はほぼ独力でやってのけました。並外れた体力と精勤ぶりです。この時代、馬や牛や風力や水力を別とすれば、何事も人力に頼っています。頑健な肉体こそ何物にも代えがたい財産です。
「右手には鍬瘤満ち、左手には鎌創満ちて、その痕跡は今なおかくの如し」
晩年の正造の述懐です。苛酷な労働によって節くれ立った百姓らしい手を正造は生涯の誇りとしました。
父の富蔵は申し分のない名主でした。すでに数十年の長きにわたって名主を勤めていますが、一度も下役を罰したことがありません。質素倹約と穏和平静を旨とした人柄に領民は信頼を寄せています。
六角家の用人坂田伴右衛門の知遇を得た富蔵は、多額の借財を抱えていた六角家の財政を立て直すため精励し、ついには五千余両の蓄財に成功しました。幕末、諸藩は財政に行き詰まり、多額の負債に悩んでいましたが、六角家の財政だけは例外的に健全となりました。この功により富蔵は割元に出世します。割元とは名主を総括する役で、苗字帯刀を許されます。富蔵が割元に累進したので正造が名主となりました。まだ十六才です。大人になるのが早い時代でした。
名主となった正造は、ますます真面目に農作業に取り組みました。働く喜びを感じる一方、正造の心にひとつの疑問が生じました。それは農業の利の薄さです。心身の苦労が多いわりに実入りが少ないのです。正造は商売に興味を持ちはじめました。そこで、思いついて藍玉商をやりはじめました。
「名主たる者が商人となるか」
父の富蔵は反対しましたが、正造はこれを押し切ります。藍玉製造の青木某に教えを請い、刻苦勉励の日々を送ります。日の出から日没まで働き、一日も休みませんでした。躬践実行、三年の後、藍玉の商売は軌道に乗り、正造は三百両を儲けました。このほかにも正造は、松苗を山に植えたり、桑の苗を畑に植えたりしました。松苗は二十年後に立派な松林となり、木材として売ることができました。また桑の方も立派な桑畑となり、後に高値で売れました。正造には商才があったといえる。
文久二年、用人坂田伴右衛門が病死しました。この後、六角家の雲行きが怪しくなります。用人筆頭となった林三郎兵衛は、藩庫に積み上げられた五千両を着服せんものと姦計を練りました。六角家の当主はまだ十二才の子供に過ぎず、林三郎兵衛にとっては絶好の機会です。
「近々奥方御入輿あるべきにつき江戸表御館の御普請肝要なり」
林三郎兵衛はもっともらしい申し立てを考え出し、賛同者を募るべく活発に動き出しました。林の魂胆は見え透いていました。御館普請にかこつけて出入り商人から多額の賄賂を貪ろうというのです。この頃、江戸表では御館普請の金額のうち三割から五割が賄賂として役人に環流するのが一般的だったようです。
「すでに大方の相談はまとまっておるのだ」
林三郎兵衛は富蔵の元にもヌケヌケと同意を求める使いを寄越してきました。もちろん嘘です。富蔵としては我慢がなりません。藩庫の五千両は、亡き坂田伴右衛門と富蔵が苦心惨憺の努力の末に積み上げたものです。むざむざ林の私利私欲に供せられては、あの世で坂田に会わせる顔がありません。しかし、篤実一方で世に処してきた富蔵は、初めて直面する悪代官にどう対処してよいかわかりません。困ったあげく正造に相談しました。
(許せん)
正造は血の沸く思いがしました。農作業も藍玉商売も正造の有り余るエネルギーを消費しきれないようです。正造は知恵を絞ります。ともかく御館普請に反対せねばなりません。そのための理由が必要でした。幸い、格好の理由が見つかりました。世はすでに攘夷論と佐幕論でたぎっています。すでに桜田門外の変があり、坂下門外の変があり、生麦事件がありました。
「形勢ますます危殆に迫らんとするの時に当り、徒に貴重の金銀を費やして婚礼普請等為すべき場合に非ず」
富蔵と正造は相談の上、そのように江戸屋敷に訴え出ることにしました。富蔵が江戸に出て訴えたところ、幸い用人の土屋亮左右衛門らが賛成してくれ、若い領主もこれに賛成したので、御館普請の件は沙汰止みとなりました。
こうなると腹の虫がおさまらないのは林三郎兵衛です。林はなおも御裕余金を着服しようと画策しつづけ、まずは土屋亮左右衛門を用人の地位から追い払います。そして、障碍となる田中父子を仇敵のように憎み、隙あらば追い落とそうと機会を待ちました。一方、富蔵と正造も警戒を怠りません。このため六角家領内は林派と田中派とに分裂してしまいます。