山男
キノコ狩りをしていたら、山男に出会った。
山男は私の身長の2倍はあるようだった。この村の噂どおりの風格であった。山男は私を見てすぐにこう言った。
「お前は海が好きか」
不思議なことを言う山男だなと思った。私はわざわざこの村に引っ越してきたのである。自然と一緒に暮らすと決めて、海か山か、なんてありきたりな質問を自分に投げかけ、当然山だと決意した。当然山男はそれを知らないわけである。
「私は山が好きです。だからここに引っ越してきました」
「そうか。お前は馬鹿だな」
失礼な山男である。山男はそう言うと私のそばを離れた。籠の中に入れたキノコをさっさと小屋に持ち帰っては干した。この日はなぜか眠れなかった。山男に言われた一言で傷ついたのだろうと思い、この日は気にしないようにした。
次の日は早く目が覚めてしまった。陽のない森林は冷たいが、どこか心地よいような気がした。ひんやりとした快い空気は山にしか作れないのである。夏の暑い日の木陰にいけばいつでもこの空気を味わうことができる。キノコ狩りの休憩にはもってこいの場所であった。しかし、今日感じた心地よさはいつもと違う感じがした。家に戻るとすぐに集落にでかける支度をした。
川を跨ぐと一つの集落に落ち着くのである。いつものように集落に行くと、トダさんは私を見て、また山男の話を始めるのである。トダさんは山男に会ったことがないらしい。なのに、山男の話が一日中できるほどに山男に詳しい。
「山男はねえ」
こう言うと止まらない。
「山男に会ったことあるんですか」
「ないんだよねえ」
あまりにも写実的な話し方に思わずこう口をはさみ、こう返されるのが定番である。今日の私は一味違う。トダさんが同じ話をし始めるのを遮るように切り出した。
「昨日、山男に会いました。」
「・・・」
トダさんは口を閉ざしてしまった。まさかトダさんも本当に山男がいるとは思っていなかったのだろうと思った。なにせこの地域では嘘やジョークといった文化がない。もちろん私は嘘で言ったわけでもない。確かに山男に会った。そして罵倒されたのである。まるで私に罵倒されたかのように、目の前のトダさんは未だに話そうとしない。
「大丈夫ですか」
「ええ」
この日からトダさんはぴたりと山男の話をやめて、世間話をするようになってしまったのである。トダさんには友達がいないだの、夫がいないだの、母は死んだだの、不幸な話ばかり話すのである。
トダさんに別れを告げ、キノコを探しながら家に帰ることにした。道の途中、遠くに山男の姿が見えた。山男は、普段一体何をしているのだろうと思うほどに、ゆったりとしている。
「こんにちは」
近づいてそういうと、
「あのときの」
と親しげに返事をするのだった。
山男の手にはゼンマイが握られていた。山男は、山菜を集めて無人販売で生をたてているという。しばらく世間話をして盛り上がった。生まれはどこだの、お父さんは何をしているだの、趣味は何だの、まるで山男と会話しているような感じはしなかった。帰り際にまた海が好きかどうか聞かれたのであるが、私は山が好きだと答えた。また罵られた。
山男と話した次の日、私は異変に気がついた。川を挟んだ集落のまた向こうの森から煙が出ているのだった。煙は空を覆い尽くし、太陽も遮った。あわてて集落へ向かうと、集落はしんと静まり返っていた。確かに煙はそこの森にあった。トダさんの姿もない。しばらくして、ほとんどの家の中に人がいそうなことがわかった。煙は未だに怒りが静まらない様子で、みるみる天の壁を厚くした。
しばらくすると、煙の元も消えた様子で、煙が作った雲だけが残った。その雲は風にのせて流され、やがて視界から消えた。不安ではあったが、煙の元へ駆け寄ってみた。大きな影が見えて一瞬たじろいたが、それは山男だった。
山男は驚いた様子もなく、私をじっと見ているだけだった。
「あ、さっきの煙って」
聞いてはいけないような気がした。
「ここではよくあるんだ」
どおりで集落は落ち着いているわけである。しかし、煙があったらしいところには焦げた様子もなく、火がついたとは思えないほどに綺麗であった。
山男は、また海が好きかと聞いた。私はすぐに山が好きだとは言えなかった。それでも海よりも山のほうが好きだったから、山が好きだと答えた。
キノコ狩りの時期も終わって退屈しのぎに集落にでかける毎日が続いた。トダさんは未だに世間話しかしないままである。トダさんは時折、山菜料理を私に作ってくれる。山菜のさっぱりした味わいが私にはたまらなかった。思わず、山はいいですね、とつぶやいた。トダさんも、そのとおりだと言った。
ふとあの煙を思い出して聞いてみることにした。トダさんがいうには、あれはいわゆる山火事というものらしい。山火事は自然に発生して自然に消えるものだから安心していいらしい。
「もし山火事が収まらなかったらどうなるんですか」
「自然消滅しなかったら、山男が消してくれるんだ」
トダさんは今まで山男のやの字も口にしなかったはずなのに、思わず言ってしまったようだ。話を続けさせようとするも、トダさんは黙りこんでしまった。それでは、と言ってまた家に帰る。
この日は山男に出会わなかった。この日から私は夢を見るようになった。雷の夢である。黒い背景に雷鳴がなりひびくだけの単純な夢であったからか、この夢は目覚めた朝に雷の夢をみたということしか残っていなかった。
寒い冬が訪れ、私は家に引きこもりがちになった。家にあったバケツにプランクトンを飼い始めた。プランクトンで緑色に染まったバケツは、まるで夏の森林を思い浮かべる。プランクトンは自分では動けないから、バケツの水を定期的にかき混ぜてやる。珪藻ケイソウはよく、私に悩みはないかと訪ねてくる。そうすると、私は山男のことについてよく相談をするのである。珪藻と山男はまるで性格が違う。珪藻には、決して私を罵倒したりしないし、むしろ母のような優しさがある。
一旦家事を済ませて、こんなことを聞いてみたことがあった。
「珪藻に生まれて幸せですか」
珪藻は、すぐに言葉を返した。
「私には母がいるからね」
母がいなかったら、どうなるのかについては尋ねないことにした。この後も、珪藻は難しい話ばかりするのでしばらくバケツから離れることにした。
珪藻に夢のことを相談した。あの雷鳴の夢の続きをみたからである。海の下から泡が大量に湧き出ているだけの夢である。あまりにも単調すぎて記憶に残りやすかったのだろうか。珪藻もその夢をみたことがあるらしいが、意味はよくわからないらしい。珪藻がカオスとコスモスの話をしはじめたが、最初は確かに面白いものの途中で飽きてしまい、バケツから離れた。こうして、バケツに近づいては離れてという生活が毎日のように繰り返された。あの日以来、泡の夢をしばしば見るようになり、どこか泡が小さくなっているような感じがした。
冬が厳しくなると、バケツは夜に凍りだす。珪藻の話し方は次第に穏やかになり、たまに噛むことすらある。見ていられないので、バケツを家の中に入れることにした。こうして冬を乗り切ったのである。
冬が終わるころ、私は久々に散歩にでかけることにした。珪藻のことなどすっかり忘れてしまって、バケツは完全に凍りついてしまっていた。珪藻の語りかけてくる声もしゃがれて、近くを通るたびに、悩みはないかと小さい声で言うのがわかる程度である。この日の太陽はいつもより強い日差しに感じられた。気分がいつもと違ったから、いつも行かなかった獣道を通ってみることにした。
獣道を歩いていると小さめの小屋に辿り着いた。新鮮な気分で満たされている私は何の戸惑いもなくその小屋に入っていた。山男がいた。山男はやつれた顔をして、私に会釈した。冬はどうしていたのか聞いてみると、ずっとこの小屋で寝ていたという。
--つづく--