『ヌーロの遺跡』─4
Part 5
「テメーは……」
「久しいな?」
男の背後で闇間に揺らめく、銀にも似た長髪。冷気を帯た青白い素肌が淡く光を放つ。
男と同じ、縦目の瞳孔を持つトゥベルが佇んでいた。その姿に驚いたのか、王女の手首を掴む手が緩んだ。
その隙を逃さず、離れようとした王女。だが、体を再び捕えた男はトゥベルと対峙した。
「テメーまで居るとはな……本当に煩い日だ」
「お前がこんな場所に居たとはな?」
首を絞め上げる手。もう一方の手は腕を掴み、抵抗を奪い続ける。
トゥベルへ向けた言葉は不機嫌そうに吐き出され、王女の耳元で木霊した。
「俺が何処に行こうが、テメーには関係ねぇだろ?」
「まぁな。それより、その腕の中にいるのは本当にティリシア王女だ。いい加減離さぬか」
「……」
ゆっくりと、男の方へ距離を縮めるトゥベル。その様子に男は王女を引きずりながら、側の螺旋階段へ向かい始める。
男の足が階段へ辿り着いた時、王女の背中をトゥベルの方へ強く押し遣った。
勢い余った体は、そのままトゥベルの胸元へおさまる。王女が階段の方へ振り返ると、眩い光がその瞳に映り込んだ。
「プトロ」
広間に木霊する呪文。光の塊は次第に大きく広がり、迫りだす。
トゥベルは胸元の王女を気に掛けず、直ぐ様、光の塊へ手を差し伸ばした。
「レムロック」
その呪文に反応するよう、厚い氷の壁が立ちはだかり、徐徐に周囲を包み込んでいく。
お互いの魔力を相殺し合う轟音が続く最中、白く濁った氷壁の向こう側を王女は見据え続けていた。
やがて呪文の終りか、静まり返る広間。あわせるように氷壁が氷霧となり、消え失せた。
螺旋階段は衝撃を避けられず、何段かは崩れ落ちていた。
途中から続く上部へ目をやると、先程まで見えなかった一筋の光が差し込んでいた。
既に男の姿は何処にもなく、広間に残された王女達。
「何をしている? 我達も外へ出るぞ」
「キュッ」
いつの間にかトアルを傍らに抱え、重さも気にせず、螺旋階段へ飛び移りながら光の先を目指すトゥベル。
その様子を眺める王女の肩には、エスフが飛び移っていた。後を追うように、王女も広間をあとにした。
暗闇の先は階段を上る度に光が強まり、時折、感じていた風の匂いが通り過ぎていく。
一際光輝く、人が通れそうな穴の先をくぐり抜けると、足元には瑞瑞しい草が茂っていた。
「ここは……外?」
最初に入り込んだ場所ではないが、ヌーロ村の遺跡と同じ壁が続き、歪な穴を開けていた。
辺りを見渡す王女の目に、不自然に揺らぐ草木が映り込む。男が逃げ去った痕跡だ。
「覚えていないのか?」
「何を?」
「奴の名はウィンフィーユ。滅亡したティリシア王国の神具だ。確か、王女が6歳頃まで共に過ごしていたと聞いたのだがな」
「私と?」
トアルを横たわらせ、話を続けるトゥベル。その様子を眺めながら、朧げな幼い頃の記憶を思い起こすが、心当たりがなかった。
ウィンフィーユと呼ばれた男が去った先を眺める王女。
「……トゥベル。トアルの事を少しの間、頼めるかな?」
「構わぬが、追っても話にならぬと思うぞ?」
「それでも構わない。トアルを頼む」
真っ直ぐ見据える瞳が森を捕える。ウィンフィーユが消えた先へ、王女も駆け出していた。
ヌーロ村の遺跡に残されたトゥベルは、その背中を見送ると、不機嫌そうに溜め息を漏らした。
「キュ……」
側では、おいてけぼりにされたエスフの鳴き声が、寂しそうに空へ木霊した。
相変わらず意識を失ったままのトアル。トゥベルの手から地面に放たれた紋様が淡く光を浮かび上がらせ、その体を包み込む。
道なき道、獣道を進む王女。前へ駆ける度に、潮の匂いが強まるのを感じた。
小さな浮き島。
ウィンフィーユが向かった先は、海に面した岩場が並ぶ崖の方である。
何かを知らせるような鳥の羽ばたきと共に、空に増える陰。
見上げたその先に真っ直ぐ突き進む。王女の目に、漂う白い衣が映り込んだ。
「待て!」
「……しつこいな。せっかく助かった命、わざわざ無駄にするのか?」
「何故だ、お前は……ティリシア王国の神具ではないのか?」
「……今の俺は自由だ。ティリシア王国とは既に何の関係も無い。お前だって、いつまでも滅んだ国の王女を続ける必要はないんだ」
冷淡な眼差しを向け、吐き捨てられた言葉。その言葉に何故か心が揺さぶられる王女。
波が引き寄せては押し返す物音が、男の背後から聞こえていた。
タリゲス島に広がる森はいつしか途切れ、夕紅の空だけが彼方まで広がっている。
対峙していたウィンフィーユは王女に背中を向けると、その身を海へ投げた。
「ウィンフィーユ!」
引き留める崖上からの呼び声も虚しく、波間に吸い込まれていく。
祈るように無事なその姿を探すが、夕紅に染まる水面は静かに漂うのみである。
木霊する呼び名はやがて消え入った。暫く佇んでいた王女は、足取り重く、トゥベル達のいる方へ引き返していった。
「おーーい! 大丈夫かぁーー!」
一隻の大船が島を目指し、近付く。甲板から覗く船員が海に向かって叫んでいた。
白い泡道を残し、進む先にある人影へ。
「今、引き上げてやるからなーー!」
側まで近付くと、少し太めのロープが投げ込まれた。それを掴む人影を確認すると、船員は仲間と共に力強く引き上げ始める。
ロープの先から現れた若い男は、そのまま甲板に座り込んだ。
「大丈夫かい? あそこから落ちるのを見掛けて良かったよ。この辺りは潮の流れも早い場所があって、危ないからね」
「……」
「アンタ、島の人かい? なんなら、送ってやっても良いぞ?」
日も暮れ始め、肌寒さを感じる中、水浸しの男を気遣い、厚手の布を差し出す。
それを無造作に受け取ると、体を徐に拭い始める男。立ち上がった姿、体格のよい長身に驚く船員。
色を持たない髪色と、光の加減か輝くような金色目、顔立ちの良さにも目を奪われた。
「いや、島を出る所だ。この船は何処に行くんだ?」
「え? ああ、東の方だよ」
「そうか、なら俺もそこまで乗せてくれ。俺の名前はウィンフィーユ。助けてくれてありがとうな」
「ん、あぁ……乗せるのは別に構わないが、旅人かい?」
「そんな所だ……」
そう言い残し、船を散策し始めるウィンフィーユの目は、本来の縦目の瞳孔から人間と変わらない丸みを帯ていた。
どんな経緯であろうとも、旅は道連れとばかりに、客人を陽気に迎える船乗り達。
濡れた衣服が乾くまでと差し出された物に袖を通しながら、ウィンフィーユはタリゲス島を眺めた。
徐徐に遠ざかる景色、落ちた崖辺りを特に。
「あれが、現在のティリシアか……」
船の汽笛に混じりながら、懐かしむように言葉が漏れた。
ティリシア王国の滅亡時まで、確かに存在していたはずの神具。
滅びの時と共に、失われたのだと噂する者もいたが、タリゲス島で発見された。
ロイ・シルバホーンが王位を継いだティリシア王国では、神具を人間として扱っていた時期があったという。
その当時を知るのは極限られた者のみだが、彼の姿が人々の記憶にあったのは事実である。
だが、王女が7歳を迎える前に、王の手で封印された存在でもあった。