『風の大国』─5
Part 4
「ティリシア様、後で会いましょう」
「え?」
王女がその声に振り向く間もなく、シャトンは迫る女とは反対の壁へ駆け出して、側に生えた樹木へ足を掛けると軽々、壁を飛び越える。
酷く焦った様子のシャトンは、王女の視界からその姿を消した。一瞬の事、王女はただ佇み見送っている。
「もぉ! なんで逃げるのよ? シャトンちゃん……」
そんな王女の間近まで迫った女は足を止めて、深い溜め息混じりの言葉を漏らしている。
その眼はやがて、逃げ去った壁から王女へと向けられた。睨みつけるように。
「ちょっと? なんでティリシアがシャトンちゃんと一緒にいるのよ?」
「え? いや……あの」
「何よ、はっきり言いなさいよ?」
押し迫る女の形相は怖く、その気迫を前に王女は一歩、また一歩と後ずさる。背後に樹木が触れた時、逃げ場のなさに王女は足を止めた。
その両手には、肩に乗っていたエスフが抱えられている。2人の間に壁を作るようにして。
「怖いよ……シスア」
王女に迫る女。
昨日、ルド祭の手続きで一緒にいたシスアであった。
深い溜め息を溢し、両手を腰に当て、仁王立ちで王女を威嚇している。
「おや、シスアさんじゃありませんか?」
向き合う2人の間に入るよう、落ち着いた声が耳に届く。その声のする方へ目を配らせると、穏やかに微笑む司教が映り込んだ。
その姿に、先程まで機嫌の悪かったシスアは嘘のように和らぎ、笑顔を向けている。そんな2人の交す姿を王女は、そっと眺めていた。
「司教様! ルド祭に出る事が決まり、祝福を受けにきました」
「おや、そうですか」
お辞儀を軽くするように、姿勢を低くしたシスア。だが、司教の目は辺りをしきりに気にしている。
「司教様? 見慣れない顔の者ですか? 彼女はティリシア。同じく、ルド祭に出ます。ね、ティリシ……ア?」
振り返った時、樹木の側にいたはずの王女の姿は、何処にもいなくなっていた。
直ぐ様、辺りをくまなく探すが、中庭からその姿を見付ける事は出来なかった。
「あれ? おかしいな……」
「私の方も、こちらで人を待っていた方がいらしていたはずですが、何処かへ行ってしまわれたようです」
まだ、夜が明けたばかりの空の下。
教会では2人の困惑する姿があった。教会から然程遠くない通りを、駆け足で過ぎる王女。
「抜け出せて良かった。シスアとシャトン……どんな関係なのかしら?」
「キュ?」
首をかしげる王女に、肩で休まるエスフが不思議そうに顔を向けた。晴れ間が覗く街からは、活気ある声が溢れ始め出している。
段々と、行き交う人々が増え始めた街の中心部へ差し掛かった時。
「ティリシア様……ティリシア様!」
背後から聞き慣れた声が王女の耳に入る。振り向く王女の目には先程、教会で出会ったばかりのシャトンが映り込んだ。
「シャトン?」
「ティリシア様、こちらへ……」
人混みから避けるように路地裏へ移る2人。驚く王女にシャトンは、一緒に聖円の紋へ戻るように勧め始め出す。
「待ってよシャトン。それよりシスアとは、どんな関係なの?」
「それは……。ティリシア様はシスアさんと話されたのですか?」
「うん」
困り果てた顔を見せるシャトン。その様子はどこか落ち着かない。
王女も何故、シスアとの関係を隠そうとするのか興味があり、目を輝かせている。
シャトンは、そんな王女の様子に観念したのか深い溜め息を溢し、王女の緑目を覗き込むように口を開きかけた。
「いたぞ! こっちだ! そこのお前! おとなしく我等と来てもらうぞ!」
不意に王女の背後から物々しい物音と、怒号の声が近付く。ルドイシュ国の兵達が手に剣や槍を構えて、2人を取り囲み始め出した。
その声はシャトンの背後からも響き、黄砂の壁を左右にして通りを囲まれてしまう。身構える王女をかばうように佇むシャトン。
兵達の視線は王女ではなく、シャトンに注がれていた。その事に気付いた2人は、兵達の様子を窺っている。
「うむ。異国の者に白いマント、その背格好に間違いはない。お前の身分は城内で改める。大人しく来い!」
兵達の中から、更に身分高き者が2人の前に進み出ると、シャトンを睨みつけ言葉を放つ。
問答無用の了見に、納得のいかない王女は口を開きかけたが、それを制するようシャトンが先に声にした。
「一体、何の用だ?」
「ふん! 白々しい! 例え異国の者であったとしても、ルドイシュ国の法に従ってもらうぞ。どんな罪でもな」
「“罪”?」
数名の兵士が交す男の合図で、シャトンの体に掴みかかる。シャトンはあえて大人しく、兵達に着いて行く気だ。
側に居た王女に目をやった男はシャトンに仲間かと問いたが、見知らぬ者で道を訪ねていただけと説明した。
その言葉に何か引っ掛かるのか、男は暫しその場を動こうとしない。だが、それも束の間。シャトンを引き連れて城の方へ戻って行く。
その場に1人残された王女。心配はいらないと目で合図したシャトンであったが、兵達の向かった先へ距離を置きながら跡をつけ始め出す。
そんな足を向けた先、行き交う人々の間から噂話しが聞こえてきた。
“ルド祭の前に誰かが今朝、建物に侵入したのだと。侵入不可区域へ……。”
「……まさか?」
不安がよぎる王女。
その時、一陣の風が吹き抜けた。黄砂に囲まれた街。砂嵐にも似た現象が街を襲い、歩く人々の足を止める。
品物が飛ばないよう、押さえる行商。逃れるように店先に入る者。ルドイシュ国ではよくある光景だ。
だがそれは、見慣れない王女にとってルド祭を前に、ルドイシュ国で何かが起ころうとしている不吉な前触れのように感じられた。