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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

冬季限定ホテルの『神々の秘酒』 ~毎年スタッフ全員が入れ替わる雪山の厨房で、不眠症のイタリア人パン職人が深夜に盗み飲みしたリキュールは、故郷の『豚の血のドルチェ(サングイナッチョ)』の味がした~

掲載日:2026/10/18

本作を開いてくださり、ありがとうございます!

普段は現役のイタリア人シェフとして厨房に立ちながら小説を書いています。ホラー映画やホラーゲームが大好きで、今回もゾンビなしの純粋なサスペンス・ホラーに挑戦しました。


皆様のおかげで、前作のイタリア料理×密室ホラーが【ホラー〔文芸〕日間ランキング第5位(総合第10位)】に入賞いたしました!


▼前作『絶対に味見をしてはならないフルコース』 ~報酬48,000ユーロの孤立した洋館で極上の肉料理を仕込んだシェフが、熟成グアンチャーレの『そばかす』に気づいた夜~

https://ncode.syosetu.com/n0360mx/


今作はその第2弾となる、雪山ホテルとナポリの伝統菓子『サングイナッチョ』を巡るサバイバルホラーです。ぜひ最後までお楽しみください!


ナポリから三千キロ離れた場所、長野県・北アルプスの最も深く険しい渓谷において、冬は扉をノックしたりしない――人間を生きたまま雪の壁に塗り込めるのだ。




十二月十日、タイヤに太い鉄チェーンを巻いた送迎のマイクロバスが『オーベルジュ・ユキガモ』の正面玄関にアンジェロを降ろした時、彼を最初に圧倒したのは氷点下十二度の寒気ではなく、その「静寂」だった。


氷の重みに軋む樹齢数百年の杉の枝の音以外に何も聞こえない、綿を詰めたように重く、不自然なほどの静寂。


ホテルは、切り立った断崖絶壁の峠道を一本通るだけでしか辿り着けない、袋小路の火山盆地の底に建てられた黒石と檜(ひのき)の重厚な建築だった。




アンジェロが十二月十日から三月十日までの三ヶ月間という冬季限定の短期契約を引き受けた理由は、断ることなど不可能なほどの破格の報酬にあった。


冬のハイシーズンの間、薪窯を使ったパン焼きとフォカッチャ、そしてグルメピッツァの部門を一人で任される代わりに、提示された報酬は宿と食事付きで「月給九十万円・全額現金払い」だったのである。




「当館には、通りすがりの観光客は一人も訪れませんよ、ダンブロージオさん」




初日の朝、地下一階へと続くステンレス張りの廊下を案内しながら、総料理長(エグゼクティブ・シェフ)の黒沢(くろさわ)が説明した。


黒沢は五十五歳になる男で、ポマードで後ろに撫でつけた銀髪は一本の乱れもなく、縁なしの眼鏡の奥の瞳は静まり返っていた。そして何より奇妙だったのはその顔立ちで、三十年間コンロの熱気の上で働いてきた料理人なら誰にでもあるはずの深い皺や火傷の染みが一切なく、まるで蝋人形のように不自然なほど滑らかで白っぽい肌をしていた。彼は空気すら震わせないほど低く平坦な声で話すため、聞き手は自然と顔を近づけなければならなかった。




「我々の四十四名のお客様は全員、大雪が渓谷を閉ざす前の十二月二十日までに到着されます」




黒沢は地下一階(レベルB1)の広大なメインキッチンの扉を開けながら続けた。




「国会議員、高位裁判官、著名な外科医、銀行グループの頭取といった方々です。皆様、雪解けの三月までここに滞在し、俗世の毒を抜き、温泉に浸かり、我々の特別な料理を召し上がって過ごされます。あなたの仕事は、毎食、あの方々の地位にふさわしい天然酵母のパン、グリッシーニ、フォカッチャ、そしてピッツァを焼き上げることです」




耐火レンガで組まれた巨大な薪窯の脇には、玄武岩の彫像のように微動だにせず、副料理長(スー・シェフ)の高木(たかぎ)が立っていた。


身長二メートル近く、体重百二十キロはあろうかという骨太の巨漢で、綺麗に剃り上げた頭蓋と薄い眉を持ち、生ハムの塊のように太い両の前腕には、古い白く濁った切り傷や火傷の痕が無数に刻まれていた。アンジェロが「よろしく、アンジェロだ」と右手を差し出した時、高木は三秒間だけイタリア人の手を見下ろし、顎をわずかに引いただけで、一言も発さずに肉切り台の方へと背を向けた。




その代わり、他のキッチンやホールのスタッフたちとは、その日の午後だけで意気投合した。


調理補助、洗い場、ホールを合わせて全部で八人の若者たちがおり、全員があの日、同じマイクロバスで初めてこの山へやって来た連中だった。




サンパウロから来た二十四歳のブラジル人洗い場担当、マテウスは、三槽シンクと同じくらい広い笑顔を持つ青年で、銅鍋をスチールウールで磨きながら小声でサンバを口ずさんでいた。


大阪から来た二十一歳の細身の青年、ケンジは付け合わせ(ガルニチュール)担当の見習いコックで、包丁さばきは速かったが、扉が強く閉まる音がするたびにビクッと肩を震わせる癖があった。


そしてホール担当のフィリピン人女性、マリアとグレイスの二人に、客室清掃と雪かきを担当する四人の若者たち。




三日目の夜、十四時間に及ぶ大掃除と仕込みを終え、ボイラー室の外のトタン屋根の下で凍えるような夜風に吹かれながら皆でタバコを吸っていた時、アンジェロは二つの事実に気がついた。




一つ目は、誰のスマートフォンも完全に圏外だということだった。




「アンテナ一本立たないよ、兄弟(エルマーノ)」




マテウスが手袋の掌にスマホの背中をトントンと打ちつけながら苦笑した。




「フロントで聞いたら、Wi-Fiは支配人室専用だし、この前の吹雪で渓谷の下の電話線も切れちまったらしい。三月まで俺たちは世界から完全に隔離されてるってわけさ」




「俺は正直、電話が繋がらないのはむしろ有り難いですけどね」




ケンジが、薄すぎるウインドブレーカーの中で肩をすくめ、寒さと緊張で震える指でタバコの煙を吸い込んだ。




「大阪におった時、親父が潰した古い食堂の借金のせいで、街金が三社と難波のヤクザみたいな連中が毎朝六時に家のドアを蹴飛ばしに来てたんです。『住民票の登録不要・日払い現金手渡し』のこの求人を裏の掲示板で見つけた時は、神様の助けや思いました。ここなら誰も俺を探せませんから」




「似たようなもんさ、ケンジ」とマテウスが苦く笑った。「俺の観光ビザも十月に切れちまった。東京で警察に止められたら最初の飛行機で強制送還だけど、この山の上で三ヶ月働けば、就労ビザの弁護士費用を払えるだけの現金が貯まる」




アンジェロは温かいボイラー室のコンクリートの壁に背をもたれかけ、黙って彼らの話を聞いていた。前日にマリアや客室係の若者たちにも少し話を聞いていたが、全員がまったく同じ境遇だった。


家族のいない者、ビザが切れた外国人、借金取りから逃げてきた若者――たとえ明日から地球上から姿を消したとしても、半年は警察に捜索願すら出されない「透明な人間」ばかりが八人、現金払いで集められていたのだ。


そして誰一人として、去年の冬にこの『オーベルジュ・ユキガモ』で働いていた者はいなかった。




「ずっとここにいる常勤は、黒沢シェフとあの高木っていう大男だけさ」




マテウスが、ホテルの裏手の針葉樹林へと続く急な斜面を顎でしゃくった。




「でも今日の午後、高木に言われて北の登山道の氷を割りながら尾根のてっぺんまで登った時、いいものを見つけたんだ。ここから二キロ登った山の稜線の上に、森林警備隊の木造の監視小屋がある。冬の間は外から南京錠がかけられてるけど、窓ガラスから中を覗いたら、机の上に長野県警の『緊急用短波無線機』と、手回し発電機、それに山岳救助用の『衛星データ通信端末』が置いてあった。もし一月に誰かが盲腸にでもなったら、あそこまで走れば助けを呼べるよ」




アンジェロは顔を上げ、凍てついた尾根の霧の中へと消えていく黒い松の並木を見つめると、その登山道の位置を頭の中にしっかりと刻み込んだ。






◇ ◇ ◇






十二月二十日、最後の宿泊客たちが二機のプライベートヘリコプターと三台の黒塗りのSUVで到着した。


そして四日後のクリスマスイブの夜、山が扉を閉ざした。




西側の斜面から巨大な雪崩が轟音と共に崩れ落ち、食堂のクリスタルグラスをすべて震わせながら、唯一の車道の上に深さ十四メートルの雪と岩塊をぶちまけたのだ。その瞬間から、ホテルは日本列島から完全に切り離された氷の孤島となった。




それと同時に、冬の苛烈な営業(セルヴィッツィオ)が始まった。




アンジェロは時計を見ながら小麦粉と水を計るだけのパン屋ではなかった。アンジェロは厨房のために生きていた。


地下一階の自分の持ち場、乾燥させたブナの薪を割って毎晩【450℃】まで温度を上げる耐火石窯の前で、彼は生地に歌を歌わせた。亜麻の布(カノヴァッチョ)に包んだ生きた天然酵母(リエヴィト・マードレ)を継ぎ足し、十八時間発酵させた前種(ビガ)を仕込み、焼き上がれば吹きガラスのようにパリッと弾ける加水率八十五パーセントの分厚いフォカッチャを手で伸ばす。


そして大理石の作業台の上には、神戸の輸入業者から二十五キロ袋で特別に取り寄せた黄金色の微粉末――この厨房で彼一人しか使わない【イタリア産デュラム小麦の極細挽きセモリナ粉(セモラ・リマチナータ)】――を惜しみなく振りまき、ピッツァの生地を広げた。




だが、朝食と昼食用のパン籠を焼き上げても、アンジェロは部屋へ戻って休んだりしなかった。


肘まで前腕を洗い、粉まみれの白衣の上に清潔なエプロンを締め直すと、そのままコンロのラインへと飛び込んでケンジやマテウスの手伝いを始めたのだ。




「肘をもっと脇に締めろ、ケンジ! フライパンでキノコを煽る時に手首が固いと、ソテーじゃなくて茹でキノコになっちまうぞ!」




元日のディナーの戦場のようなピークタイム、四十四人分のフルコースのオーダーが一斉に入り乱れる中、アンジェロは片手でリゾットを混ぜながら、もう片方の手でフォンドヴォーの煮詰まり具合を確かめ、洗い場のマテウスに声を飛ばして綺麗な銅鍋を絶やさぬように回していた。




「アンジェロさん、なんで鍋を見もしないでソースが仕上がったって分かるんですか!?」




四本の手で付け合わせを盛り付けながら、ケンジが尊敬に満ちた目を輝かせて尋ねた。




「耳で聞くんだよ、小僧(グァリョー)! 鍋は喋るんだ。水分が残ってるうちは高い音でパチパチ鳴くが、水分が飛んで脂とコラーゲンだけになると、音が低くなって静かに囁き始める!」




だが、この即席のスタッフたちが本当の「家族」になったのは、夜十時半、厨房の掃除がすべて終わった後の『まかない(従業員食)』の時間だった。




最初の数日間、黒沢シェフがスタッフ用のテーブルに残していったのは、冷めた白飯の残りとサバの缶詰がいくつかだけだった。一日十四時間も極寒の中で働く八人の若者たちがそんな侘しいものを食べているのを見て、アンジェロは黙っていられなかった。




そこでアンジェロは、大富豪の客たちに出す高級食材には1グラムも手を触れず、地下一階の野菜庫とチーズ庫を開け、自分が幼い頃から叩き込まれてきた神聖な掟を実行した。


――『厨房にゴミはない』という掟である。




黒沢がゴミ箱に捨てさせていたブロッコリーの硬い茎、冬キャベツの外葉、綺麗にブラシで洗ったジャガイモの皮、ニンジンの葉、そしてパルミジャーノとグリュイエール・チーズの石のように硬い皮(クロスタ)。


アンジェロはそれらを使って奇跡を生み出した。野菜の切れ端で取ったブロードの中でチーズの皮をトロトロに溶かし、ジャガイモと合わせた熱々の『パスタ・エ・パターテ(ナポリ風ジャガイモとチーズの濃厚パスタ)』を大鍋いっぱいに作り上げた。前日の硬くなったパンと野菜の茹で汁を練り合わせて手作りのニョッキを丸め、マイタケの軸の切れ端と萎びたハーブで外はカリカリ、中はジューシーなポルペッテ(肉なし団子)を揚げた。




アンジェロが湯気を立てる大鍋をステンレスのテーブルの真ん中に置くと、マテウスも、ケンジも、マリアたちも深皿を手に集まり、その三十分間だけは借金のことも、切れたビザのことも、窓の外の六メートルの雪の壁も忘れて笑い合った。




「神に誓うよ、アンジェロ」




玉ねぎとチーズの皮のソースをフォカッチャの端で綺麗に拭い取り(スカルペッタし)ながら、マテウスが言った。




「この冬の契約が終わったら、あんたがどこで店を開こうと俺はタダで働きに行くぜ!」


だが、そんな温かい食卓の裏で、アンジェロにはどうしても拭えない「暗い違和感」が日に日に大きくなっていた。




――総料理長の黒沢と、副料理長の高木が、一度たりとも彼らと一緒に食事をしないのである。




スタッフ用のテーブルに座らないだけではない。この一ヶ月間、アンジェロはあの二人が地下一階の厨房で作られた料理を一口でも口に入れるところを見たことがなかった。アンジェロの窯から出たばかりの焼きたてのパンも味見せず、コーヒーも飲まず、自分たちが客席へ出しているはずの野菜や魚や付け合わせにすら一切手をつけないのだ。




毎晩スタッフたちが夕食をとっている間、そして深夜零時を過ぎた後、黒沢と高木は必ず廊下の突き当たりにある重厚な業務用エレベーター――高木のベルトにぶら下がっている磁気カードキーと二重構造の特殊機械鍵(ディンプルキー)の二つを同時に差し込まなければ開かないエレベーター――に乗り込み、ホテルの基礎のさらに下、山の岩盤をくり抜いて作られた最深部【地下二階(レベルB2)】へと消えていくのだった。




「高木と共に、当館秘伝の仕込みと特別レシピの調合に下りる」




布を被せたトレイを運び込みながら、黒沢はいつもあの抑揚のない滑らかな声で言った。




「当館名物の『雪室熟成肉』と、特別サロンの賓客にのみお出しする『冬の霊薬(エリクシール)』は、私と高木しか知らない厳密な温度と気圧の管理下でのみ仕込むことができる。何人たりとも、いかなる理由があろうと地下二階へ下りることは許さない」




二人はその地下二階に二時間、時には三時間も籠もりきりになった。


そして深夜一時過ぎに彼らが上がってくる時、廊下ですれ違うアンジェロは、鼻筋が寒くなるような奇妙な兆候に気づいていた。




一度も座らずに二十時間ぶっ続けで働いた後だというのに、黒沢にも高木にも疲労の影が微塵もなかった。あくび一つせず、ケンジのような灰色の隈(くま)もなければ、マテウスのような腰痛もない。


それどころか、深夜一時に地下二階のエレベーターから出てくる時の二人は、顔が異様に上気し、蛍光灯の強い光の下でも黒い瞳孔が虹彩を覆い尽くすほど開ききっていた。そしてその肌や白衣からは、奇妙で濃密な匂いが漂っていた――焚き染めた樹脂香(フランキンセンス)と、シナモン、極めて度数の高いアルコール、そしてもう一つ、肉切り包丁の刃に熱湯をかけた時に立ち昇る「熱い鉄と生血」のような匂いだった。






◇ ◇ ◇






アンジェロがそんな真夜中に廊下で彼らを見かけていたのは、彼の長年の宿敵である【不眠症】のせいだった。




それは十五年間、灼熱の窯の前で昼夜逆転の過酷な労働を続けてきた代償だった。


深夜零時、鉛のように重い脚と悲鳴を上げる背中を引きずって屋根裏の狭い個室へ上がっても、電気を消して枕に頭を乗せた瞬間、脳のスイッチがどうしても切れないのだ。屋根を叩く吹雪の咆哮を聞きながら暗闇の中で目をカッと見開き、時計の針が一時、一時半、二時と進むのをただ見つめ続ける。




そして朝三時半には、再び頭を冴えさせた状態で厨房へ下りて薪を割り、【450℃】の窯を操らなければならない。


そのため、アンジェロは何年も前から、自分でも誇れないが一つの「悪癖」を身につけていた。


――深夜二時頃に、極めて度数の高い酒をストレートで煽ることである。




営業中にはビール一口たりとも飲まない。だが、一睡もできないままスマホの時計が深夜二時を回るのを見ると、ベッドの端に腰掛け、空きっ腹にグラッパかスコッチ・ウイスキーをコップ半分ほど一気に流し込む。その四十度から五十度の強烈なアルコールの打撃が胃を焼き、張り詰めた神経を無理やり麻痺させて、朝三時半の目覚まし時計が鳴るまでの「きっかり九十分間」だけ、泥のような眠りへと落としてくれるのだった。




異変が起きたのは、一月十八日の深夜だった。




その夜、午前一時五十分になっても、アンジェロは冷たいシーツの中で寝返りを打ち続けていた。


観念してサイドテーブルの脇のリュックサックに手を伸ばし、東京から持参したウイスキーの瓶を掴んでコップの上に傾けたが、落ちてきたのはわずか三滴だけだった。空になっていたのだ。




アンジェロは暗闇の中で小さく悪態をついた。蓄積した疲労でこめかみがズキズキと脈打っており、ここで一時間でも眠らなければ、明日の営業中に窯ベラで腕に大火傷を負いかねないことは自分が一番よく分かっていた。




アンジェロは防寒インナーの上にスウェットのズボンを履き、靴紐を結ばずに仕事靴に足を入れると、製菓用のダークラムか調理用のブランデーをコップ半分だけ拝借しようと、非常階段を音もなく下りて地下一階の厨房へと向かった。




午前二時十分、広大な地下厨房は、冷蔵庫のデジタル温度計の赤いランプだけが点滅する黒い鋼鉄の砂漠だった。黒沢と高木は一時間前に特別サロンでの「真夜中の晩餐」の給仕を終え、すでに自室へと引き上げていた。




アンジェロは照明をつけず、コンロの列を横切って製菓用の棚へと歩み寄った。だが、シロップ用のラム酒の瓶も空っぽだった。昨日の夜、ケンジが洋梨のフランベに全部使い切っていたのだ。




アンジェロはため息をつき、薄闇の中で周囲を見回した。


三メートル先に、【黒沢シェフ専用の特別パントリー(食品庫)】のスモークガラスの扉があった。黒沢が希少なスパイスや、深夜零時に特別サロンの四十四人の賓客にだけ振る舞う「自家製秘伝リキュール」の瓶を鍵をかけて保管している小部屋である。




十二月にここへ来て以来初めて、営業終了後の焦りからか、黒沢が鍵を空回りさせていた。デッドボルトが金具の外に飛び出したまま、扉が1センチほど半開きになっていたのだ。




(すでに開いてる瓶から、指二本分だけだ)




アンジェロは蝶番を鳴らさないよう、そっと扉を押した。




(どうせ上の金持ち連中が毎晩あれだけガブ飲みしてるんだ、三十ミリリットル減ったところで誰も気づきゃしねえ)




パントリーの中央のステンレス棚の上には、底にまだ黒い雫が残った黒水晶の小さなグラスが十個ほど銀盆に並べられており、その隣に、ラベルの貼られていない分厚く重厚な黒ガラスの丸瓶が鎮座していた。


瓶の首には砕かれた黒い封蝋(シーリングワックス)が残り、銀色のインクの手書き文字でこう記されていた。




『冬季特別貯蔵 ― 第十二年』




瓶の中には、まだ四分の三ほど液体が残っていた。


アンジェロは重いコルク栓を抜き、暗闇の中で瓶の口に鼻を近づけた。




すぐさま、五十度から五十五度はあろうかという純粋で強烈なアルコールの揮発香が立ち昇り、それを包み込むように、ビターな高カカオチョコレート、漬け込まれたシナモンの樹皮、クローブ(丁子)、黒バニラ、そして焦がしたオレンジの皮の濃厚で芳醇な香りが鼻腔を満たした。




(よし、完璧だ)




アンジェロは眠るための熱を求める胃袋を撫でた。




(ビターチョコとスパイスの自家製リキュールだな)




脇の水切り籠から清潔なグラスを一つ取り、暗闇の中でその黒く濃厚な液体を指二本分ほど注ぐと、痕跡を残さないよう瓶にコルク栓を戻し、グラスを口に運んで一口でグッと喉へ流し込んだ。




最初の二秒間、強いアルコールが熱い鞭のように喉を焼く間は、未精製の黒砂糖とビターカカオ、そしてシナモンとクローブの精油の爆発的な香りしか感じなかった。




だが次の瞬間、アンジェロは暗いパントリーの真ん中で、グラスを宙に浮かせたまま石のように凍りついた。




――舌触り(テクスチャー)が、何か決定的に違った。




そのリキュールは、砂糖のシロップや、生クリームや卵黄で作ったクリーム・リキュールのように舌の上を滑り落ちていかなかった。


奇妙に重く、ゼラチン質で、ビロードのような粘り気が上顎の粘膜にネットリと張り付いたのだ。


そして唾液と口内の三十六度の体温がカカオとアルコールの外層を溶かした瞬間、舌の奥と扁桃腺のあたりに、今自分が飲み込んだものの「本当の正体」が弾けた。




鉄錆のような、塩辛く、アルカリ性で、真夏の密閉された屠畜場(とちくじょう)の匂いのような……あるいは暗闇の中で自分の唇を噛み切って血を飲み込んだ時とまったく同じ、生々しい後味。




アンジェロの首筋から手首まで、一気に鳥肌が駆け上がった。




東京の大富豪の客や普通の料理人なら、五十度のアルコールに麻痺し、大量のシナモンとクローブとビターカカオに覆い隠されて、決して気づかなかっただろう。特殊な樽熟成か、ミネラル分の強い酒精強化ワインだとでも思ったはずだ。




だが、アンジェロは違った。




アンジェロは八歳の頃、謝肉祭(カルネヴァーレ)の季節になると、ナポリの下町(バッシ)のストーブの脇に座り、祖父のサルヴァトーレと祖母が二時間ぶっ続けで湯煎(バーニョマリア)の銅鍋を木のヘラでかき混ぜ続けるのを、魔法でも見るかのように眺めて育った。


夜明けに馴染みの肉屋から分けてもらったばかりの「新鮮な豚の生き血」に、ビターカカオ、シナモン、クローブ、バニラ、そして薬草酒(ストレガ)を加え、タンパク質が凝固してダマにならないよう低温でじっくりと火を通していく、古き良きナポリの伝統菓子――




【サングイナッチョ・ドルチェ(豚の血とチョコレートの甘いクリーム)】である。




本物の料理人は、低温でカカオやシナモンと一緒に加熱された「血液」の化学反応を決して忘れない。それらのスパイスは偶然選ばれたのではなく、血漿(けっしょう)の獣臭さを消し去り、ヘモグロビンの鉄分とフィブリンのタンパク質を滑らかに結合させるためだけに存在する黄金の配合なのだ!




アンジェロは口元を片手で押さえたままパントリーから飛び出し、厨房の巨大なステンレスシンクの上に身を乗り出すと、喉の奥に残っていたものをすべて吐き出した。


震える手で冷水の蛇口をひねり、舌と歯を三度、四度、五度と必死にすすいだ。




冷蔵庫の赤いLEDランプの微かな光の下で、シンクの底を見つめる。


流れる水に薄められたその液体は、チョコレートの茶色ではなかった。ステンレスの底に、絞めたばかりの獣の首から血抜きをする時とまったく同じ、鮮やかで粘り気のある「ルビー色の赤い筋」を引いていた。




(あのリキュールは……半分が「新鮮な生き血」で作られてる……!)




冷え切った厨房の空気の中で白い息を吐きながら、アンジェロは戦慄した。不眠症など、一瞬にして吹き飛んでいた。




手の甲で唇を拭い、アンジェロは暗い廊下の奥――納品書が保管されている事務室と、最深部【地下二階(レベルB2)】へと続くあの重厚なエレベーターの方を見つめた。




クリスマスイブの大雪崩以来、ホテルは十四メートルの雪の下に生き埋めになり、トラック一台たりともこの渓谷には入れないはずだった。


だとしたら……黒沢と高木の二人は、一体どこから何百リットルもの「新鮮な生き血」を手に入れているというのか?


アンジェロは一分間、暗い厨房の中で蛇口から滴り落ちる水の音だけを聞きながら、ステンレスシンクの前に立ち尽くしていた。




ベッドへ戻る気にはなれなかった。五分前までまぶたに重くのしかかっていた疲労感は、指先の一本一本まで心臓の鼓動を感じるほど冷たく鋭いアドレナリンによって完全に吹き飛ばされていた。




アンジェロは黒沢シェフ専用のパントリーへと引き返し、自分が使ったグラスを完璧に洗って水気を拭き取ると、水切り籠の寸分違わぬ位置へと戻し、スモークガラスの扉を最初と同じように1センチだけ半開きにして閉めた。




そして、小麦粉倉庫の隣にある事務室の扉へと音もなく歩み寄った。


製菓用の薄くしなるパレットナイフの刃をドア枠とラッチの隙間に滑り込ませ、手首のスナップを効かせて音もなくロックを外し、中へと滑り込む。




照明のスイッチには触れず、スマートフォンを取り出した。


フラッシュをオフにし、シャッター音やシステム音が完全に消えていることを確認してから、季節ごとの会計書類が入ったスチール棚を開け、青いバインダーを引き抜いた。




『食肉・ジビエ・酒類納品書 ― 冬季シーズン』




画面の輝度を最小限まで落としたスマホの光だけで、アンジェロは十一月から大雪崩が起きた十二月二十四日までのすべての納品伝票をめくった。




動物の血液の納品書など一枚もなかった。豚を丸ごと仕入れた記録もない。


そして何より背筋が凍ったのは、『信州畜産協同組合』からの赤身肉の最後の納品伝票が、ホテルが開業する前の十一月二十八日付で、合計わずか【38.5キログラム】の牛肉だけだったことだ。




アンジェロは次に、黒沢が毎晩記入している特別サロンの黒い消費台帳を開いた。


十二月二十日から一月十八日までのわずか一ヶ月足らずの間に、厨房は四十四人の大富豪の客たちに対して、合計【280キログラムの『雪室熟成肉』】と、実に【92リットルの『冬季特別貯蔵酒』】を提供していた。




アンジェロの胃の腑が氷の塊のように収縮した。


彼は震えひとつない手でスマホのカメラを起動し、納品伝票のすべてのページ、冷蔵庫の在庫記録、そして真夜中の晩餐会の台帳を、高画質で一枚残らず撮影した。すべてを1ミリの狂いもなく元の場所に戻して事務室を出ると、午前三時きっかりに、いつもと同じ夜であるかのように薪窯に火を入れた。




それからの三日間、厨房で働くことは精神的な拷問だった。




洗い場で陽気に歌うマテウスや、隣でハーブを刻むケンジの顔を見るたび、アンジェロは彼らの胸ぐらを掴んで自分の知った真実を叫びたい衝動に駆られた。


だが、ナポリの路地裏で生き抜いてきた慎重さがそれを押しとどめた。ケンジはドアが強く閉まる音だけでパニックを起こすほど気の弱い若者だ。もしアンジェロが「あの二人のシェフは人間の血で酒を作っているかもしれない」などと告げれば、ケンジは取り乱して真昼間に逃げ出そうとし、五分も経たないうちに高木に三人まとめて始末されてしまうだろう。




(まずは、あの血と肉をどこから調達しているのか、言い逃れのできない決定的な証拠を掴む。それから若者たちを連れて無線の小屋まで逃げるんだ)




極細挽きのセモリナ粉の上でフォカッチャを伸ばしながら、アンジェロは自分に言い聞かせた。




だが、黒沢と高木の方が一歩早かった。




一月二十一日の夜、外ではこの冬一番の猛吹雪が荒れ狂っていた。渓谷には時速八十キロの暴風が吹き荒れ、気温は【氷点下22℃】まで下がっていた。




午後十時半、営業が終わった時、黒沢シェフはアンジェロにスタッフ全員のまかないを作らせる代わりに、湯気を立てる銅鍋と二本の黒いボトルを手にパントリーから出てきた。




「今夜は全体のまかないは無しにする」




黒沢はあの蝋人形のような丁寧な微笑みを浮かべて告げた。




「ホールのスタッフたちと、アンジェロ、君はすぐに屋根裏の寮へ上がって休みなさい。明日の朝は早い。厨房に残るのはマテウスとケンジの二人だけだ。今日の午後、吹雪の中でボイラー室の屋根の氷を三メートルも落としてくれたからね。私特製のシチューと、ハーブ入りの温かいワインを二人に直接振る舞って労いたい」




アンジェロの全身の血が凍りついた。


褒められて無邪気に喜んでいるマテウスと、ぺこりと頭を下げて礼を言っているケンジの顔が見える。




「シェフ、よければ俺も残って窯のロストル(火格子)の掃除をしましょうか……?」




アンジェロがさりげなく踏みとどまろうとした瞬間、肉切り台の脇で腕を組んでいた高木が、ズシンと重い足音を立てて一歩前に出た。




「もう休んでいいと言ったはずだよ、アンジェロ」




黒沢は目元を一切笑わせないまま繰り返した。




「これは業務命令だ」




アンジェロは屋根裏の個室へと上がらざるを得なかった。


靴すら脱がず、真っ暗な部屋の床に座り込み、厨房と地下階まで真っ直ぐ貫いている鋳鉄製の暖房配管に耳をピタリと押し当てた。




深夜零時十分。


岩盤の奥深くへと下りていく【地下二階(レベルB2)の重厚なエレベーター】の、低く長い金属音が配管を伝って響いてきた。




それきり、音は途絶えた。




翌朝三時半、アンジェロが薪窯に火を入れるために厨房へ下りた時、マテウスとケンジの姿はどこにもなかった。


エレベーター近くのステンレスの床はまだ湿っており、生体反応の痕跡を完全に消し去るために原液の次亜塩素酸ナトリウム(漂白剤)で徹底的に洗い流されていた。そして作業台の上に残された二つのグラスからは、シナモンの香りの奥に、甘ったるく苦い化学薬品の匂いが漂っていた。




朝八時、呆然とするフィリピン人メイドたちの前で、黒沢はいかにも心を痛めた父親のような表情で首を振った。




「昨夜、実に残念なことがあった。マテウスとケンジの二人が酒を飲みすぎてね、貸した金のことで激しい口論になり、明け方の五時頃、自分たちの荷物とスノーシュー(西洋かんじき)を二組持って、歩いて峠道を麓へと下りていってしまったのだ。必死に止めたのだが、聞く耳を持たなくてね」




マリアが両手で口元を覆った。アンジェロは自分の瞳に燃え上がる純粋な憎悪を黒沢に見られぬよう、生地の上に深く顔を伏せた。




一時間後、海塩の袋を取りにいくふりをして従業員更衣室へ入ったアンジェロは、マテウスのロッカーの下とケンジの引き出しの中を覗き込んだ。


マテウスの毛皮張りの防寒ブーツは、まだベンチの下に置かれたままだった。そしてケンジの引き出しの中には、大阪の店を畳む前に父親から贈られ、トイレに行く時でさえ肌身離さず持っていた名前入りの三徳包丁が、布袋に包まれたまま残されていた。




二人は、このホテルから一歩たりとも外へは出ていない。






◇ ◇ ◇






その日の夜七時四十分、黒沢と高木がメインダイニングの肉料理の提供でコンロの前から動けなくなっている隙を突き、アンジェロは薪窯から掻き出した冷たい灰を二つの鉄バケツに満載し、裏口から外にある【ゴミ焼却炉の小屋】へと出た。




雪は太ももの高さまで積もっていた。トタン張りの小屋の中へと入ると、いつもは冷え切っているはずの巨大な重油式の業務用焼却炉が、まだ熱気を放っているのがすぐに分かった。昨夜一晩中、九百度以上の超高温で稼働し続けていた余熱だ。




アンジェロはバケツを置いた。


バーナーの裏側、凄まじい熱によってコンクリートの床の氷が溶け落ちている場所に目をやると、分厚い鋳鉄製の格子蓋の周りに、鉄のバールでこじ開けたばかりの新しい傷跡がついているのに気づいた。




アンジェロは灰かき用の鉄スコップの先端を隙間に差し込み、てこの原理で重い格子蓋を持ち上げた。




床下の点検ピットの中には、煤で真っ黒になった軍用の金属製弾薬箱が隠されていた。アンジェロは留め金をパチンと外し、蓋を開けた。




どれほど高温の業務用焼却炉であっても、重金属だけは蒸発させることができない。春になってメンテナンス業者が炉の底の灰を掃除した際、焼け残った人間の遺留品を見つけられるのを防ぐため、高木は焼却した翌朝に磁石とふるいで金属片だけを回収し、雪解けの時期にクレバス(氷河の割れ目)の底へ投げ捨てるまでこの箱に溜め込んでいたのだ。




箱の中は、縁までいっぱいだった。


黒焦げになった腕時計のケースが何十個も転がり、ベルトのバックル、熱で歪んだ指輪、金歯のブリッジ、チタン製の医療用ボルト……そして箱の一番底には、過去十二年間の冬ごとに針金で几帳面に十二個の束にまとめられた、合計【84枚の『オーベルジュ・ユキガモ』の真鍮製ネームプレート(名札)】が眠っていた。




アンジェロは震える指で、一番上に置かれていた十二番目の束を手に取った。


新しい針金で括られたその先端には、炎の中にすら通されておらず、裏側の安全ピンの周りにまだ黒ずんだ血の塊がこびりついている二枚の名札があった。




『マテウス・シルヴァ ― 厨房スタッフ』


『佐藤 健二 ― 調理見習い』




アンジェロは二秒間だけ目を閉じ、奥歯が軋むほど強く噛みしめた。二日前の夜、玉ねぎとチーズのソースをパンで拭って笑っていたマテウスの顔と、鍋の声を聞く方法を尋ねてきたケンジの顔が脳裏に浮かぶ。




アンジェロは泣かなかった。怒りが涙を焼き尽くし、その頭脳を小屋の外の氷よりも冷たく研ぎ澄ませた。




清潔な麻袋を小屋の電球の下に広げ、十二個の束になった八十四枚すべての名札、腕時計、金歯を整然と並べると、スマートフォンを取り出してあらゆる角度から四十枚の鮮明な写真を撮影した。真鍮に刻まれた一人ひとりの姓名が、一文字残らず読み取れるようにピントを合わせた。




それからアンジェロはマテウスの名札と、ケンジの名札、そして二〇二二年の束にあった台湾人の若い女性スタッフ『リン・メイファ』の名札の三枚を針金から外した。自分の右足の登山用ワークブーツの紐を解き、厚手の防寒インソール(中敷き)をめくり上げると、ゴム底の上に三枚の真鍮の名札を平らに並べて隠し、インソールを戻して靴紐を固く結び直した。




残りのすべてを箱に戻し、格子蓋を閉めて灰と雪を被せて痕跡を消すと、アンジェロは何食わぬ顔で厨房へ戻って残りのシフトをこなした。




これで偽造された納品書と、犠牲者たちの名前の証拠は揃った。


だが、雪崩で孤立した雪山へ警察の特殊部隊を出動させ、日本の政財界を牛耳る四十四人の大物たちを一網打尽にするには、あの【地下二階(レベルB2)】で一体何が行われているのか、その決定的瞬間を押さえる必要があった。




その機会は三日後の夜、一月二十五日――新月の夜に訪れた。






◇ ◇ ◇






夕食の片付けが終わった後、黒沢シェフは生き残っている六人の季節スタッフ――フィリピン人メイドの二人、客室係の三人、そしてアンジェロ――を集めた。




「今夜は午後十一時から明朝四時まで、地下一階および一階のすべての換気ダクトにおいて、義務付けられた劇薬による害虫燻蒸(くんじょう)消毒を実施する」




黒沢は有無を言わせぬ口調で告げた。




「使用するガスは極めて毒性が高い。したがって、午後十時四十五分には全員屋根裏の従業員寮の自室へ入りなさい。誰かが誤って下へ降りないよう、高木が廊下の防火扉を外側から朝四時まで施錠する。アンジェロ、君も例外ではない。今夜は三時ではなく、四時に窯に火を入れなさい」




アンジェロは他のスタッフたちと一緒に素直に頭を下げた。「分かりました、シェフ。むしろ有り難いですよ、今夜は一時間多く眠れますからね」




午後十時半に屋根裏へ上がった。だが、アンジェロには檻の中に閉じ込められるつもりなど毛頭なかった。




耐火レンガの巨大な薪窯を管理してきたこの四十日間、アンジェロは毎週欠かさず煙突の煙道と、屋根裏部屋の壁の裏を通って山の基礎の最深部まで真っ直ぐ伸びている「垂直メンテナンス・通気シャフト」を点検していたのだ。




午後十時四十二分、高木の重いブーツが階段を上ってきて寮の防火扉に外から三重の鍵をかける三分前、アンジェロは黒いシャツを着込み、青いニトリルゴム手袋をはめ、フル充電したスマホを胸ポケットに入れると、煙道シャフトの点検ハッチの中へと音もなく身を滑り込ませた。




暗闇の中、内部の鉄梯子を静かに降りていく。無人となった地下一階の厨房の階層を通り過ぎ、さらに生きた火山岩をくり抜いたシャフトを十二メートル下りると、最底部――【地下二階(レベルB2)の天井から四メートルの高さを走る、蒸気配管・換気用の鉄製キャットウォーク(点検通路)】へと辿り着いた。




アンジェロは配管の上の暗がりに身を潜め、鉄格子の床に腹ばいになって息を殺し、真下を見下ろした。




下から立ち昇ってくるのは冷蔵庫の冷気ではなかった。樹脂香(フランキンセンス)と、硫黄、アルコールに漬け込まれたスパイス、熱い鉄、そして焼けた肉の匂いが入り混じった、むせ返るほど濃密で生暖かい空気だった。




地下二階は単なる貯蔵庫ではなかった。


黒い玄武岩の巨大なアーチによって繋がれた、【二つの広大な地下火山洞窟】を改造した秘密複合施設だったのである。




アンジェロの真下、冷たいハロゲンランプに照らされた第一の洞窟は、文字通りの【秘密解体場および化学プラント】だった。




左側の岩壁に沿って、強化ガラスの覗き窓と低温自動撹拌(かくはん)機、そして銅製の真空蒸留コイルを備えた六基の巨大な黒オーク樽が並んでいた。樽の上部バルブには空になった医療用の採血バッグが何十個もぶら下がっており、ガラス窓の向こうでは、ビターカカオとシナモンと純粋なスピリッツに混ぜ合わされた何百リットルもの【人間の生き血のリキュール】が、どろりと黒赤く渦を巻いて回っていた。




右側の天井に固定された二本の鋼鉄レールには、十四本の肉屋の大鉤(フック)が吊るされていた。手前の十本にはラードと沖縄の海塩の白い殻に覆われた熟成肉の塊――客席に出されていた『雪室熟成肉』――がぶら下がり、奥の四本には、四日前の夜に解体されたばかりの新しい肉塊が吊るされていた。




だが、最もおぞましかったのは、第一の洞窟の中央に据えられた長いステンレス製の化学実験台だった。




そこには医療用の遠心分離機、真空凍結乾燥機(フリーズドライヤー)、電動外科ノコギリ、そして無数のガラスアンプルが並び、若い季節スタッフたちの肉体から生きたまま摘出された内臓、脊髄、副腎、脳下垂体が精製されていた。宿泊客の一人である高名な外科医の監修による高度な化学処理によって、人間の骨髄とホルモンは【ルビー色の結晶粉末、黒いカプセル、そして黄金色の血清バイアル】へと変えられ、クッション入りのジュラルミンケースに整然と詰められていたのだ。




(だから黒沢は五十五歳にもなって蝋人形みたいに滑らかな肌をしてるのか……!)




実験台の上に置かれた注射器と開いたバイアルを見つめ、アンジェロは純粋な恐怖に震えた。




(そして、あいつと高木が上の普通の食事を一切口にせず、一睡もしないまま深夜一時に瞳孔を開ききって上がってくる理由もこれだ。自分たちが殺した若者から抽出したアドレナリンと骨髄の麻薬を打ち、あの血の酒を飲んでいるからだ!)




まさにその時、黒い岩のアーチの向こう側にある第二の洞窟から、青銅の銅鑼(どら)の重低音が響き渡り、続いて何十人もの声が古の異様な言語で詠唱を始めた。




アンジェロはブーツの底で金属を1ミリも軋ませないよう、猫のような静けさで鉄製の点検通路を這い進み、第二の洞窟の中央通気口の上へと移動した。




シェフの二人だけではなかった。


――全員だった。




『オーベルジュ・ユキガモ』に滞在している四十四人の大富豪の客たち全員――テレビで道徳を語る国会議員、最高裁の判事、大銀行の頭取、東京の大病院の院長、そしてその夫人たち――が、松明と燃え盛る火鉢に照らされた大洞窟の中に半円を描いて並んでいた。


彼らは凝固した血のような深紅の絹のローブを纏い、骨で作られた儀式用の仮面を額の上にたくし上げて、【全員がその素顔を完全に晒していた】。




洞窟の最奥には、巨大な黒曜石の一枚岩から削り出された高さ四メートルの異形の偶像――ねじれた山羊の角を冠し、三つの顔を持つ怪物的な魔神像――がそびえ立ち、その足元の古い石の祭壇は、何十年もの犠牲の血で黒く染まっていた。




祭壇の後ろで、金の刺繍が入った黒い司祭服を纏って悪魔崇拝の祈祷を先導しているのは【黒沢シェフ】だった。そしてその脇では、上半身裸に革エプロンを着けた【高木】が儀式用の巨大な肉切り包丁を握り、薄切りにされた生肉、湯気を立てるロースト、そして血のリキュールが満たされた黒水晶の杯を満載した巨大な銀盆を捧げ持っていた。




「名もなき若者たちの生き血を飲み、我らの細胞を蘇らせる肉を喰らい、奈落の主(シニョーレ・デッラビッソ)に捧げられた生命の炎を吸い込め!」




普段の平坦な丁寧さを完全にかなぐり捨てた黒沢の狂信的な咆哮が、洞窟の岩壁を震わせた。




「十二回目の冬の純粋なる供物である! この世の『透明な人間』どもが、我らの永遠の若さと、力と、支配の糧となるのだ!」




「奈落の主に栄光あれ!」




四十四人の権力者たちが一斉に唱和し、岩の床にひざまずくと、欲望に震える手で銀盆へと殺到した。人間の血のリキュールを顎から垂らしながら貪り飲み、ガラスの小瓶から骨髄と副腎の赤い結晶粉末を鼻腔へと吸い込んで獰猛な恍惚に目を見開き、素手で皿の上の肉をむさぼり食う。




彼らの頭上四メートルの暗闇で、鉄格子に身体を押し付けていたアンジェロの背中には冷たい汗が流れていたが、その両手は1ミリたりとも震えていなかった。


この地獄を永遠に粉砕し、マテウスとケンジ、そして焼却炉で灰にされた八十二人の若者たちの無念を晴らすチャンスは、今この瞬間しかない。




アンジェロはスマートフォンのカメラレンズを通気口の格子の隙間にピタリと当てた。


【超高画質4Kで四分間連続の動画を撮影】し、血を飲み、人肉と人体麻薬を貪る政治家、裁判官、大富豪たち一人ひとりの素顔にゆっくりとズームインして、祭壇の上の黒沢と高木の姿と共に言い逃れのできない映像として記録した。




さらにアンジェロは第一の洞窟のプラントの上へと這い戻り、【無音で五十枚の写真を撮影】した。採血バッグに繋がれたリキュールの大樽、臓器から麻薬を抽出する遠心分離機、名前のタグが付けられたフックの肉塊、そしてエレベーターの扉の脇に掛けられていた【ラミネート加工された生贄の記録台帳】。




カメラの最大ズームで、アンジェロは『第十二年』のページの一番下に黒沢の手書き文字で記された最後の三行にピントを合わせた。




『ロット番号85 ― マテウス・シルヴァ(24歳・ブラジル)。収穫日:1月21日』


『ロット番号86 ― 佐藤 健二(21歳・大阪)。収穫日:1月21日』


『ロット番号87 ― アンジェロ・ダンブロージオ(33歳・イタリア)。収穫予定日:1月27日』




残された時間は、四十八時間を切っていた。




サバト(夜宴)が終わり狂信者たちが客室へ戻る前に、アンジェロは音もなく煙道シャフトの梯子を上り、午前四時に高木が防火扉の鍵を開けに来る十分前に屋根裏部屋のベッドへと滑り込んだ。


翌一月二十六日は、カミソリの刃の上を歩くような神経戦だった。




真昼間に逃げ出すことが自殺行為なのは分かっていた。日中の明るい雪原を登っていけば、ホテルの屋上から一目で発見され、五百メートルも進まないうちに猟銃で狙撃される。


決行は【今夜の午前三時四十五分】――教団の客たちと二人のシェフが夜宴と麻薬の後の深い眠りに落ちる時間しかなかった。




午前中から昼過ぎにかけて、アンジェロはいつも通りに窯とコンロの前で働いた。完璧なフォカッチャを焼き、グリッシーニを伸ばし、メイドたちと冗談を言い合った。




だが午後五時、外がすでにアルプスの凍てつく夜の闇に包まれ、ディナー前の厨房が一時的に無人になったその時、スイングドアが音もなく開いた。




黒沢シェフが一人で入ってきた。


そのすぐ後ろで、薪小屋へと続く裏口から入ってきた高木が内側から重い閂(かんぬき)を下ろし、出口の前に立ちはだかって、腰の巨大な肉切り包丁(マンナイア)の柄に右手を乗せた。




黒沢はゆっくりとした足取りで、アンジェロが【生きた天然酵母(リエヴィト・マードレ)】の塊を捏ねている大理石の作業台まで歩み寄った。


黒沢の左手には銀のトレイが乗っており、その上には縁までなみなみと注がれたあのどろりとした【血の秘酒】のグラスと、薄紙のようにスライスされた赤黒い生のカルパッチョが乗った黒い小皿が置かれていた。




黒沢はそれを、アンジェロの指先から十センチの大理石の上に置いた。




「今日は目が赤いね、アンジェロ」




まばたき一つせずアンジェロの瞳の奥を覗き込みながら、黒沢が低く滑らかな声で言った。




「昨夜の燻蒸消毒の間、眠れなかったのかい? それとも……夜中にベッドから出たのかな?」




アンジェロの心臓が肋骨を激しく叩いたが、顔の筋肉はピクリとも動かさなかった。慢性的な寝不足に悩むパン職人のうんざりした表情を作り、大げさにため息をついて天井を仰いだ。




「眠れるわけないでしょう、シェフ! 配管から上がってくる消毒薬の臭いと俺のいつもの忌々しい不眠症のせいで、朝四時に高木さんがドアを開けてくれるまで、天井の梁の数を数えてましたよ!」




「それは気の毒なことをしたね」




黒沢は微かに微笑み、黒赤く光るリキュールのグラスと生肉の小皿を指先でアンジェロの前へと押し出した。




「だから君に特別なプレゼントを持ってきたよ。これは私が疲労を消すために飲んでいる秘伝のスパイス酒と、我々の最高級ヒレ肉のカルパッチョだ。さあ、今ここで、私の目の前でこの肉を食べ、酒を最後の一滴まで飲み干しなさい。今夜は石のように深く眠れるはずだよ」




アンジェロは百分の1秒で理解した。プレゼントではない、死の踏み絵だ。


もし拒絶したり、手が震えたり、人間の血だと気づいて吐き出したりすれば、その瞬間に高木が後ろから首を叩き斬る。そしてもし本当にこの酒を飲み込めば、中にはマテウスとケンジを眠らせたのと同じ強力な筋弛緩剤(麻痺薬)がたっぷりと入っているはずだった。




アンジェロはエプロンで両手を拭きながら、ナポリの酒場の主人のような人懐っこく豪快な笑顔を顔いっぱいに広げた。




「シェフ、本当に俺なんかにいいんですか!? 光栄すぎますよ!」




アンジェロは感激したような大声を上げた。




「十二月にここへ来てからずっと、シェフの秘蔵の酒を一度でいいから味見してみたいと思ってたんです!」




アンジェロは右手の親指と人差し指で生のカルパッチョをつまみ上げた。それとまったく同じ自然な動きで、左手に持っていた亜麻の布(カノヴァッチョ)に包まれた大きな【酸っぱい天然酵母(リエヴィト・マードレ)の生地玉】を、発酵の香りを嗅ぐいつもの癖のように顎の高さまで持ち上げた。




肉を口元へと運び、食べる前にその芳醇な香りを胸いっぱいに吸い込むかのように目を閉じて顔を傾けたその瞬間――左手と亜麻布の陰に隠れたわずかコンマ数秒の死角を使って、アンジェロは【生肉のスライスを左手の天然酵母の柔らかいひだの奥深くへと滑り込ませ】、空になった右手の指先だけを唇に触れさせると、すぐさま口を閉じたまま舌と顎を動かし、とろける肉をじっくりと味わっているかのように咀嚼(そしゃく)し始めた。




「マンマ・ミーア……なんだこれ……」




アンジェロは恍惚とした表情で目を細め、ゴクリと喉を鳴らして飲み込む動作をした。




「噛む必要すらねえ、舌の上でバターみたいに溶けちまいましたよ、シェフ! なんちゅうサシの甘みだ!」




黒沢の氷のような瞳が、今確かに上下したアンジェロの喉仏から離れない。「結構。では次は、その霊薬をすべて飲み干しなさい、アンジェロ」




「シェフと、この最高の厨房に乾杯!」




アンジェロは右手で黒水晶のグラスを掴み、同時に左手の二本の指で、450℃の窯の前で汗を拭うためにいつも白衣の首元に分厚く四つ折りにして巻いている【亜麻の布(カノヴァッチョ)】の上端を、顎と下唇のすぐ下に添えて持ち上げた。




強い酒をショットで一気飲みするのに慣れた男の大胆な手つきでグラスをグッと傾ける。


歯を固く閉じ、持ち上げた布の縁で下唇の端を隠しながら、アンジェロはわずか一秒のうちに【血と麻痺薬の濃厚なリキュールをすべて、胸元の分厚い四つ折りの亜麻布のポケットの中へと吸い込ませ】、同時に首を後ろに反らして「ゴクッ」と大きく喉を鳴らし、五十度のアルコールが胃袋を焼いたかのように激しく顔をしかめてみせた!




空になったグラスを大理石の上にカツンと置き、熱い息を吐き出す。




「くぅぅっ、効くぅーっ! ビターカカオとシナモン、それにつま先まで一気に火がつくような度数ですね! こりゃ今夜はバケツで水をかけられなきゃ起きられそうにないや!」




黒沢が近づいて布の匂いに気づく隙を1秒たりとも与えず、アンジェロはくるりと燃え盛る薪窯の口へと背を向け、窯ベラを掴んでフォカッチャの焼き色を確認するふりをしながら、生肉を隠した天然酵母の塊と、リキュールを吸い込んだ亜麻布の二つを、営業後に焼却処分するための『廃棄生地用の金属ペール缶』の底へと素早く放り込んだ。




背後で、黒沢はさらに五秒間アンジェロの背中をじっと見つめていた。


やがて黒沢がわずかに顎を引くと、高木が肉切り包丁の柄から手を離し、二人のシェフは無言で厨房から出ていった。




アンジェロは粉の舞う大理石の上に両手をつき、肺の中の空気をすべて吐き出した。


生き延びた。脱出まで、あと十時間。






◇ ◇ ◇






午前三時半、猛吹雪に包まれたホテルが墓場のような静寂に沈む中、アンジェロはすべてを終わらせる覚悟で厨房へと下りた。




パン職人の白衣の下にはメリノウールの防寒インナーを二枚と登山用の防水パンツを着込み、右足のワークブーツのインソールの下には【マテウス、ケンジ、メイファの三枚の真鍮の名札】が硬く足裏を押していた。そして胸の内ポケットには、四十四人のVIPたちのサバトの4K動画と、納品書・名札・地下二階プラントの百枚の写真を収めたフル充電のスマートフォンが、防水耐衝撃ケースに守られて入っていた。




黒沢の自室には煙突の温度計と連動した警報機があることは分かっていた。もし午前三時半に薪窯が冷えたままなら、黒沢はすぐに異変に気づいて目を覚ますだろう。




だからアンジェロは巨大な石窯の鉄扉を大きく開け放ち、残っていた熾火の上に乾燥したブナの薪を大量にくべ、空気弁を全開にして燃焼室を【450℃】まで一気に焚き上げた。赤い炎が耐火レンガの天井を舐め、窯の床には白熱したブナの炭(熾火)が山のように積み上がる。




そしてアンジェロは、いつもの作業を装うように、その【450℃に燃え盛る熾火(おきび)の山のど真ん中】に、灰かき用の【長い鉄スコップ】と、窯の中でピッツァを回すための直径二十センチの丸い鋼鉄の小ベラ――【パリーノ(回しベラ)】――の先端をグッと差し込んだままにしておいた。




薪小屋の物置からスノーシューとヘッドライトの入ったリュックサックを手に取り、暗い厨房を横切って、午前三時四十六分、北側の斜面と【森林警備隊の無線小屋】へと直接繋がる『薪搬入用シュート(滑り台)』の鉄扉の閂に手をかけた。




――バチンッ!




一斉に電気が走る音と共に、天井の四十本の蛍光灯が真昼のような白い光で厨房を照らし出した。




アンジェロは冷たい鉄の閂に手を乗せたまま動きを止め、ゆっくりと振り返った。




厨房の二つの出口は、完全に塞がれていた。


正面の扉から入ってきたのは、黒沢シェフ、高木、そして政治家たちの私設警護(SP)である黒い防寒着姿の屈強な男たち四人だった。高木はあの巨大な肉切り包丁を握りしめ、四人の男たちは自動拳銃と特殊警棒を構え、そして黒沢は六メートル先から、アンジェロの胸のど真ん中に向けて【12番口径のイノシシ狩り用・水平二連散弾銃(ショットガン)】の銃口をピタリと突きつけていた。




「そこから一歩も動くな、アンジェロ」




黒沢がメスのような冷たく鋭い声で言った。




「そのシュートから手を離して両手を挙げなさい。さもないと、君が次の息を吸う前に散弾で片方の肩を吹き飛ばすよ」




アンジェロはゆっくりと両手を耳の高さまで挙げながら、ほんの半歩だけ後ろへと下がった。


首筋のすぐ後ろに【450℃】の薪窯の開け放たれた口から噴き出す灼熱の熱気を感じ、自分のすぐ脇に、熾火の中に差し込まれたままの【鉄スコップ】と【丸い小ベラ(パリーノ)】の柄がある位置をミリ単位で確かめる。




「どうやらこのホテルで不眠症なのは、俺だけじゃなかったみたいですね、シェフ」




アンジェロは六人の男たちとの距離を目で測りながら、落ち着いた声で言った。




「昨日の午後は危うく騙されるところだったよ、認めよう」




黒沢が散弾銃を構えたまま一歩前に出た。




「私と高木の目の前で生肉と『聖なる秘酒』を消してみせた手品は、一流の奇術師並みだった。だがね、今夜の午前一時、明日の儀式の準備のために地下二階の聖域へ下りた時、高さ四メートルの蒸気配管の点検格子の真下にある黒い石の床の上に、照明を受けてキラリと光るものを見つけてね」




黒沢は左手の二本の指を伸ばし、ステンレスの床の上に黄金色の微粉末をパラリと落とした。




「三粒の、顕微鏡サイズほどに細かい【イタリア産デュラム小麦のセモリナ粉(セモラ・リマチナータ)】だよ」




黒沢が低く唸った。




「新月の儀式の夜、君が上から我々を盗み見ていた時にズボンの折り返しからこぼれ落ちた粉だ。このホテルで、いやこの山の中でその粉を使っている人間は君しかいないんだよ、アンジェロ。そして二十分前に君の廃棄生地の缶を調べたところ、酸っぱい生地の中に隠された私の肉と、秘酒が染み込んだ君の亜麻布が出てきたというわけだ」




高木と四人の男たちが二歩前に詰め寄り、窯のコーナーを囲むように半円を狭めた。


その間も、アンジェロの背後の窯の中では、ブナの熾火に埋もれた【丸い鋼鉄の小ベラ(パリーノ)】が450℃の熱を吸い続け、チェリーレッドに赤熱していた。




「白衣のポケットにスマートフォンが入っているね?」




黒沢がカチリと金属音を立てて散弾銃の撃鉄(ハンマー)を起こした。




「今すぐそれを高木に渡しなさい。スマホは九百度の焼却炉へ放り込み、君には予定を二十四時間繰り上げて、今から奈落の主の祭壇へ上がってもらう」




アンジェロは観念した男のように視線を落とし、両手をゆっくりと十センチほど下げて、窯の口から突き出た二本の柄のすぐそばへと指先を近づけた。




「一つ教えてやろうか、シェフ」




アンジェロは氷のように静かな声で言った。




「あんたらと金持ちの仲間たちは、人間の血や臓器や悪魔のことなら何でも知ってるんだろうが……本物のピッツァ職人の窯の前に立ったことは一度もねえらしいな」




「無駄口を叩くな、スマホを出せ!」と黒沢が怒鳴った。




「450℃の熾火の中にずっと突っ込んであった鉄がどうなるか、その顔で味わってみろやッ!!」




黒沢の指が引き金を引くよりもコンマ一秒早く、アンジェロは走って逃げるのではなく、窯の口から突き出ていた【鉄スコップの柄】を右手で引っ掴んだ!




アンジェロはピッツァ職人の強靭な背筋と肩の回転を使い、窯の底で真っ赤に燃え盛る【450℃のブナの熾火(おきび)と白熱した炭の塊】をスコップ一杯にすくい上げると、銃を構える黒沢と四人の男たちの顔面めがけて、下から上へと豪快にぶちまけた!




――ゴォォォォッ!!




何百個もの白熱した炭の塊と450℃の火の粉の嵐が、散弾銃の照準線の上を真っ赤な流星群のように襲った!




「ぐあああああっ!?」




顔面と眼鏡の奥の目に直接450℃の熾火を浴びた黒沢が絶叫し、暴発した散弾銃の銃弾が天井の換気ダクトを撃ち抜いた。すぐ後ろの警護の男たちも、目と防寒着に燃え盛る炭の塊を浴びて火花の中で転げ回る!




だが、その火の粉の幕を突き破って、高木の百二十キロの巨体が咆哮と共に突っ込んできた!


大男は顔に火の粉を浴びながらも目を細め、アンジェロの頭蓋骨を一撃で叩き割ろうと巨大な肉切り包丁を振り上げた。




アンジェロは一歩も退かなかった。


彼の左手はすでに、彼らが喋っている間ずっと450℃の熾火のど真ん中に埋めっぱなしにしてあった丸い鋼鉄のピッツァ回しベラ――【パリーノ】の柄を握りしめていた!




アンジェロが熾火の中から引き抜いた瞬間、直径二十センチの丸いステンレスの円盤は、450℃の熱を限界まで蓄えて【溶岩のような鮮やかな赤橙色】に白熱していた!




「おらァァァッ!! 焼き印(コルニチョーネ)だ、喰らえッ!!」




アンジェロは腰を回転させ、高木の振り下ろす包丁の内側へと踏み込むと、450℃に真っ赤に焼けた【パリーノの平らな鉄盤】を、高木の右頬から顎にかけてフルスイングで横殴りに張り付けた!!




――ジュウウウウウウウウッッ!!




熱した鉄板の上に脂身を押し付けた時のような、おぞましくも生々しい「肉が焼ける音」と白い煙が厨房に立ち昇った!




「ぎゃああああああああああっ!!」




顔面に450℃の丸い鉄の焼き印をまともに叩き込まれた高木が、これまで誰も聞いたことのなかった獣のような悲鳴を上げ、包丁を取り落として焼けた顔面を両手で押さえながらステンレスの床へとどうと倒れ込んだ!




アンジェロは一秒たりとも無駄にしなかった。


天井のスプリンクラーが熱に反応して弾け飛び、ホテル全体の火災報知ベルが真夜中の空気を切り裂いて鳴り響く中、アンジェロは薪搬入用シュートの鉄扉を蹴り開け、外の新雪の中へと飛び出した。




【氷点下20℃】の冷気が、刃物のように頬を切り裂いた。


十秒でワークブーツにスノーシューの留め具を固定し、ライトを消したままホテルの裏手の北斜面を駆け上がり、【森林警備隊の無線小屋】がある二キロ先の尾根を目指して針葉樹林の中へと突入した。




新雪の中を二百五十メートルほど登った時、警報ベルとパニックに陥った教団メンバーたちの怒号で昼間のように明るくなったホテルの地下ガレージのシャッターが開き、【二台の大型スノーモービル】の2ストロークエンジンが咆哮を上げた!




――ブロロロロロロッ!!




強烈なハロゲンヘッドライトが背後の吹雪を切り裂き、雪の上に松の木の巨大な影を投げかけた。


時速七十キロで突っ込んでくる一台目のハンドルを握っていたのは、右頬に丸いパリーノの火傷跡を赤黒く腫れ上がらせた高木であり、その後ろのステップには片目を火傷しながらも散弾銃に弾を込め直した黒沢が立っていた。そして二台目には、拳銃とライフルを手にした二人の警護役が乗っていた!




「登山道の上だ! 木に押し潰せ!」




風に混じって、黒沢の狂乱した怒号が響いた。




――ズドォン! ズドォン!




夜闇の中で二発の銃声が轟き、12番口径の散弾がアンジェロの左肩からわずか二十センチの松の枝を吹き飛ばし、樹皮と氷の破片を首筋に降らせた。




広い登山道に留まっていれば、あと二十秒でスノーモービルに追いつかれて轢き殺される。


アンジェロは左を見た。山の斜面がほぼ垂直にせり上がり、鋭い火山岩と倒木、そして密集したモミの木が立ち並ぶ【険しい岩場のルンゼ(急峻な沢)】になっていた。幅の広いスノーモービルのキャタピラとスキー板では絶対に進入できない隙間だ。




アンジェロは直角に方向を変え、岩場の急斜面へと遮二無二飛び込んだ。股まで埋まる深い雪を掻き分け、凍りついた木の根や低い枝に武骨な指を引っ掛けて、肺が炎を吸い込んでいるかのように焼けるのにも構わずよじ登っていく!




百メートル下で、二台目のスノーモービルが強引に岩場の入り口へ突っ込んできたが、雪の下に隠れていた玄武岩の塊に右のスキー板が激突した。車体が斜めに宙を舞い、轟音と共に樹齢数百年の杉の幹に叩きつけられて二人の男が雪の中へと投げ出された!




高木が一台目のスノーモービルを岩場の麓で急停止させ、鞘から巨大な肉切り包丁を抜くと、黒沢と生き残った一人の男と共に、徒歩でアンジェロの足跡を追って急斜面を駆け上がり始めた!




尾根の頂上まで、残り六百メートル。四百メートル。二百メートル。




アンジェロにはもう自分の指先の感覚も唇の感覚もなかった。氷点下二十度の極限の運動で口の中には血の味が広がり、太ももの筋肉は一歩踏み出すごとに痙攣(けいれん)寸前で悲鳴を上げていた。


だが、右足を雪に踏み込んで身体を押し上げるたび、足の裏に硬く冷たい感触が伝わってきた――インソールの下に隠した、【マテウスと、ケンジと、メイファの三枚の真鍮の名札】の感触だ。




(あいつらを、あの穴蔵に置き去りにしてたまるかよ……!)




アンジェロは奥歯を噛みしめ、すぐ背後で高木の重い足音が迫り、また一発の銃弾がブーツの二メートル後ろの雪を弾けさせる中、凍りついた最後の岩棚を両腕の力だけで引きずり上がった。




(今夜は、ツケを最後の一円まで払わせてやる!)




森林限界を抜け、東の空が夜明け前の鈍い鉄色に白み始めた尾根の吹きっさらしの稜線へと躍り出た。


五十メートル先、高い鉄塔アンテナと緊急衛星通信用のパラボラアンテナを屋根に頂く【森林警備隊の木造監視小屋】が見えた!




アンジェロは走りながらスノーシューを蹴り外し、身体に残された最後のエネルギーを振り絞って氷の上を疾走すると、小屋のウッドデッキへと飛び乗った。




正面の扉には冬季用の外付け南京錠がかけられていたが、すぐ右側に二重ガラスの窓があった。


アンジェロは外壁の救難ラックに固定されていた重い氷割り用のピッケルを掴み取り、渾身の一撃で二重ガラスと木枠をまとめて粉砕すると、腕を突っ込んで内側から扉のロックを外し、小屋の中へと転がり込んだ!




厚さ六センチのカラマツ材の重厚な扉を閉め、壁の金具に【鍛鉄製の巨大な閂(かんぬき)】を滑り込ませ、さらに脚と背中のすべての力を込めて、林業用の鉄製工具が詰まった重いスチールロッカーを扉と割れた窓の前に横倒しにしてバリケードを作った――そのわずかコンマ一秒後、外側から高木の百二十キロの肩が扉に激突し、小屋全体が激しく揺れた!




――ドゴォォン! バキィッ!




「蝶番を叩き割れ、高木! 絶対に通信機に指一本触れさせるな!」




外から、パニックに歪んだ黒沢の怒号が響いた。


高木の巨大な鋼の肉切り包丁が、怪物的な威力でカラマツ材の扉の真ん中に叩きつけられ、分厚い板に深い亀裂が走って室内に長い木片が飛び散った!




アンジェロは扉を振り返りもしなかった。


部屋の奥にある緊急通信デスクへと飛びつき、『長野県警・緊急用短波無線機および山岳救助衛星データ端末』の鉛の封印をちぎり捨て、非常用電源の赤いレバーを下ろして始動ハンドルを素早く三回回した。




計器盤に緑色のランプが点灯した。


【POWER ON ― CH-01 長野県警察本部・総合通信指令室 / 衛星データリンク接続完了】




背後では、高木の肉切り包丁が四度、五度と同じ場所に振り下ろされ、木製の扉に手のひら幅の縦穴が開いた。その隙間から、右頬に丸い火傷を負った巨漢の血まみれの腕が突っ込まれ、内側の閂を掴もうと暴れ回る。同時に、黒沢が割れた窓とスチールロッカーのわずかな隙間に散弾銃の銃身をねじ込み、射角を探していた!




アンジェロは衛星端末のデータケーブルをスマートフォンのポートに突き刺し、保存フォルダの全データ――【四十四人の政治家や大富豪の素顔が映った悪魔崇拝サバトの4K動画、人間の血のリキュール樽の写真、人体麻薬プラント、偽造納品書、そして殺された八十四人の名札の写真】――を一括選択して『緊急最優先送信』のキーを叩き、同時に短波無線のハンドマイクのスイッチを強く握りしめた。




「メーデー! メーデー! こちら『オーベルジュ・ユキガモ』上方の北尾根・森林警備隊無線小屋のアンジェロ・ダンブロージオ!」




端末の画面の送信バーが80%……90%……【100%・送信完了】に達する中、アンジェロは胸の奥にあるすべての声量でマイクに向かって叫んだ。




「現在、武装した集団に襲撃されている! オーベルジュ・ユキガモの地下二階で、黒沢慎一と高木吾郎を中心とするカルト教団が、過去十二年間に八十四人の従業員を殺害し、人間の血液リキュールと臓器麻薬を製造している! 今、衛星端末へ儀式の動画とすべての証拠写真を送信した!」




二秒間、短波無線のザーッというノイズと、高木の包丁がロッカーの鉄板を叩く音だけが響いた。




次の瞬間、最大音量に設定された無線小屋の室内スピーカーと屋根の屋外拡声スピーカーの両方から、小屋の壁と尾根の雪原をビリビリと震わせるほど力強く明瞭な声が爆発した。




『こちら長野県警察本部・総合指令室および特殊急襲部隊(SAT)指揮班! 衛星データパッケージの全受信を確認! 動画および画像データを照合し、オーベルジュ・ユキガモの火災警報を確認した! 現在、武装した特殊部隊を乗せた大型ヘリコプター三機がすでに峠の直上を通過、あと六十秒以内に貴官の頭上へ到達する! ダンブロージオさん、扉から離れて床に伏せていろ!』




引き裂かれた扉の外で、次の包丁の一撃が振り下ろされることはなかった。




アンジェロはストーブの石の土台の後ろに身を低くし、割れた木の隙間から外を覗き見た。


夜明けの最初の赤い陽光に染まり始めた雪の尾根の上で、高木の腕が扉からゆっくりと引き抜かれ、黒沢は散弾銃を下ろしたまま雪の中で石のように凍りついていた。


その目の前、山の稜線のすぐ向こう側から、【警察特殊部隊の三機の黒い大型装甲ヘリコプター】が猛烈な吹雪を巻き上げながら急降下してきたのだ。ローターの耳をつんざくような轟音が空気を震わせ、即時投降を命じる拡声器の大音声とサイレンの咆哮が、渓谷の呪われた冬の静寂を永遠に引き裂いていた。




アンジェロはマイクから手を離し、冷たい石に後頭部を預けると、小麦粉のついた指先で自分の右足のブーツにそっと触れた。


そこでは、マテウスと、ケンジと、そして声なき八十二人の若者たちが、ついに自分たちの名前を取り戻していた。



最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!


現役シェフが書く雪山ホテルのサバイバルホラー「冬季限定ホテルの『神々の秘酒』」、いかがでしたでしょうか?

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