終電前歯科 〜週に一日を電車で生きる女、今夜も誰かが吐いている〜
乗った瞬間、わかった。
ドアが閉まりきる前のあの○・五秒、車内の空気がふっと粘度を増す。蛍光灯の白がやけに青く見えて、つり革がぜんぶ同じ方向に傾いている。みゆきはそれを「ゲロ前夜」と呼んでいる。
案の定だった。
みゆきと同じドアから滑り込んできたスーツの男が、手すりへ向かって、深々と、お辞儀をした。礼儀正しいわけではない。次の瞬間、彼の口から、本日の宴の全工程が、おおよそ時系列の逆順で、床へと回帰した。
みゆきは三歩、退いた。考えて出した距離ではない。長い年月をかけて小脳に刻まれた反射である。だが今夜は、三歩では足りなかった。
飛沫が、みゆきの右の靴を、ほんの少し、かすめた。
みゆきは、自分の靴を見下ろした。それから、男の口元を見た。男は、ぐったりと手すりにもたれ、半開きの口で、荒い息をしている。
その口の中を、みゆきは、見てしまった。
(──前歯、ヤニで、真っ茶色。下の前歯の裏、歯石がびっしり。歯ぐきも、腫れて、赤い。歯周病が、だいぶ、進んでる。この人、何年も、歯医者に行ってないな)
みゆきは、靴を汚されたことよりも、男の歯のほうが、気になった。
これは、職業病である。
四十歳。独身。歯科医師。今日も終電の、一本手前。
みゆきである。
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話を、整理しなければならない。
みゆきは、歯科医だ。それも、ひとつの場所に腰を据えた、まっとうな歯科医ではない。回遊魚である。
週の半分は、初富の実家の歯医者にいる。今年、父から引き継いだ、小さな、古い、患者の平均年齢が七十歳を超えているような診療所だ。だが小さすぎて、それだけでは食べていけない。だから残りの半分、みゆきは都心へ戻り、練馬の歯科医院で診療し、合間に川越の訪問歯科の仕事を引き受けている。寝たきりの高齢者の家を一軒一軒まわって、ベッドの脇で、入れ歯を調整し、虫歯を削る。
拠点は、雑司ヶ谷。副都心線の駅から歩いてすぐの、古いマンションの一室。
初富と、雑司ヶ谷。千葉の端と、新宿の隣。みゆきの生活は、この二点を、ゴムひものように、毎日、伸び縮みしている。練馬へ寄り、川越へ寄り、書類のために丸ノ内線をかすめ、総武線で揺られ、最後にあのローカル線で、新鎌ヶ谷を越え、初富へ帰る。
要するに、みゆきは、一週間のうち、ほとんどの時間を、電車の中で過ごしている。
計算したことがある。一日平均、三時間半。週にして、二十四時間。みゆきは、文字どおり、週に丸一日を、電車の中で生きている。
だから、出くわす。
ゲロにも、変な人にも、悲惨にも。みゆきは、人より、はるかに高い確率で、それらと交差する。同僚の歯科衛生士の田辺さんは、二十年通勤して一度もゲロ車両に当たったことがないと言う。みゆきはその話を聞いたとき、田辺さんが妖精に見えた。みゆきの遭遇率は、どう低く見積もっても、週二。
もはや、当たる、とか、引く、とかではない。
みゆきが乗ると、始まる。
そういう説すら、ある。
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みゆきには、二つの、ささやかな救いがある。
ひとつは、おはぎだ。
おはぎは、犬である。ビションフリーゼとプードルのミックス、いわゆるビションプー。真っ白で、ふわふわで、まんまるで、まるで雲がそのまま犬になったような姿をしている。なのに、名前は、おはぎ。みゆきが名付けた。「だって、まんまるで、もちもちしてそうだから、おはぎ」と本人は言うが、おはぎは、あんこ色ではない。真っ白だ。だから、どう見ても、おはぎではない。むしろ、大福である。よく見れば、雪見だいふくだ。おはぎ要素は、色に関して、完全に、ゼロ。 この名付けのセンスからして、みゆきは、少し、変な人だ。
おはぎは今、初富の実家にいる。みゆきが忙しすぎて、雑司ヶ谷で世話をしきれないからだ。両親が、特に父が、面倒を見ている。引退した父は、毎朝おはぎを散歩に連れていき、毎晩おはぎにささみを茹でてやり、おはぎのために、診療所だった頃には決して見せなかったような、デレデレの顔をするらしい。
みゆきは、それが、少し、面白くない。
あの、寡黙で、厳格で、患者の前では絶対に笑わなかった父が、白い大福みたいな犬に「おはちゃん、おはちゃん」と猫なで声を出している。みゆきは、その光景を想像するたびに、複雑な気持ちになる。おはぎは、私の、唯一の癒やしのはずなのに。今や父の、第二の人生の、生きがいに、なっている。
みゆきは、電車の中で、よく、おはぎのビデオ通話をする。
深夜、がらがらのローカル線で、スマホを構え、画面の向こうの、寝ぼけたおはぎに向かって、「おはぎぃ、ママだよぉ、今日もママ、電車でゲロ見たよぉ」と、心底だらしない声で話しかける。おはぎは、たいてい、欠伸をする。それでも、みゆきは、その欠伸に、救われている。
もうひとつの救いは、岡崎である。
岡崎は、一つ年下の、元彼だ。別れたのか、別れていないのか、自分たちでもよくわからない関係が、もう三年ほど続いている。つかず、離れず。月に二、三度、岡崎は、雑司ヶ谷の部屋に泊まりに来る。来ると、なぜか、みゆきの分まで朝ごはんを作る。出汁から味噌汁をひく男だ。そのくせ、肝心なことは何ひとつ決めない。
みゆきも、決めない。
二人とも、決めないことに関しては、達人だった。
みゆきにとって、岡崎は、ダイヤの乱れた、けれど確実に走っている、深夜の各駅停車のような存在だった。来ないと困るが、来ても、特に嬉しくはない。けれど、いなくなると、たぶん、寂しい。
今夜も、ポケットの中で、スマホが震えた。岡崎からだ。
「今、雑司ヶ谷。鍵借りてる。鍋作った。帰る?」
みゆきは、ゲロの男を横目に、返信を打った。
「無理。今日は初富。おはぎのとこ泊まる。鍋は一人で食え」
既読がついた。返信は、来なかった。岡崎は、こういうとき、何も言わない。みゆきも、何も言わない。二人とも、沈黙に関しては、達人だった。
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ゲロの男は、次の駅で、駅員に引き取られていった。みゆきは心の中で星二つを進呈した。被害は出したが、逃げなかった。逃げなかったのは、偉い。あと、あの歯石は、一度、ちゃんと取ったほうがいい。
車両が清掃で切り離されるというので、みゆきは隣の車両へ移った。
移った先で、みゆきは、ふと、足を止めた。
扉のそばに、車椅子の人が、いた。膝の上に、犬用の、肩掛けバッグを載せている。そのバッグの口から、ひょこ、と、長い顔が、出ていた。
ダックスフンドだった。
茶色い、つやつやした、立派なダックスフンド。バッグから、顔と、前足だけを出して、まるで車掌のように、車内を、ぐるりと、見渡している。みゆきと、目が、合った。
ダックスフンドは、みゆきを、じっと、見た。それから、おもむろに、大きく、あくびを、した。
ちいさな、白い歯が、並んでいた。
(──歯石、ついてないな。歯肉も、きれいなピンク。この飼い主、ちゃんと、磨いてあげてる。えらい)
みゆきは、思わず、職業的に、感心した。それから、その茶色い犬の、まんまるな目を見ているうちに、不意に、胸の奥が、きゅっと、なった。
おはぎを、思い出したのだ。
今ごろ、初富で、父の足元で、すやすやと、眠っているであろう、白い、雲みたいな犬。会いたい。みゆきは、無性に、おはぎに、会いたく、なった。
車椅子の人は、みゆきの視線に気づいて、少し、はにかんだ。みゆきは、会釈を返した。問いかけは、しなかった。「可愛いですね」とも、言わなかった。それは、みゆきの、流儀だ。ただ、心の中で、その茶色い車掌に、星を、つけた。
「車椅子の膝の上、バッグから顔を出すダックスフンド。歯石なし。飼い主、優秀。評価:★★★★★。なお、本日いちばん、まともな乗客」
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みゆきのスマホには、「車内遭遇録」というメモがある。
二〇一九年から、ずっとつけている。最初は、つらさを吐き出すための場所だった。だが、五年も書き続けるうちに、それは、みゆきにとって、ほとんど学術的な観察記録になった。みゆきは、これを、密かに「都市生活者の異常行動に関する縦断研究」と呼んでいる。論文を書くつもりはない。だが、書けるくらいの、データは、ある。
少し、抜粋してみよう。
4月12日(金)総武線。 酔った男性二名、ドア付近で相撲。行司不在。突き出し一閃、片方が網棚に頭から突入し決着。なお、勝者の前歯は差し歯だった(揺れていた)。評価:★★★☆☆
6月3日(月)丸ノ内線。 全身を新聞紙で覆った人物が乗車。新聞は本日の朝刊。情報の鮮度は保たれていた。評価:★★★★☆
9月18日(水)ローカル線、新鎌ヶ谷の先。 老婦人、紙袋からきゅうりを取り出し、塩もつけず丸かじり。総入れ歯で、あの咀嚼。作った技工士は名人だ。評価:★★★★★(咬合、見事)
翌年2月。総武線。 男性が、くり抜いたハードカバーの本に、サンドイッチを仕込み、ページをめくるふりで一口ずつ食べていた。読書と食事の、完全融合。評価:★★★★★(発明である)
同年7月。練馬からの帰り。 男性が、デンタルフロスを、ノコギリのように激しく引き、流血。清掃用具を、武器として、使っていた。評価:★★☆☆☆(歯間乳頭が、死ぬ)
みゆきは、これらを、恨んではいない。
むしろ、ある時から、こう思うようになった。──毎晩、終電前の車両という小さな劇場で、誰かが、何かを、上演している。脚本はない。リハーサルもない。観客は、疲れた大人たち。みゆきは、たまたま、いつも最前列のチケットを引き当ててしまう、運の悪い、あるいは運の良い、観客なのだ。
そう思えるようになってから、みゆきは、少しだけ、毎晩が、楽しみになった。
ただ、みゆきは、いつも、見ているだけ、とは、限らない。ときどき、向こうから、絡まれる。
いつだったか、ホームのベンチで電車を待っていると、隣に座った、二十代後半くらいの女性が、唐突に、こう言った。「すみません、私のこと、電車で、起こしてもらえませんか」。聞けば、彼女は、酔うと、どうしても、寝てしまうのだという。「降りるの、新鎌ヶ谷なんで、新鎌ヶ谷で、お願いします」。意味は、わからなかった。初対面の女に、自分の眠りの管理を、丸投げしてくる、その胆力も、わからなかった。だが、みゆきは、なぜか、引き受けた。同じ電車に乗り、その人が、すやすやと寝入ったのを見届け、ちゃんと、新鎌ヶ谷で、肩を叩いて、起こしてやった。女性は、寝ぼけ眼で「ありがとうございましたぁ」と言い、ふらふらと、降りていった。みゆきは、なぜ自分が、見知らぬ女の、目覚まし時計を務めたのか、いまだに、わからない。
なぜか、みゆきは、こういうことを、頼まれる。観客のはずなのに、ときどき、舞台に、引きずり上げられる。
今夜は、何を、見せてくれるんだろう。
──まあ、初っ端から、ゲロだったわけだが。
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総武線が、来た。
乗り込んだ車両は、終電前らしく、ほどよく、地獄だった。
みゆきの、向かいの席に、一人の男が、座っていた。スーツ姿の、ごく普通の、勤め人だ。彼は、鞄から、何かを、取り出した。
歯ブラシだった。
続いて、彼は、歯磨き粉のチューブを、取り出した。
みゆきの、職業的本能が、跳ね起きた。
男は、慣れた手つきで、ブラシに、ペーストを、にゅっと、絞り出した。そして、おもむろに、磨き、始めた。総武線の、揺れる車内で。向かいに座る歯科医の、目の前で。
しゃか、しゃか、しゃか。
泡が、立ち始めた。
車内の、何人かが、ちらちらと、彼を見た。だが、みゆきが見ていたのは、彼の磨き方だった。
(──だめだ。横磨きだ。それも、ゴシゴシ、力任せの。あんなに横に擦ったら、歯ぐきが、どんどん下がる。根っこが、出て、十年後、絶対、知覚過敏で、泣く。だめだ、見ていられない)
みゆきの中で、達観した観客と、職業人としての歯科医が、また、争った。観客は言う。「黙って見ていろ。それが流儀だ」。歯科医は言う。「十年後の、知覚過敏が、見える」。
歯科医が、勝った。
みゆきは、口を、開いてしまった。
「あの……それ、横にゴシゴシは、だめです。歯ぐき、下がりますよ。歯ブラシは、鉛筆みたいに、軽く持って。毛先を、歯と歯ぐきの境目に、四十五度で当てて、小刻みに。力は、いりません」
男は、口を泡だらけにしたまま、みゆきを、見た。
車内の、全員が、みゆきを、見た。
またやってしまった、とみゆきは思った。観客が、舞台に、上がってしまった。
だが、男は、こくこくと頷くと、言われたとおり、ブラシを鉛筆持ちにし、四十五度で、小刻みに、磨き始めた。
正しい、ブラッシングだった。
そして、ひとしきり磨き終えると、男は、鞄から、小さな、空のペットボトルを、取り出した。そこに、口の中の泡を、ぺっ、と、品よく、吐き出した。
彼は、すべてを、準備していた。
みゆきは、感心した。技術はだめだったが、心構えは、完璧だった。みゆきは、心の中で、星を、つけた。
「総武線、車内歯磨き。技術は横磨きで落第。だが、吐き出し用ボトル持参。準備点。評価:★★★☆☆。指導済み」
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そのとき、みゆきの、隣に立っていた、別のスーツの男が、すっと、顔を、寄せてきた。
そして、声を、ひそめて、言った。
「……あの。この辺、くさく、ないですか」
みゆきは、固まった。
これは、最も、答えにくい、種類の、質問だった。
くさい、と答えれば、犯人捜しが、始まる。くさくない、と答えれば、嗅覚を、疑われる。そして、何より──みゆきには、心当たりが、あった。
今夜の、最初の、あのゲロ。右の靴に、かすめた、あの、飛沫。
まさか。
(──私か。私の、靴か。一晩中、私は、自分の足元から立ちのぼる、本日の宴の残り香を、街中に、まき散らしながら、回遊して、いたのか。総武線が、くさいんじゃない。私が、くさいのか)
みゆきの、達観した精神が、音を立てて、揺らいだ。
みゆきは、誰にも気づかれないように、そっと、右足を、引き寄せ、ごくごく、さりげなく、自分の靴の、匂いを、嗅ごうとした。が、わからない。人は、自分の匂いには、慣れてしまう。判定、不能。これが、いちばん、こわい。犯人かもしれないのに、自分では、確かめようがない。
みゆきは、慎重に、答えた。
「……さあ。私は、ちょっと、わからないです」
男は、深刻な顔で、うなずいた。そして、何かを察したように、すっと、二歩、みゆきから、離れていった。
みゆきは、残りの区間、静かに、絶望していた。離れていったのは、車両がくさいからか。それとも、私が、くさいからか。永遠に、わからない。みゆきは、こういう、答えの出ない悲惨さに、いちばん、弱かった。
「サラリーマン、『この辺くさくないですか』。発生源、特定できず。容疑者に、自分が含まれる。評価:判定不能。最も、いたたまれない一件」
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池袋で、丸ノ内線に、乗り換える。
ホームへおりる階段の途中に、小さな、人の滞りが、あった。一人の女性が、立ち止まって、困っている。
白い、レースのワンピース。上品で、たぶん、それなりに、値の張る装い。彼女は、肩から提げた、小ぶりの鞄の、ファスナーの引き手を、しきりに、引っぱっていた。
チャックが、レースに、嚙んでいた。
ワンピースの、繊細なレースの一部が、ファスナーの金具に、しっかりと、巻き込まれて、彼女は、抜くに抜けず、進むに進めず、立ち往生していた。
彼女が、ふと、顔を上げ、みゆきと、目が、合った。
その目が、言っていた。──助けて。
みゆきは、本来、こういうとき、声をかけない。問いかけは、劇を壊す。それが流儀だ。だが、今夜のみゆきは、もう、流儀を、二回も、破っていた。歯磨きの男に、ブラッシング指導まで、していた。今さら、一回くらい、増えても、同じだ。
「あの。それ、引っぱると、レース、裂けますよ。──ちょっと、いいですか」
「えっ、あ、いや〜、いいです、いいです、自分で……」
女性は、そう言いながらも、鞄を、差し出してきた。口では遠慮し、手は、助けを求める。みゆきは、その矛盾が、嫌いではなかった。
みゆきは、嚙んだレースを、糸の一本一本、ファスナーの溝から、慎重に、外していった。歯石を、スケーラーで取るときと、同じ手つきだった。細かい作業は、得意だ。毎日、人の口の中で、ミリ単位の仕事を、している。
ぷつ、とも言わせず、レースは、無傷で、外れた。
「わぁ……ありがとうございます……! あの、私のせいで、電車、行っちゃいましたよね……次の、待つことに……座れなかったり、しません……?」
女性は、心底、申し訳なさそうに、言った。みゆきは、首を振った。座れないのは、いつものことだ。みゆきは、もう、何年も、座れた記憶が、ない。
「大丈夫です。私、もともと、座らないので」
なぜか、自慢のような、言い方に、なってしまった。
女性は、何度も頭を下げ、レースを、ふわりと揺らして、去っていった。その肩で揺れる、小ぶりの鞄には、見覚えのある、馬車の刻印が、入っていた。エルメスだった。たぶん、お金持ちなのだろう、とみゆきは思った。エルメスのチャックに、自前のレースが、嚙まれて困る。困り方まで、どこか、上品だった。庶民は、こんな上等なもの同士で、絡まったり、しない。
みゆきは、心の中で、星を、つけた。
「池袋。レースのワンピース、鞄のチャックに嚙まれ立ち往生。糸一本ずつ救出、無傷。エルメス所持。金持ちは、困り方まで、上品。評価:★★★★☆」
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丸ノ内線は、今日も、一駅だけ。書類を、二十四時間営業の事務所に投函するための、寄り道だ。
今夜の丸ノ内線では、向かいの席に、一人の老人が、座っていた。膝の上に、鳥かごを、置いている。
鳥かごの中には、鳥は、いなかった。
代わりに、きゅうりが、一本、入っていた。
みゆきは、それを見た。老人も、みゆきを見た。二人は、しばらく、見つめ合った。やがて老人は、鳥かごの扉を開け、きゅうりを取り出し、塩もつけず、丸かじりを、始めた。
咀嚼が、完璧だった。
みゆきは、確信した。あの、新鎌ヶ谷の、きゅうりの老婦人と、同じ咬合だ。もしかしたら、夫婦かもしれない。あるいは、きゅうりを愛する者たちの、秘密の結社が、この沿線には、存在するのかもしれない。
みゆきは、何も聞かなかった。ただ、星五つを、つけた。
「鳥かごに、きゅうり。鳥の不在。沿線きゅうり結社、実在の可能性。評価:★★★★★」
みゆきは、丸ノ内線を降りるとき、無性に、きゅうりが、食べたくなった。そして、ホームの売店で、本当に、きゅうりの一本漬けを、買った。
みゆきは、それを、ホームのベンチで、塩もついているくせに、堂々と、丸かじりした。
咀嚼しながら、みゆきは、思った。──ああ、私は、もう、向こう側の人間だ。観客のふりをしているが、私も、とっくに、舞台の上の、登場人物の一人なのだ。鳥かごの老人と、きゅうりの老婦人と、靴のくさい容疑者と、私は、同じ、結社の、一員なのだ。
みゆきは、きゅうりを、食べきった。
それから、最後の路線──家へと続く、あのローカル線へと、向かった。
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ローカル線の、ホームは、静かだった。
時刻は、終電の、一本手前。みゆきは、慣れた手つきで、二両編成の、可愛らしい車両に乗り込み、いつもの、扉の脇の席に、腰を下ろした。
車内には、数人。スーツの若い男が一人。学生らしき二人組。それから、すでに、かなり、できあがった、中年の酔っぱらいが一人。
みゆきのゲロセンサーが、ピン、と反応した。
酔っぱらいは、座席に、だらしなく、もたれていた。顔は赤い。呂律は回っていない。一人で、何やら、上機嫌に、ぶつぶつ喋っている。完全に、一人の、宴だった。
電車が、ゆっくりと、動き出した。
新鎌ヶ谷を、過ぎる。乗客が、減る。
酔っぱらいは、機嫌よく、立ち上がった。誰に言うともなく、「俺はなぁ!」と、宣言した。「俺は、なぁ!」。続きは、なかった。彼はそれだけ言うと、満足したように、再び、座ろうとした。
そこで、電車が、カーブに、差しかかった。
車両が、ぐらり、と、傾いた。
酔っぱらいは、座席を、外した。
彼の体は、見事な放物線を描いて、床へとダイブし、顔から、座席の、金属の手すりの、根元に、激突した。
ゴッ。
という、鈍い、嫌な、音がした。
車内が、凍りついた。
酔っぱらいは、うつ伏せに倒れたまま、動かない。やがて、のそり、と顔を上げた。口の周りが、血で、赤い。彼は、ぼんやりとした顔で、自分の口を押さえ、手のひらの上に、何かを、吐き出した。
白い、小さな、かたまり。
歯だ。
前歯が、一本、根元から抜けて、彼の手のひらの上に、転がっていた。
車内の誰もが、息をのんだ。学生たちは固まり、スーツの若い男は目をそらした。みんなが、どうしていいかわからずに、ただ、立ちすくんでいた。
その、凍りついた車両の中で。
一人だけ、動いた女が、いた。
みゆきである。
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みゆきの体は、考えるより先に、動いていた。ゲロを躱す反射とは、まったく別の回路。──歯科医の、反射だ。
「動かないで!」
みゆきは、鋭く言った。診療室で患者に指示を出すときの、あの声だった。
みゆきは、酔っぱらいのそばに、膝をついた。
「その歯、捨てないで。手のひら、開いて。──いい、見せて」
(──上の前歯、一番。きれいに脱臼してる。割れてない。歯根膜が、まだ、ついてる。これは、いける。時間だ。乾燥させたら、終わる。三十分以内に戻せれば、くっつく)
「あなた、名前は」
「……すずき」
「鈴木さん。今から、あなたの歯を、助けます。暴れないで。──そこの、あなた」
みゆきは、固まっていたスーツの若い男を、指さした。
「次の駅で降りて、牛乳を買ってきて。牛乳です。お茶でも水でもなく、牛乳。急いで」
若い男は、弾かれたように、立ち上がった。
「学生さん二人。鈴木さんの体、支えて。頭を動かさないように。──そう」
みゆきは、肩から、重い、訪問鞄を下ろした。歩く、小さな歯科医院。ファスナーを、開ける。
中から、出てきたのは、グローブと、ガーゼと、ピンセットと、生理食塩水のボトル。それだけだった。訪問鞄は、ドラえもんのポケットではない。気の利いた止血剤なんて、入っていない。あるのは、ガーゼと、押さえる指。
車内の全員が、その鞄の中身を見て、ぽかんとした。
深夜のローカル線で、よれよれのスーツを着た、四十歳の独身の女の鞄から、なぜか、本格的な歯科器具一式が、湧き出してくる。
これは、もはや、最大級の、変な人だった。
今夜いちばんの変な人は、ゲロの男でも、歯磨きの男でも、きゅうりの老人でもなく、まぎれもなく、みゆき、だった。
だが、みゆきは、もう、気にしていなかった。
みゆきは、グローブをはめ、生理食塩水で、抜けた歯を、そっと洗った。歯根膜をこすらないように、優しく、流すだけ。それから、鈴木の頭を両手で固定し、彼の血だらけの口の中の、ぽっかり空いた穴に、歯を、そっと、そっと、押し戻した。
ゆっくりと。正しい向きに。最後に、ぐっと、押し込む。
「噛んで。ガーゼ、強く、噛んで。血は、これで、止まる。動かさないで」
鈴木は、涙と鼻水と血で、ぐちゃぐちゃの顔で、こくこくと頷いた。
ちょうどそのとき、電車が、駅に着いた。ドアが、開く。牛乳を買いに行った若い男が、息を切らして、戻ってきた。
「牛乳、なかったです! コーヒー牛乳しか!」
「それでいい! 持ってきて!」
みゆきは、コーヒー牛乳のパックを受け取った。──いや、もう歯は戻したから、使わない。みゆきは、少し考えて、それを、自分で、飲んだ。
喉が、渇いていた。甘かった。
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みゆきは、鈴木を、次の停車駅で降ろし、駅員と救急に引き継いだ。
「歯科口腔外科のある救急に。再植したばかりです。歯根膜が生きてる可能性がある。二週間は固定が必要。明日、必ず歯医者へ。──これ、私の診療所の名刺。初富です。なんなら、うちに来てください」
鈴木は、ガーゼを噛んだまま、ぐしゃぐしゃの顔で、何度も頭を下げた。何か言いたそうだったが、ガーゼで、言葉にならなかった。みゆきは、その不器用な感謝が、嫌いではなかった。
ドアが閉まる。電車が、また、動き出す。
みゆきは、いつもの、扉の脇の席に戻った。
残った乗客たちが──学生二人と、スーツの若い男が──みゆきを見ていた。今度の視線は、いつもと違った。変な人を見るときの目では、なかった。もっと、別の、何か。尊敬、と、いっても、よかった。
スーツの若い男が、おずおずと口を開いた。
「……あの。先生、なんですか」
みゆきは、少し考えてから、答えた。
「回遊魚です」
「は?」
「いえ。歯医者、です」
若い男は、よくわからない、という顔で、それでも、にっ、と笑った。みゆきも、笑い返した。
みゆきは、窓の外を見た。夜の千葉が、流れていく。あと、ふた駅で、初富だ。
みゆきは、悟った。
ああ。
今夜の上演は、私だったのか。
ずっと、自分は見る側だと思っていた。引きの強い、運の悪い、運の良い、観客なのだと。だが、ある夜、観客は、ふと気づくと、舞台のいちばん真ん中に、立っていた。それも、よれよれのスーツで、鞄から歯科器具を湧き出させ、コーヒー牛乳を飲み干す、最大級の変な人として。
そして、それで、よかった。いや、それが、よかった。
みゆきは、ずっと、自分の引きの強さを、呪いだと思ってきた。なぜ、私ばかり、と。だが、今夜、わかった。みゆきが毎日電車に乗り続けてきたのは、たぶん、この夜の、この三十分のためだったのだ。回遊魚のように東京と千葉と埼玉を行き来し続けた、その何千時間が、ぜんぶ、鈴木さんの前歯一本を助けるための、長い、長いリハーサルだったのだ。
脚本のない、リハーサルのない、二度と再演されない、一幕。みゆきは、その、主役だった。
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初富の駅に着いた。
改札を出ると、夜の空気は、都心より、ずっと冷たくて、ずっと澄んでいた。
ポケットの中で、スマホが震えた。岡崎だ。
「鍋、一人で食った。うまかった。おはぎによろしく」
みゆきは、少しだけ笑った。それから、返信を打った。
「今日、電車で、歯、一本、助けた」
既読がついた。しばらくして、返信が来た。
「お前、ほんと、変なやつだな」
みゆきは、その返信を見て、なぜか、胸があたたかくなった。岡崎は、こういうとき、いつも、ちょうどいい言葉をくれる。来ても、特に嬉しくはないが、いなくなると、たぶん、寂しい、男。相変わらず、ダイヤの乱れた、けれど確実に走っている、深夜の各駅停車だった。
みゆきは、スマホをしまった。実家の玄関の灯りが、見えてきた。
ドアを開けると、廊下の奥から、白い、ふわふわの、大福のようなかたまりが、ものすごい速さで、転がってきた。
おはぎである。
おはぎは、みゆきの足元に突進し、ぐるぐる回り、ジャンプし、みゆきの膝に前足をかけ、ちぎれそうなほど、しっぽを振った。
「おはぎぃ……ただいまぁ……ママ、今日もぉ……電車で、いろいろ、あったよぉ……」
みゆきの声が、だらしなく溶けた。一日の達観も、職業意識も、ぜんぶ、その瞬間、白い犬の前で崩壊した。みゆきは、その場にしゃがみこみ、おはぎを抱きしめ、その、ふわふわの頭に、顔をうずめた。
廊下の奥から、パジャマ姿の父が出てきた。
「遅かったな」
「うん」
「飯は」
「コーヒー牛乳、飲んだ」
「なんだそりゃ」
父は、呆れたように言って、それから、おはぎを見て、ふっと表情をゆるめた。あの、診療所では絶対に笑わなかった父が、白い大福みたいな犬に向かって、デレデレの顔をする。みゆきは、その光景を見て、やっぱり、少しだけ、面白くなかった。
だが、今日は、許してやろう、と思った。
みゆきは、おはぎを抱いたまま、スマホを取り出し、「車内遭遇録」を開いた。
今日のぶんを、書く。ゲロの男。車掌のダックスフンド。車内歯磨き。くさい容疑(自分)。池袋のレースの貴婦人。鳥かごのきゅうり。そして──最後の、一件。
みゆきは、少し考えて、最後の一件を、こう書いた。
「○月○日(金)ローカル線。乗客の一人が転倒、前歯を脱臼。それを、よれよれのスーツの女が、鞄から歯科器具を取り出し、車内で再植。女は最後にコーヒー牛乳を飲んだ。最大級の、変な人だった。評価:★★★★★。本日のベストアクト。──演者は、私」
みゆきは、それを保存した。
明日も、たぶん、何かが起きる。回遊魚は、また、東京と千葉と埼玉をめぐる。練馬で歯を削り、川越で入れ歯を直し、ゲロを躱し、変な人と交差する。
それでいい。みゆきは、それを、見届ける。最前列で。あるいは、舞台の真ん中で。
膝の上では、おはぎが、もう、すやすやと眠っていた。おはぎ要素は、相変わらず、ゼロだった。 どこからどう見ても、大福だった。
四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。おはぎの、ママ。
今日も、終電の、一本手前。
みゆきである。
(了)




