表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

第05話:アイドルだって激怒する

 生ぬるい春の風が、開け放たれた教室の窓から吹き込んでくる。

 放課後の教室には、私を含めて数人の生徒しか残っていなかった。


 山田くんは、転校の手続きの不備とかで職員室に呼び出され、席を外していた。

 彼がいない教室の空気は、いつもより少しだけ淀んで重たく感じられた。


 私は帰る準備をしようと鞄に手を伸ばしたが、ふいに机の前に黒い影が落ちた。


 顔を上げると、そこには美沙と、彼女の取り巻きの女子二人が立っていた。


 彼女たちの顔には、獲物を追い詰めた捕食者のような、ねっとりとした薄笑いが張り付いている。


 私の胃の奥が、冷たい鉛を呑み込んだようにズンと重くなった。


「ねえ姫川。ちょっと来てくれない?」


 美沙のピンク色のネイルが、私の机の角をコツコツと叩く。


 断る権利などないことは、彼女たちの見下すような視線が雄弁に物語っていた。


 私は無言のまま立ち上がり、彼女たちに囲まれるようにして旧校舎の裏庭へと連行された。


   * * *


 陽の光がほとんど届かない裏庭は、ひんやりと湿った土と苔の匂いがした。


 冷たいコンクリートの壁際に押し付けられた私の前に立っていたのは、美沙たちだけではなかった。


 サラサラの茶髪に、着崩した制服。


 学年一のモテ男として女子の視線を独占している、サッカー部のエース・健斗だった。


 彼はポケットに両手を突っ込んだまま、面倒くさそうに私を見下ろしている。


「健斗ぉ、お願いね」


 美沙が甘ったるい声を出して彼の腕に抱きつき、チラリと私を見て口角を吊り上げた。


 健斗は美沙の頭を軽く撫でると、ため息混じりに私の方へと一歩近づいてきた。


「あー、えっとさ。姫川。俺、前からお前のこと気になってて。……付き合ってくんない?」


 抑揚のない、まるで台本を棒読みしているかのような平坦な声だった。

 その言葉を聞いた瞬間、私の視界がぐらりと揺れた。


 健斗の後ろで、美沙と取り巻きたちがスマートフォンのカメラをこちらに向け、肩を震わせて必死に笑いを堪えているのが見える。


(あ、これ……罰ゲーム、だ)


 頭よりも先に、本能がその残酷な事実を理解した。


 全身の血の気が一気に引いていくのが分かった。

 指先が氷のように冷たくなり、呼吸の仕方を忘れたように喉がヒューヒューと鳴る。


「おい、返事は? 俺と付き合えるなんて、お前みたいな地味女には一生ねぇチャンスだろ?」


 健斗が苛立ったように舌打ちをし、ずいっと顔を近づけてくる。


「や、やめて……」


 喉から絞り出した声は、自分でも驚くほどひ弱に震えていた。


「は? なんだよそれ。マジでウケる。お前、自分が選ばれるとでも思ってんの?」


 美沙が耐えきれなくなったように吹き出し、甲高い笑い声を裏庭に響かせた。


「あの冴えない転校生とちょっと仲良くしたくらいで、ヒロインにでもなったつもり? あんたみたいな底辺が『サンシャインイン』のファンだなんて、推されてるコウくんからしたら大迷惑でしかないのよ。彼が知ったら吐き気をもよおすわ!」


 カシャッ、カシャッ。

 無機質なシャッター音と共に、フラッシュの白い光が網膜を焼く。

 健斗の安っぽいコロンの匂いと、泥の跳ねた足元。逃げ場のない冷たいコンクリートの壁。

 そして何より、私の心の支えであった「ファンとしての尊厳」を土足で踏みにじる言葉が、鋭いナイフのように深く、ゆっくりとえぐり込んでくる。

 耳を塞ぎたくなるような嘲笑の渦の中で、私の世界は完全に孤立していた。


 もう、消えてしまいたい。

 いっそこのまま、暗い土の底に還ってしまいたい。


 そう願った、次の瞬間だった。


「――俺の姫に、何をしてる」


 地を這うような、絶対零度の声が裏庭の空気を切り裂いた。


 ビクッとして全員が声のした入り口の方へ振り返る。


 そこに立っていたのは、分厚い眼鏡を外した山田くんだった。

 いや――違う。纏う空気が、あまりにも異質だ。


 彼がゆっくりと前髪をかき上げると、隠されていた彫刻のように精悍な輪郭が露わになる。

 不要になった野暮ったいカツラを泥の中に放り捨てた瞬間、裏庭の淀んだ空気が、彼を中心にピンと張り詰めた。


 ただそこに立っているだけで、5万人をひざまずかせる絶対的なカリスマ。

「冴えない転校生」の皮を脱ぎ捨てた、トップアイドル『神宮寺煌』その人が、静かなる怒りを纏って君臨していた。


(ダメっ、煌くん……!!)


 私の心臓が、恐怖とは違う別の理由で跳ね上がった。


 彼がここで正体を明かしてしまえば、どうなるか。

 こんな陰湿ないじめの現場にトップアイドルが介入したなんて広まれば、あっという間にSNSで拡散され、大スキャンダルになってしまう。


 彼が血の滲むような努力で築き上げた、5万人のファンを熱狂させる輝かしいアイドル生命が、私なんかのせいで終わってしまう。


「ダメ、こないで……っ! お願いだから!」


 スキャンダルになれば、彼の輝かしい未来が終わってしまう。

 私は震える声で叫び、彼を拒絶しようとした。自分の心が壊れることよりも、彼の光が失われることの方がずっと恐ろしかったから。


 けれど、私の悲痛な祈りは、彼には全く届いていなかった。


 煌は静かな、けれど有無を言わせぬ足取りで私と健斗の間に割って入る。


「……姫。俺の後ろへ」


 低く囁かれた声と共に、私は彼の背中側へと強引に引き寄せられ、甘い香りのする彼の腕の中に閉じ込められた。


「な、なんだお前……? いや、嘘だろ……?」


 健斗が虚勢を張ろうとしたものの、目の前の常軌を逸した美しさとオーラを前に、完全に言葉を失っている。


 そして、スマートフォンの画面越しに煌の顔を見た美沙が、肺から空気をすべて絞り出すような甲高い悲鳴を上げた。


「ウソ!? え、神宮寺煌!? 本物!? キャアアアアアッ!! なんで、なんでコウくんがこんな所にいるの!?」


 つい数秒前まで私をゴミのように嘲笑っていたいじめっ子は、瞬時にただのミーハーな熱狂的ファンへと成り下がり、顔を真っ赤にしてパニックに陥っている。


「コウくんだ、生コウくんだヤバい! えっ、でもなんで姫川なんかを庇って……っ」


 美沙の震える声など、煌の耳には一切届いていないようだった。

 彼は感情の読み取れない冷酷な瞳で健斗を見下ろし、ゆっくりと口を開いた。


「どんな理由であっても、姫を泣かせるなら全力で潰す」


「ひっ……!」


 煌が一歩踏み出しただけで、健斗は情けなく腰を抜かし、泥の上に尻餅をついた。


 圧倒的な格の違い。

 本物のカリスマの前に、学校の狭いカーストなど塵ほどの価値もない。


 煌は冷ややかな視線で彼らを一瞥すると、くるりと私の方へ向き直った。


 さっきまでの氷のような表情が嘘のように、彼はひどく甘く、熱を帯びた瞳で私を見つめている。


「君を傷つける人間のいる場所には、もう1秒たりとも置いておけない」


 彼は大きな手で私の震える手を包み込み、強引に自分の胸へと引き寄せた。


「こんな危険な場所、今すぐ退学しろ。……俺の学園に来い」


 彼の唇から紡がれた言葉は、私の耳を通り越し、直接魂の奥底に響いてくる。


 周囲で美沙が「嘘でしょ、コウくんが姫川の手を引いてる!? やだ、待って!!」と半狂乱になって叫んでいるが、そんなものはもうどうでもよかった。


 私は彼の手を強く握り返し、涙で視界を滲ませながらコクンと頷いた。


「……はい」


 夕日に染まる裏庭を背に、私たちは手を取り合って歩き出す。


 私の背中を押すのは、もう絶望ではなく、彼がくれる圧倒的な安心感だった。


   * * *


 煌と姫川が去った後の、薄暗い裏庭。


 そこには、腰を抜かした健斗と、パニックで過呼吸気味になっている美沙たちだけが残されていた。


「やだ、夢? これ夢!? コウくんがなんで……っ!」


 美沙が地面を叩きながら泣き叫んでいたその時。


 バサッ、と上空から黒い布が降ってきて、美沙たちの頭からすっぽりと被せられた。


「もごっ!? なに、誰!?」


 抵抗する間もなく、背後に音もなく現れた屈強な黒服の男たちが、美沙と健斗、そして取り巻きたちをプロの手際で軽々と担ぎ上げる。


「はいはい、暴れないでねー。そのまま大人しく車に乗りまーす」


 コツコツとヒールの音を響かせて現れたのは、タイトスカートのスーツを着こなした、30代半ばの女性だった。

 彼女――『サンシャインイン』のチーフマネージャーである佐々木は、もがく生徒たちを乗せて走り去る黒塗りのバンを見送って、盛大にため息をついた。


「はい、対象者の回収完了。……次は、学内の監視カメラ映像のハッキングと全消去、と。あーあ、民間人の記憶操作なんて、また始末書の山じゃないの」


 佐々木は手元のタブレット端末を流れるようにタップし、恐ろしい隠蔽工作をまるで日常の事務作業のように淡々と処理していく。


「一切のスキャンダルも残さないように後始末するこっちの身にもなってほしいわよね。せっかく彼が姫川さんのために派手に立ち回っても、世間的には『最初から何もなかったこと』になるんだから。ただの自己満足じゃない」


 ブツブツと物騒な文句を言いながら、佐々木は煌たちが去っていった方向へと視線を向けた。


 完璧なトップアイドル『神宮寺煌』。しかしその内側は、どこか冷め切って、息苦しいほどの孤独を抱えながら生き急ぐだけの機械のようだった。

 ――そんな彼が、ようやく見つけた「人間としての熱」。あの少女の手を引く顔は、これまでカメラの前で一度も見せたことのない、不器用で、ひどく優しいものだった。


 佐々木はタブレットを小脇に抱え、呆れたように、けれど母親のように温かい弧を口元に描く。


「……まあ、あんなに幸せそうな顔を見せられちゃ、残業代ゼロでもいっか」


 女性マネージャーの呆れたような、けれどどこか温かい呟きが、春の風に乗って裏庭の空に溶けていった。

【作者あとがき】

ここまで第一部をお読みいただき、本当にありがとうございました!

いじめっ子たちへの圧倒的な制裁と、ミーハーなファンの末路。

そして謎のトンデモ事務所による事後処理……楽しんでいただけましたでしょうか?


本作はここで一旦【第一部完結】とさせていただきます。


もし、ご要望があれば、第二部の「アイドルだらけの私立学園」を執筆します。

少しでも「面白かった!」「スカッとした!」「二人の続きが読みたい!」

と思っていただけましたら、画面下にある『★』での応援をお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ