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第02話:トップアイドルの本当の姿

 夕日に染まる放課後の旧校舎から、駅へと続く寂れた商店街へと歩みを進める。


 春特有の、少し生ぬるくて埃っぽい風が鼻先を掠めていった。


 私の半歩先を歩く背中を、まるで幻でも見ているかのような気分で見つめる。


 分厚い黒縁眼鏡に、野暮ったく切り揃えられた前髪。


 わざと猫背にして歩幅まで小さく調整しているその姿は、どう見ても「冴えない転校生の山田太郎」そのものだ。


 だが、その中身が5万人を熱狂させるトップアイドル『神宮寺煌』であることを、私だけが知っている。


(罰ゲームで毎日デートって……本当に、どうしてこんなことになっちゃったの……?)


 制服のスカートの裾をぎゅっと握りしめながら、私は自分の足元に落ちる長い影を見つめた。


 心臓はさっきから、肋骨を突き破りそうなほどの勢いで暴れ回っている。


 すれ違う買い物客の誰も、この猫背の男子生徒が国民的スターだとは気づいていない。


 この「世界中で私しか知らない秘密」という圧倒的な優越感と、いつファンに囲まれて殺されるか分からない恐怖が混ざり合い、胃の奥がヒリヒリと焼けるように痛かった。


『……そんなに顔色を悪くして。僕と歩くのは、そんなに嫌?』


 不意に、耳からではなく、脳の奥底の最も柔らかい部分を直接撫でるような声が響いた。


 ビクッと肩を跳ねさせて顔を上げると、いつの間にか立ち止まっていた彼が、振り返ってこちらを見下ろしている。


 分厚いレンズの奥にある吸い込まれるような瞳が、微かに弧を描いていた。


 もちろん、彼の口元は1ミリも動いていない。


(い、嫌なわけないじゃないですか! ただ、心臓が持たないというか、現実感がなくて……っ)


 声に出さず、ただ心の中で叫んだだけの私の言い訳に、彼は喉の奥でくすくすと笑うような気配を頭の中に響かせた。


『なら、まずは現実感を味わってもらおうかな。ほら、着いたよ』


 彼が指差したのは、商店街の端にある、蔦の絡まった古びた純喫茶だった。


 色褪せた食品サンプルが並ぶショーケースの横を通り、彼がカランとくぐもった音の鳴るドアを押し開ける。


 店内に足を踏み入れると、深く焙煎された珈琲の苦い香りと、古い木材の匂いが全身を包み込んだ。


 臙脂色のベルベットのソファ席に促され、向かい合わせに座る。


 彼とテーブルを挟んで向かい合っているという事実に、再び動悸が激しくなった。


「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」


 年配のウェイトレスが、グラスに入った水とおしぼりをコトンと置く。


 私は焦ってメニュー表に視線を落とした。


「あ、えっと、私はアイスティーで……」

「苺の特大パフェを一つ。あと、ホットコーヒーを」


 彼の口から発せられた予想外の単語に、私は思わずメニュー表から勢いよく顔を上げた。


 ウェイトレスが下がり、二人きりの空間に戻る。


(……ん? 特大パフェ?)


『なんだい? そんなに不思議そうな顔をして』


 脳内に響く甘い声に、私はコクコクと何度も頷いた。


(だって、煌くん……じゃなくて、山田くんって、クールでストイックなキャラクターじゃないですか。甘いものなんて、絶対に食べないイメージでした)


 音楽番組のインタビューでも、「休日はジムで身体を鍛えています」「食事は鶏胸肉とブロッコリーが中心ですね」と、非の打ち所のないプロ意識を語っていたはずだ。


 私が混乱していると、彼は眼鏡を指の腹でくいっと押し上げ、口角を少しだけ意地悪に吊り上げた。


『アイドルとしての僕は、ね。でも、本当の僕はひどい甘党なんだ。……君は、僕の本当の姿を知りたくない?』


 脳内を直接揺さぶるような低音の囁きに、顔にカッと熱が集まるのが分かった。


 ずるい。こんなの、ファンなら誰だって「知りたい」に決まっている。


 やがて運ばれてきた巨大なパフェを前に、彼は嬉しそうに目を細めた。


 長い指が銀色の長いスプーンを握る。


 真っ赤な苺とたっぷりの生クリームを掬い上げ、少し薄い唇の間に運ぶ。


 コクリ、と彼の喉仏が上下に動いた。


 ただパフェを食べているだけなのに、その一つ一つの所作が彫刻のように美しく、目を逸らすことができない。


 無自覚な色気に、さっきまでとは違う意味で心臓が跳ねた。


 彼は一口食べ終わると、ふう、と満足そうに息を吐き、悪戯っ子のように微笑んだ。


『美味しい。……でも、二人で食べたらもっと美味しく感じるかも。はい。あーんってしてみてよ』


 スプーンの先が、私の方へと差し出される。


 間接キス、という単語が脳裏をよぎり、私は顔から火が出そうになりながら両手を激しく振って拒否した。


 彼がおかしそうに肩を揺らすのを眺めながら、私は冷たいアイスティーで必死に喉の渇きを潤した。


   * * *


 喫茶店を出ると、空はすっかり茜色から群青色へと変わりかけていた。


 駅へと続く道には、古い桜並木が続いている。


 等間隔に並んだ街灯がオレンジ色の光を落とし、満開の夜桜を幻想的に照らし出していた。


 風が強く吹き抜け、大量の薄紅色の花びらが吹雪のように舞い散る。


 彼が歩くたびに、甘い香水の匂いが、桜の香りと混ざり合って私の鼻腔をくすぐった。


 その瞬間だった。


 ――ガンッ、と頭の奥で硬い金属がぶつかり合うような音が響いた。


 視界が、ぐにゃりと歪む。


 目の前にあるはずのオレンジ色の街灯が、セピア色に色褪せ、やがてドス黒い炎の色へと塗り潰されていく。


 アスファルトの冷たい匂いが消え、代わりに鼻を突いたのは、木材が激しく焦げる匂いと……鉄が錆びたような、濃密な血の匂い。


 飛び散る赤い飛沫が、夜風に舞う桜の花びらと重なって、ゆっくりと地面に落ちていく。


 私は喉の奥で声にならない悲鳴を上げ、膝から崩れ落ちそうになった。

 重力に引かれて地面に叩きつけられる、と思った瞬間。


 強靭な腕が、私の腰をガシッと抱きとめた。

 シャツ越しに伝わってくる、尋常ではない体温の高さ。


 トクトクと力強く脈打つ心臓の音が、私の耳元で直接鳴っているようだった。


『……大丈夫。俺が、守るから』


 脳内に響いたその声は、いつもの完璧なアイドルのそれではなかった。


 低く、掠れていて、ひどく切実で……ずっと前から、ずっと私に言い聞かせてくれていたような、そんな響きを帯びていた。


 息を荒らげながら顔を上げると、分厚い眼鏡の奥の瞳が、痛みを堪えるような切ない色で私を見つめ下ろしていた。


(あ、の……ごめんなさい、急に目眩がして……)


 頭の中でそう弁明しながら、彼から体を離そうとした時だ。


 背中をゾクッと駆け上がるような、不気味な気配を感じた。

 私は彼に支えられたまま、視線だけを斜め後ろへ向ける。


 そこは、商店街のアーケードの切れ目。

 街灯の光が届かない薄暗い電柱の陰に、一人の女子生徒が立っていた。

 肩まである明るい茶髪。短く詰めたスカート。


 クラスの中心グループにいて、いつも私をゴミでも見るような目で嘲笑い、標的にしている美沙だった。


 彼女は、ピンク色の派手なネイルが施された指でスマートフォンを強く握りしめている。


 その指の関節が、白く変色するほどの異常な力が込められていた。


 彼女の視線は、私と山田くんが密着している様子に釘付けになっている。


 親の仇でも見るかのような、ドス黒い憎悪。


 いつも余裕ぶって私をいじめていた彼女の顔は、嫉妬と怒りで醜く歪んでいた。


 何かを呟いている口の動き。

 距離があって声は聞こえないはずなのに、彼女のドス黒い感情が、呪いのように真っ直ぐに私へと突き刺さってくる。

「なんで」――その形の通りに歪んだ唇が、ピンク色の派手なネイルが施されたスマートフォンを、ミシリと音を立てんばかりに握りしめていた。

 彼女が放つ明確な悪意の波動が、私の肌をチクチクと刺す。


 途端に、胃の奥が鉛を呑み込んだように重くなり、指先から急速に体温が失われていくのが分かった。


 明日からの学校生活が、今まで以上の地獄になる。


 そう直感した私の肩が小刻みに震え始めたのを察知したのか……山田くんは私の体を優しく離し、そっと私の前に立ち塞がった。


 彼は、電柱の陰に立つ美沙に向かって、ゆっくりと視線を向ける。


 その横顔には、さっきまでパフェを食べて微笑んでいたような温もりは一切なかった。


 絶対零度。

 それは、五万人を熱狂させるトップアイドルが持つ、他者をひれ伏させるような圧倒的なオーラの反転。

 ただ静かに、感情の抜け落ちた氷のような瞳で『見下ろす』だけ。

 そこには分かりやすい怒りや殺意すらなく、ただ美沙という存在を「取るに足らない路傍の石」として切り捨てるような、ひどく残酷で冷徹な光が宿っていた。


 ビクッ、と美沙の肩が跳ねるのが見えた。


 得体の知れない恐怖を感じたのか、彼女は弾かれたように踵を返し、足早に暗がりへと逃げ去っていった。


 彼女の姿が見えなくなると、山田くんはすぐに振り返り、いつものふにゃりとした人の良さそうな笑顔に戻った。


「さあ、日が暮れる前に帰ろうか」


 何も見なかったかのように、彼は優しく私の背中を押す。


 私は引き攣った愛想笑いを浮かべて頷きながらも、足元が泥沼に沈んでいくような感覚を拭えずにいた。


 推しとの夢のような罰ゲームデート。


 だが、その裏側で、私の乏しい日常が音を立てて崩れ去る確かな足音が、すぐそこまで迫っていた。

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