表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/7

理不尽な幕開けと、血塗られた決意

「……え?」


ジンが最後に覚えていたのは、そんな間の抜けた自分の声だった。

大学の講義を終え、バイト先に向かうためのいつもの交差点。信号が青に変わるのをスマホをいじりながら待っていた、ただそれだけの、どこにでもある日常のワンシーン。

特別なことは何もなかった。トラックが突っ込んでくるような気配もなければ、通り魔が暴れているような悲鳴も聞こえなかった。


ただ、ふと足元を見た時、自分の影が『おかしな形』に歪んでいることに気づいたのだ。

本来なら夕日に照らされてアスファルトに長く伸びているはずの影が、まるで意思を持っているかのようにウネウネと蠢き、どす黒い水たまりのように広がっていく。


「なんだ、これ……?」


ジンが後ずさりをしようとした瞬間、その真っ黒な水たまりのような影が、突然強烈な引力を発した。

「うわっ!?」

足をすくわれ、体が前のめりに倒れ込む。だが、叩きつけられるはずのアスファルトの硬い感触はいつまで経っても来なかった。代わりに、泥沼のような黒い空間へと全身がズブズブと沈み込んでいく。

息ができない。声も出せない。視界は完全に奪われ、まるで洗濯機の中に放り込まれたかのように三半規管がめちゃくちゃにかき回される。全身の細胞が一度分解されて、無理やり再構築されるような強烈な吐き気と激痛。


そして、不意に背中に強烈な衝撃が走った。


「ぐはっ……!?」


肺から空気が強制的に押し出され、ジンはむせ返りながら目を開けた。

そこにあったのは、見慣れたビル群でも、騒がしい交差点でもなかった。

視界を覆い尽くすほどの巨大な木々。見上げた空には、赤と青の二つの月が不気味に浮かんでいる。むせ返るような土と緑の匂い、そして、得体の知れない獣たちの遠吠えが空気を震わせていた。


「嘘だろ……どこだよ、ここ」


起き上がろうとしたが、全身が鉛のように重い。スマホを探そうとポケットを探るが、なぜか着ていたはずのパーカーは奇妙な麻布のような粗末な服に変わっていた。

異世界転移。ネット小説やアニメで腐るほど見たシチュエーション。しかし、そこにテンプレのような「女神」の姿はどこにもない。「勇者として召喚しました」なんていう親切なガイダンスも、便利なステータス画面も表示されない。

ただ、圧倒的で無慈悲な『未知の大自然』のど真ん中に、ポツンと放り出されただけだった。


「冗談キツいって……ドッキリか何かなら、早くカメラ回して出てきてくれよ……!」


声は震えていた。頬をひっかいた木の枝の痛みが生々しく、これが夢や仮想現実ではないことを容赦なく突きつけてくる。

どうすればいい?どこへ行けばいい?

パニックになりかけたジンの思考を、ガサリ、と背後の茂みが揺れる音が強制的に中断させた。


「……っ!」


息を呑み、振り返る。

そこから現れたのは、子供ほどの背丈の生き物だった。だが、人間の子供ではない。

どす黒い緑色の皮膚。ギョロリと飛び出した濁った黄色い双眸。裂けた口からは黄ばんだ牙が覗き、その手には赤黒い染みがこびりついた錆びたなたが握られている。

ゴブリン。ファンタジー作品の最弱モンスター。

だが、目の前にいるそれは、ゲームのポリゴンなんかじゃない。生物としての生々しい悪臭――血と泥と、糞尿の入り混じった強烈な獣の匂いを撒き散らしていた。


『ギギャァアアッ!!』


ゴブリンはジンを獲物と認識したのか、鼓膜を劈くような奇声を発し、地面を蹴って飛びかかってきた。


「うわあああっ!?」


ジンは無我夢中で横に転がり、鉈の凶刃を避ける。刃がすぐ横の地面を抉り、土塊が顔に飛んできた。

殺される。冗談抜きで、このままだと肉を削がれて殺される。

心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、冷や汗が全身から吹き出す。立ち上がり、がむしゃらに森の奥へと走り出した。

だが、現代日本で平和に生きてきた普通の学生が、森に生きる魔物の脚力から逃げ切れるはずもなかった。背後から迫る足音と荒い息遣いが、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。


「ハァッ、ハァッ……嫌だ、死にたくない……っ!」


木の根に足を取られ、ジンは派手に転倒した。

振り返ると、ゴブリンが頭上高く鉈を振り上げ、醜い顔に下劣な笑みを浮かべて跳躍していた。

逃げ場はない。死が、物理的な重さを持って振り下ろされる。


――嫌だ。こんなわけのわからない所で、死にたくない!

――力が欲しい。こいつを、この理不尽を退ける力が!!


その強烈な生存本能が、ジンの内側で眠っていた『何か』のスイッチを強引にこじ開けた。

瞬間、心臓の奥底から爆発的な熱が全身の血管を駆け巡った。

『士気高揚』――後にジンがそう呼ぶことになる、自身や味方の身体能力と精神力を爆発的に引き上げるバフ能力の無意識の発動だった。

恐怖で竦んでいた体が、嘘のように軽くなる。視界がクリアになり、空中にいるゴブリンの動きがまるでスローモーションのように見えた。


(武器が……武器が要る!!)


ジンが右手を前に突き出し、強く念じた瞬間だった。

空中の空間が歪み、青白い魔力の光が収束する。光は一瞬にして物質へと変換され、ジンの目の前に『鉄の剣』が実体化して浮かび上がった。


「いけぇえええええっ!!」


ジンが叫びながら右手を振り抜くと、空中に浮かんだ剣はまるで発射された砲弾のような凄まじい速度で射出された。


『ギャ……?』


ゴブリンの戸惑いの声は、鈍い肉の破裂音にかき消された。

鉄の剣はゴブリンの胸の中心を正確に貫き、そのまま強烈な運動エネルギーで体を背後の大樹まで吹き飛ばし、太い幹に深々と串刺しにした。

ビクン、ビクンと痙攣していたゴブリンの体が、やがて力なく項垂れ、動かなくなる。貫かれた傷口から、どす黒い血がドクドクと流れ出し、木の根元を濡らしていった。


「……っ、ハァッ、ハァッ……」


静寂が戻った森の中で、ジンの荒い呼吸だけが響いていた。

助かった。生き延びた。

自身の内側に未知の力が宿っていることへの驚きよりも先に、地面にへたり込んだまま、震える足でゆっくりとゴブリンの死体へと近づいていく。


「……う、あ……」


顔が歪む。

ゲームなら、倒したモンスターは光の粒子になって消え、アイテムやお金を落とすはずだった。

しかし、目の前にあるのはただの『死体』だった。

傷口から放たれる強烈な血の匂い。少し前まで生きようとしていた内臓の熱気。そして、人間によく似た四肢の構造。

その事実に直面した瞬間、強烈な吐き気が込み上げてきた。


「オエェエエエエッ……!!」


ジンは木の根元に手をつき、胃液をぶちまけた。

自分は今、命を奪ったのだ。

相手がどれだけ醜悪な魔物であろうと、明確な殺意を持って生き物を殺した。その手の感触と、あの肉を貫く鈍い音が、脳裏にこびりついて離れない。

震える両手を見る。血はついていないのに、ひどく汚れてしまったような気がした。


「……何なんだよ、これ……」


涙と胃液でぐちゃぐちゃになった顔を拭いながら、ジンは空を見上げた。二つの月が、ただ冷たく自分を見下ろしている。

ここは日本じゃない。法律も、警察も、自分を守ってくれる社会のルールも存在しない。

弱い者は食われ、強い者だけが生き残る。それがこの世界の、たった一つの絶対的なルールなのだ。


森の奥から、再び別の獣の鳴き声が響いた。

今の血の匂いを嗅ぎつけて、別の魔物が寄ってくるかもしれない。ここで立ち止まって泣いている暇など、一秒たりともなかった。


「……生きる」


ジンは震える両足に力を込め、無理やり立ち上がった。

足はまだガクガクと震えている。心臓はバクバクと五月蝿い。

それでも、目はしっかりと前を向いていた。


「俺は、こんなところで死なない。生きて……絶対に生き抜いてやる」


そのためには、この無意識に引き出した力――自分を強化し、武器を召喚する魔法――を完全に使いこなさなければならない。自分自身を極限まで鍛え上げる必要がある。

そして何より、たった一人では、この恐怖と孤独に心が押し潰されてしまう。

背中を預けられる存在。心から信頼し、共に笑い合える仲間が絶対に必要だ。


「強くなる。誰にも理不尽に命を奪われないくらいに。そして……絶対に、俺の大切なものを守り抜ける力を……!」


異世界の冷たい夜風が吹き抜ける中、ジンは強く拳を握りしめた。

普通の大学生だった少年が、最強の力で仲間を守り抜く『英雄』へと至る、果てしなく過酷で、だけど最高に熱い物語。


その第一歩が、今、血と泥に塗れた森の中で力強く踏み出されたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ