泣きっ面に八
のどかなぽかぽか陽気の祝日の午後。
平凡は縁側の板張りに腰掛けて、庭を眺めながら缶ビールを片手にFMラジオを聴いていた。ゴロゴロとお腹が鳴った。最近、下痢気味だ。アルコールの飲み過ぎかなぁ、とスマホと缶ビールを置いて、トイレに行こうと立ち上がろうとしたら、赤ん坊のおぎゃあーという泣き声が、鼓膜を震わせた。妹の子どもだが、本人はいま買い物に出かけている。
喉を絞るようなその泣き方は、腹が減ったのか、暑いのか、おしっこを漏らした不快感からか、それともただ、抱いてほしいのか。その切実な声を聞きながら、腹の奥から鈍い痛みがせり上がってくるのを感じる。強烈な便意。まずい、急にきた。すでに限界に近い。おしりに手を当ててゆるりと歩き出したとたん、鍋の沸騰した音が聴こえた。コンロの上で蓋が小刻みに跳ね、湯気が白く立ちのぼっている。しまった。強火のまま、つまみの枝豆を茹でていたんだった。
スマホが着信音を鳴らした。まじかよ、なんで今?あの着信音は花菜だ。凡は顔だけ振り返った。……だめだ。すぐそこだけど、今、後ろに戻る選択肢はない。メールを既読スルーしたからだろう。近頃、彼女とはうまくいっていない。そろそろ潮時か。おんぎゃあー。横を向くとベビーベッドの囲いの中で、赤ちゃんが顔を真っ赤にして泣いている。ゴロゴロ。疼く下腹。ぐらぐらと跳ねる鍋、いつまでも鳴り止まない着信音。
そこへチャイムが鳴った。ピンポーン。「ごめんくださーい。書き留めでーす」配達員の声が聞こえる。
しまった。風通しのために、玄関の扉開けっ放しじゃないか。
「平さーん。おられますかーっ!!」扉をコンコンと叩きながら、再度声がする。声の感じから察するに上がり框のところまで来てるぞ。
凡はその場に屈んだ。片足の踵でおしりの穴を塞ぐ。だめ。いま声を出したら、だめになる。すべてがだめになる。おしりの出口で奴らが激しくノックしている。ツッタカター。開けろー。ここを開けろー。
バシャっ、と水を打つ音がして神経を澄ませると、風呂場の方から水が溢れる音がした。しまった。風呂に水を貯めていたのを忘れていた。オーマイガー。頭が真っ白になる。なんで水張ってんだ。さっき、なんで風呂に入ろうと思ったんだ?ばかばかばか。
「平さーん、……おかしいな、赤ちゃんの泣き声が聞こえるのに。トイレかな」
もうっ、いったん帰ってくれよ。再配達。そこらへん、ぐるっと配達してから来てくださいよ。お願いします。よりによって書き留めとか……。ふざけてる。
「おい……! おーい!」
奥の部屋から父の声がした。寝たきりの父が、あの掠れた声で必死に呼んでいる。今まで出したことのないような大きな声。何かあったのか。腹が減ったかトイレ?それともただ、話し相手ほしさに呼んでいるだけなのか。けれど、その判別をつける余裕がもうない。最近、認知症がひどくなってきてるようだ。物忘れがひどい。
脂汗がポタポタとフローリングに小さな水たまりをつくる。優先順位。人間の本能が、トイレだと叫んでいる。どれを後回しにしても、後悔が待っている。頭の中で順番を組み替え続ける。父、赤ん坊、鍋、トイレ、風呂、電話、チャイム。どれが先か、どれをあとにすればいいのか。まるで、陸上選手の位置についてのポーズのまま思考を整理する。
おんぎゃー。ゴロゴロ。ぐらぐら。メロディー。平さーん。バシャバシャ。おーい!
便意の波が少し落ちついたところで、凡はゆるりと立ち上がった。そして、戦争で瀕死の怪我を負ったかのように、よろよろと壁とおしりに手を添えながら覚悟を決めてそこへ向かった……。
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