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第六章 静かな臨界

――臨界とは、壊れることではない。

 壊れたあとにも“形が残っている”ことだ。


1 夜明けの都市


 朝の光が、いつもより遅れて届いた。

 空の色は灰と銀の中間、音を持たない色だった。

 街は静まり返り、通りを行く人々の顔には表情がなかった。

 ニュースでは、連日の無差別事件が“同時多発的な心因性”として報じられていた。


 一ノ瀬はカフェの窓際で、その報道を無音の字幕で眺めていた。

 “押せる”という概念が、ゆっくりと社会に浸透していく。

 それは感染でも流行でもなく――覚醒だった。


 人々の視線は、どこかで誰かを観察している。

 互いの倫理を測り合う世界。

 榊が言った通り、「観察は信仰」になっていた。


「……これが、臨界のあとの世界か。」


 呟きは、誰にも届かなかった。


2 廃墟の研究棟


 閉鎖されたA−7室に、彼は再び足を踏み入れた。

 封鎖テープは破られ、床には足跡がいくつも残っていた。

 赤いボタンはもうない。

 だが、その位置には光の痕跡があった。


 指先でなぞると、かすかに熱い。

 存在しないはずの“記憶の温度”。

 理性が、まだここに滞留している。


 壁際のモニターが勝手に点灯した。

 ノイズ混じりの映像が再生される。

 榊でも久遠でもない。

 自分だった。


 録画の中で、一ノ瀬は静かに語っている。


「――もし、理性が形を持つとしたら。

 それは、沈黙の中で呼吸する“透明な痛み”だと思う。」


 自分の声なのに、他人のようだった。

 あの夜以降、誰かが彼の行動を観察していた。

 観察の循環が、閉じない。


3 久遠の実験


 その夜、久遠が姿を現した。

 白衣ではなく、黒い服。

 表情は変わらないが、目の奥に揺らめくものがあった。


「あなたの記録を見ました。」

「どう思った。」

「理解が、現実を越えたと思いました。」


 一ノ瀬は笑った。

 理解が現実を越える――それはつまり、現実が理解を拒むということだ。


「榊は、“罪のある理性”を信じていた。」

「ええ。」

「君は?」

「私は、“罪を共有する理性”を信じます。」


 久遠は手のひらを差し出した。

 そこに、小さな銀色のスイッチがあった。

 赤いボタンではない。

 無色透明の、沈黙するスイッチ。


「押すんですか。」

「押すんじゃありません。――繋ぐんです。」


 指が触れた瞬間、世界が反転した。


4 静かな臨界


 音が消えた。

 空気が水のように濃くなり、視界の端が白く滲む。

 久遠の声も、遠い。


「観察は終わりません。

 でも、もう誰も観察していない。」


 言葉の意味が理解できなかった。

 だが、その静寂の中で――

 初めて、“理性の臨界”という言葉の意味が分かった。


 壊れた理性は、消えない。

 むしろ、壊れたことで世界に広がる。


 街の光がすべて同じ速度で瞬き、

 人々の視線が、一瞬だけひとつに重なった。


 観察者と被観察者の境界が、溶けた。

 すべてが“観察そのもの”になった。


5 残響


 翌朝、ニュースは沈黙を報じていた。

 世界各地で、一斉に人々が言葉を失った。

 発声機能は問題ない。

 ただ、誰も話そうとしない。

 理解しすぎた結果、言葉が不要になったのだ。


 一ノ瀬は街を歩いた。

 久遠の姿はどこにもない。

 だが、彼女の声が、まだ胸の奥に残っている。


《罪を共有できるなら、人はまだ人間でいられる。》


 空は透明で、雲ひとつなかった。

 その静けさが、祝福にも葬送にも聞こえた。


 彼は空を見上げ、ゆっくりと呟いた。


「――観察、続行。」


 その言葉が、世界のどこかで微かに反響した。


――理性の終焉は、沈黙の誕生である。

 そして沈黙の中にこそ、人間の声が宿る。

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