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第五章 理性の残響

――理性は、沈黙のあとにしか語り出さない。

 理解とは、声を失った言葉の記録である。


1 帰還


 四月。

 大学の構内に、新しい風が吹いていた。

 桜の花びらが歩道を漂い、

 誰もが「新しい時間」を信じるように歩いていた。


 一ノ瀬は、心理学部の臨時講師として復帰していた。

 肩書きは変わっても、心は変わらない。

 研究棟の一室――かつて榊が講義を行っていた場所で、

 彼は学生たちに語っていた。


「人はなぜ、人を殺さないのか。

 それを理解することが、心理学の出発点です。」


 学生たちのノートに、ペンが走る音。

 その音は、かつて榊が聞いていた音と同じだった。

 世界は、何度でも繰り返す。

 だが、繰り返すたびに“記録のノイズ”が少しずつ増える。


 一ノ瀬の声は、以前よりも静かだった。

 理解を語る者は、必ず沈黙の重さを知っている。


2 榊の残響


 その夜、一ノ瀬のもとに一通の封筒が届いた。

 差出人不明。だが、筆跡で分かった。榊だ。


 中には、手書きのメモと一枚のUSB。


 メモには、こう書かれていた。


《理性は、観察されることを望んでいる。

 それは“自分の存在を確認するため”だ。

 もし理性が完全に理解されてしまえば、

 世界はもう観察を必要としなくなる。

 ――だから私は、消える。》


 封筒の匂いは、少し古紙のようだった。

 榊の死を知らせる報道は、その二日後に流れた。

 山間の別荘で、自ら命を絶ったという。


 USBを再生すると、ノイズ混じりの映像が現れた。

 榊がカメラの前に座り、

 いつものように淡々と語っている。


「罪は、理解の副産物だ。

 だが、理解をやめた者は、もはや人間ではない。

 だから私は、“罪のある理性”を信じる。

 それこそが、人を生かす唯一の形だ。」


 最後に、榊は微かに笑った。

 その笑いは、かつて教壇で放った嘲笑ではなかった。

 どこか、解放されたような表情だった。


 一ノ瀬は、モニターの前でしばらく動けなかった。

 理性の残響が、静かに心の奥に染み込んでいった。


3 久遠の影


 ある夜、一ノ瀬は研究棟の前で人影を見た。

 照明の届かない桜の木の下に、久遠が立っていた。

 白いコートの裾を風が掠める。


「――帰ってきたんですね。」

「ああ。」

「また、観察する側に?」


 一ノ瀬は頷いた。


「でも、もう“観察するため”じゃない。

 理解したことを、忘れないためにだ。」


 久遠は目を細めた。

 その瞳の奥には、どこか安らぎがあった。


「押したあとの世界は、どうでした?」

「静かだった。

 でも、誰かの呼吸を感じた。

 それが、生きることなんだと思った。」


「それでいいんです。」


 久遠は微笑み、背を向けた。

 彼女の歩く音が、夜の空気の中に吸い込まれていく。

 その音は、まるで理性の鼓動のように遠ざかっていった。


4 講義室


 翌週、一ノ瀬は黒板にひとつの言葉を書いた。


「観察者とは、見続ける者ではない。

 見たあとも、生きている者だ。」


 学生たちの目が上がる。

 その中に、かつての自分を見る。

 “理解を信じる前”の、自分の影。


 彼は微笑み、チョークを置いた。


「今日は、ここまでにしよう。

 ――理性も、休息が必要だ。」


 教室を出ると、春の光が差し込んでいた。

 世界はまだ静かで、どこまでも穏やかに見えた。


 だが、その静寂の奥に、彼は確かに聞いた。


(――観察、続行。)


 久遠の声。

 榊の残響。

 そして、自分の中の罪の形。


 それらすべてが、一つの“理性”として呼吸していた。

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