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第四章 罪の形

――罪とは、他者の痛みを理解できてしまう能力のことだ。


1 白い部屋


 目を開けると、白い天井があった。

 病院の灯りは、常にどこか人工的だ。

 一ノ瀬は自分の手を見た。

 包帯の下、赤いボタンの痕が、まだ皮膚に残っている。


 脳裏に焼き付いているのは、押した瞬間の“無音”だった。

 アラームが鳴るよりも前に、世界が一度止まった。

 その静寂は、恐怖ではなかった。

 むしろ――理解に近かった。


 倫理を越えた瞬間、世界の輪郭が一度だけ鮮明になった。

 誰かの苦痛を、自分の内側で正確に再現できる。

 その能力が、罪という名を持っていた。


「――目が覚めたか。」


 榊教授が、窓際に立っていた。

 白衣の袖口から覗く手首には、薄い血の跡。

 それを見ても、もう驚けなかった。


「綾香は?」

「助かったよ。だが、もう君とは会えない。」


 言葉が胸の奥で重く沈む。

 息を吸うたび、理性の欠片が少しずつ肺に刺さるようだった。


2 榊の部屋


 退院の翌日、一ノ瀬は教授室に呼ばれた。

 榊は机に広げたデータの上で、指先を止めた。


「君の反応は、他のどの被験者よりも正確だった。

 “倫理的自覚を伴った行為”。」


「教授はそれを、成功と呼ぶんですか。」

「失敗ではないだろう。」


 冷淡な笑み。

 だが、その笑みの裏には、どこか微かな疲労があった。


「久遠はどうしたんです。」

「行方は知れない。」

「――あなたが、彼女を実験に使ったんじゃないですか。」


 榊の表情が、わずかに動いた。

 それは否定ではなかった。


「彼女は、自分で越えた。

 私はただ、その扉を開けただけだ。」


「それが、あなたの“神”のつもりですか。」

「違う。一ノ瀬。

 私は人間の形をした理性を見たかっただけだ。」


 沈黙。

 榊の目の奥には、確かな狂気と、痛みが同居していた。


「理性は、もともと罪を観察するための器だ。

 だから理性を極めた者は、いずれ罪に触れる。

 触れた瞬間に、人は自分を理解してしまう。

 ――それが“罪の形”だ。」


 一ノ瀬は、初めて榊の言葉に恐怖ではなく哀しみを感じた。

 理解が、彼を壊していた。


3 再会


 夜、研究棟の裏口。

 閉鎖された実験室の前に、人影が立っていた。

 久遠沙耶だった。


 冬の風の中で、髪が揺れている。

 表情は変わらない。だが、瞳の奥が別人のように静かだった。


「――押したんですね。」

「ああ。」

「どうでした?」

「……思っていたより、何も起きなかった。」


 久遠は、微かに笑った。


「それが、“起きた”ということですよ。」


 意味を問う前に、彼女は続けた。


「私たちは、倫理という形を信じていた。

 でも、押した瞬間にそれがただの空洞だったと分かる。

 人は空洞を見たあと、自分で中身を作るんです。」


「……それが罪?」

「罪は形じゃなくて、跡です。

 越えたあとに残る、理性の欠けた部分。

 でもその欠け目が、ようやく“人間”を作るんです。」


 一ノ瀬は、その言葉に何も返せなかった。

 罪は消すものではなく、“自分という形の陰”として生き続ける。

 それを理解したとき、彼の中で何かが静かに整った。


4 崩壊


 翌朝、榊教授が大学を去った。

 警察の捜査も、大学の追及も受け入れず、

 ただ「理解の限界に達した」とだけ残した。


 研究室は封鎖され、赤いボタンも撤去された。

 だが、一ノ瀬の頭の中では、そのボタンがまだ光っている。

 押すことは、もはや行為ではない。

 それは「生きるという選択」の象徴になっていた。


「殺すことと、生きること。

 どちらも、誰かの観察の上に成り立っている。」


 それが、榊が最後に残した言葉だった。


5 沈黙


 春。

 講義棟の前の桜が、咲きかけていた。

 一ノ瀬は、学生たちの間を通り抜け、歩道の端に立った。

 新しい講師が、かつての榊の講義を引き継いでいる。


「人はなぜ殺さないのか。」


 黒板の文字が、かすかに滲んだ。

 彼の胸の奥で、あの沈黙が再び息をする。


 押すことも、止めることも、もうできない。

 ただ、観察する。

 “押したあとの世界”で生きるしかない。


――罪は形を持たない。

 だが、人がそれを見た瞬間、

 世界は確かに、形を持つ。

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