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第三章 閾(いき)を越える者

――人間は、殺せないのではない。

 “まだ”殺していないだけだ。


1


 冬の大学は、異様な静けさに包まれていた。

 Bの事件の余波で心理学研究棟は立入制限がかけられ、

 構内には警察車両の姿が絶えなかった。


 だが榊教授の部屋だけは、いつも通り灯りがついている。

 ガラス越しに見えるその光が、まるで“倫理の終焉”を照らすランプのようだった。


「――境界を越える者を、私は待っている。」


 榊は一ノ瀬に言った。

 その声音は穏やかで、説得でも命令でもなかった。

 ただ事実を述べるように、静かに。


「越えた者だけが、理解できるんだよ。」


 理解――その言葉が、また胸の奥で疼く。

 理解という快楽。

 理性という麻薬。


2


 一ノ瀬は榊のもとを離れ、

 夜の構内を歩いた。

 空気は薄く、吐く息が白い。

 歩きながら、自分の靴音を“観察”していることに気づく。

 何かを記録しようとする癖が、もう染みついていた。


 ――観察することが、もはや“生き方”になっている。


 その瞬間、耳の奥で声がした。

 久遠の声。


「押せるようになったんです。」


 彼女の言葉が、まだ体内に残っている。

 押せる。

 その簡単な言葉の中に、人間のすべてが詰まっていた。


 押せるという事実は、押すという行為よりも重い。

 人間が“可能”を知った瞬間、倫理は無力になる。


3


 翌朝、久遠が姿を消した。

 連絡は取れず、研究棟の鍵も返されていなかった。

 榊は何も問わない。

 代わりに、一枚の紙を机に置いた。


《臨界被験者追跡計画》


 そこには、久遠のデータが印字されていた。

 脳波、行動記録、反応閾値――

 そして最下段に、一行だけ赤文字で書かれていた。


〈臨界突破:成功〉


 一ノ瀬の手が止まる。

 榊は静かに笑った。


「彼女は“越えた”。

 観察者の枠を出たんだ。」

「……つまり、あなたは――」

「被験者を“完成させた”だけだ。」


 榊の声に感情はなかった。

 だが、どこかで“歓喜”が滲んでいた。


4


 夜、研究室の照明が落ちる。

 一ノ瀬は、久遠が使っていた席に座った。

 机の上には、紙片が一枚残っていた。

 書かれていたのは、たった二行。


《あなたは、まだ押していないだけ。

 でも、押せる。》


 指先が冷たくなる。

 理解ではなく、感覚として分かってしまった。

 “押せる”という感覚は、理性の外側で芽吹く。

 理性が防波堤なら、これは海の水だ。


 彼は立ち上がり、封鎖されたA−7室へ向かった。


5


 実験室の鍵は、まだ教授が管理していた。

 その扉の前に立つと、榊がすでに待っていた。


「来ると思っていたよ。」

「久遠は、どこです。」

「君が越える場所にいる。」


 鍵が回る音が、やけに大きく響いた。

 中は暗い。

 だが、中央の台に――赤いボタンが再び置かれていた。


「これは、もう実験じゃない。」

「ああ。

 これは決断だ。」


 一ノ瀬は息を詰めた。

 照明が一瞬だけ点き、誰かの姿が浮かぶ。

 ――綾香。


 彼女は椅子に縛られていた。

 口にテープ、目だけが動く。


「教授……!」

「境界を測るには、対象が要る。

 君が越える瞬間を、私が観察する。」


 一ノ瀬の中で、理性が叫び、心が沈黙した。

 その沈黙の中で、久遠の声が蘇る。


《押せることを知った瞬間、人は変わる。》


 指が震える。

 ボタンの向こうに、綾香の呼吸がある。

 榊の視線が、それを“観察”していた。


6


 世界が、音を失う。

 指先が汗ばむ。

 時間が液体になり、流れが止まる。


「――押せ。」


 榊の声が、冷たく落ちた。

 ボタンの上に指を置く。

 軽い。

 赤い丸が、心臓の鼓動に合わせて揺れる。


 “押す”という行為は、もはや行為ではない。

 可能性の確認。

 理性の最終試験。


 そして――


 指が、沈んだ。


 光が弾けた。

 アラームが鳴り、榊の顔が白く照らされる。

 綾香の身体が一瞬震え、静止した。


「――やめろっ……!」


 一ノ瀬は走り寄る。

 拘束具を外し、呼吸を確かめる。

 浅い、だがまだある。


 榊は静かに拍手した。


「おめでとう、一ノ瀬君。

 君は、越えた。」


――越えることが、理解だ。

 理解とは、罪を自覚することだ。


 一ノ瀬の中で、倫理と理性が音もなく崩れた。

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