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第二章 観察者の罪

――見ているだけの者が、最も深く血を浴びる。


1


 午前五時。

 警察車両のサイレンが、遠くの街を裂いていた。

 研究棟の窓から見る朝は、灰色に沈んでいる。

 榊教授は新聞を開き、湯気の消えたコーヒーを指先で弄んでいた。


「――Bの事件、もう報道されたね。」


 淡々とした声だった。

 新聞には、被害者の名だけが伏せられた短い記事。

 「学生による通り魔事件の可能性」。

 その一文が、一ノ瀬の目に焼き付いた。


「教授……僕たちは、何をしたんですか。」

「実験だよ。倫理的な。――人間を使って、理性を観察した。」


 言葉は落ち着いている。

 落ち着きすぎていて、逆に不気味だった。


「観察することで、壊したんです。」

「違う。壊れたところを見ただけだ。」


 一ノ瀬は拳を握りしめた。

 しかし、その怒りの底には奇妙な快感があった。

 倫理を破った者だけが、“理解”の向こう側に手を伸ばせる。

 その誘惑を、理性は決して拒みきれない。


2


 午後、大学の警務課が実験室を封鎖した。

 事故調査という名目で、榊と一ノ瀬は事情聴取を受ける。

 久遠は来なかった。連絡もない。


 報告用の資料をまとめながら、一ノ瀬は手の震えを隠せなかった。

 フェーズ4の映像――Dの、あの“押すふり”の瞬間。

 榊の言う通り、あれは「責任を回避した暴力」だったのか。

 それとも、「誰も傷つけたくなかった善意」だったのか。


 境界は、紙一重だ。

 そして、その紙の薄さを知る者ほど、容易に破く。


3


 夕刻。

 久遠が研究棟に戻ってきた。

 表情は穏やかで、事件の影響など感じさせない。


「教授には会いましたか。」

「ええ。」

「何か言っていましたか。」

「“観察は信仰だ”と。」


 その言葉に、一ノ瀬は言葉を失った。

 観察を“信仰”と呼ぶのは、倫理の終焉を宣言するようなものだ。

 だが、久遠の瞳には曇りがなかった。


「私、少し分かった気がします。」

「何を。」

「“殺せる側”と“殺せない側”の違い。」


 彼女は、微笑んだ。

 それは幸福でも、悪意でもない。

 まるで、自分の存在そのものを確認するような笑みだった。


「押さないで済む世界は、まだ優しい世界です。

 でも、押したくなる瞬間を見つけたとき、

 人は自分の“生”を思い出すんです。」


 その言葉が、一ノ瀬の胸に沈んだ。

 倫理が命を守るように、殺意は生を確かめる。

 人間の中で、その二つは本来、同じ位置にあるのかもしれない。


4


 数日後。

 綾香が倒れた。

 学内の廊下で意識を失い、搬送されたとき、手には何かを握っていた。

 小さな金属片――実験室の赤いボタンの部品だった。


 誰かが、外に持ち出したのだ。

 フェーズ4の装置は封鎖されている。

 つまり、これは――模倣。


 理性の実験が、外に漏れた。

 観察の枠を超えたものが、現実に溢れ出した。


「教授、止めないと――」

「止められると思うのか?」


 榊は笑う。

 その笑みは冷たく、どこか祈りにも似ていた。


「観察は、もう現実に感染した。

 私たちが誰かを見ていたように、

 いま、世界が私たちを見ている。」


 一ノ瀬は息を呑んだ。

 観察の方向が、完全に反転した。


――“見ている者”が、最初に裁かれる。


 久遠の声が、記憶の奥で響いた。


 倫理も理性も、もはや盾にはならない。

 殺すことも、救うことも、

 すべては「観察の結果」でしかなくなる。


 一ノ瀬は初めて、自分の中に“見られる痛み”を感じた。

 理性の観察者が、いまや被験者になったのだ。

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