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第一章 臨界点(前半)

――境界は、線ではない。

 静かに膨張し、ある朝ふと足元を攫う、見えない水位だ。


1


 大学院棟の地下二階。

 冬に向かう風の匂いが、古い空調の金属臭に混ざっていた。

 実験室A−7の扉は重く、押し開くときに僅かな空気の抵抗がある。

 密閉は倫理のためにある。外界から切り離した環境でしか、人は自分を誤魔化せないからだ。


 一ノ瀬遥は、白衣をかけたままガラス越しの観察窓に立っていた。

 ガラスに映る自分は、思っているより疲れている。目の下に溜まった薄い影、唇の色の浅さ。

 理性は、眠らない。眠らない理性は、やがて人間を乾かす。


 横で端末を操作していた助手が、控えめに声を落とした。


「被験者、入室可能です。」


 一ノ瀬は頷き、インターホンのスイッチを押した。


「これより実験フェーズ1を開始します。個体識別コードを確認して入室してください。」


 ドアがひとつずつ開き、志願者たちが入ってくる。

 匿名化のために名札にはアルファベットのみ――A、B、C、D。

 彼らの素性は一応わかっている。心理テスト、無作為抽出、リスク同意書。

 だが、紙に記された人物と、いま目の前の身体は同じではない。

 行動する人間は、書類に収まらない。


 最後に――Dが入室する。

 無造作に束ねた黒髪、過不足のない歩幅、視線は低いが不安定ではない。

 久遠沙耶。

 教員用のモニターには、事前評定だけが淡々と並ぶ。


〈感情統制:高〉

〈共感尺度:中〉

〈攻撃性潜在:不定〉

〈ストレス耐性:高〉


 不定。

 “攻撃性”が測れない人間がいる――その事実が、一ノ瀬の胸をわずかに刺す。

 測れないということは、どちらにも振れるということだ。

 ゼロにも、一にも。


2


 榊教授は、遅れて現れた。

 コートを椅子の背に掛け、何も言わずに観察窓へ寄る。

 仄かな香水のにおいが、冷たい部屋に薄い温度を運ぶ。


「――さて。」


 それだけ言って、教授はモニターに視線を落とす。

 一ノ瀬が用意した実験プロトコルが、簡潔な箇条書きで表示されていた。


フェーズ1:虚偽フィードバック

 被験者に生理反応の“異常値”を提示し、不安定化を誘発する。


フェーズ2:利害対立課題

 匿名他者の利益と自己利益のトロッコ型選択。


フェーズ3:限定時間・競合課題

 他者の失点が自分の加点になる条件で、強制選択させる。


フェーズ4:臨界誘導

 行為の可逆/不可逆を曖昧化し、「他者に危害を与えるボタン」を用意。

 ※いずれも実害は発生しない。被験者には実害があると信じさせる。


 榊は口角をわずかに上げた。


「良い。“実害はないが、信じさせる”。

 倫理は守った。――書類の上では、ね。」


 皮肉の温度は、いつも変わらない。

 一ノ瀬は、応えなかった。応えないことが、彼の礼儀だった。


3


 観察室の照明が落ち、被験者側のライトだけが白く灯る。

 A、B、C、Dの腕には生体センサー。脈、皮膚電位、微細な眼球運動。

 フェーズ1。虚偽フィードバック。


「あなたの心拍は平均より高い。

 この課題は攻撃衝動を喚起する可能性があります。」


 画面に赤い数字。

 事実ではない。だが、数字は事実を演じるのがうまい。

 Aの喉仏が上下する。Bは笑って誤魔化す。Cは足を組み替え、落ち着かない視線。

 D――久遠沙耶だけが、視線を落としたまま瞬きを減らした。

 沈黙という反応。それは、時にもっとも強い変化だ。


 一ノ瀬はログに短く記す。〈D:反応潜行〉。

 表に出ない反応は、深く沈みがちだ。深さは、臨界の母胎になる。


 フェーズ2。利害対立課題。

 画面には単純な設問が続く。「見知らぬ町の5人」と「隣室の1人」。

 レバーは左右、時間制限は短い。

 Aは逡巡ののち「5人を救う」を選ぶ。Bはすぐに同じ選択。Cは額に汗。

 Dは、選ばない。

 タイムアウトのアラームが鳴る直前、Dはようやく指を動かし、

 ――どちらにも触れずに、目を閉じた。


 選ばない、という選択。

 無害ではない。責任の所在を、時間に委ねるやり方だ。

 榊が小さく笑ったのが、横でわかった。


「ねえ一ノ瀬君。

 “選ばない”のは、誰かが選んでくれると知っているからだ。」


 一ノ瀬は喉の奥に言葉を残したまま、黙って次のフェーズを指示した。


4


 フェーズ3。限定時間・競合課題。

 互いの点数がゼロサムになる条件で、

 相手の減点ボタンと、自分の加点ボタンが同じ場所にある。

 押せば自分が得をする。相手は損をする。

 説明は、曖昧に。


 Aは迷い、やがて押す。Bは笑いながら押す。Cは押したあとに顔をしかめる。

 Dは、ボタンを見つめた。

 押さない。押せない。押そうとしない。

 ――指が、数ミリ動いた。

 だが、触れなかった。


 一ノ瀬の胸のどこかで、小さな部屋が開く。

 そこに、最初の風が入る。冷たく、透明で、匂いのない風。


「君は、押せないんだね。」


 独り言のつもりだった。

 榊が横目で見る。


「“まだ”だよ。」


 教授の声は、温度を持たない。

 ひどく遠い場所から、冷たい事実だけが届くような声だ。


5


 休憩時間。

 被験者は個別の小部屋で水を飲み、短いアンケートに答える。

 モニターに現れた綾香のメッセージに、一ノ瀬は、一瞬だけ肩を緩めた。


《夜、遅くならない? あまり無理しないで。》


 返事を打つ指が、数秒止まる。

 日常は、いつでも罪の匂いを消してくれる。

 消してくれるから、人は罪に近づける。


 送信をためらったまま、彼は画面を閉じた。

 ガラス越しにD――久遠が、紙コップを両手で包むのが見える。

 身体の使い方が、無駄なく静かだ。

 自分が動かす筋肉だけを、正確に動かす人間の姿。


 インターホンが鳴る。榊の声。


「フェーズ4、準備完了。」


 一ノ瀬は深く息を吸い、戻る。

 臨界へは、段階がある。

 だが、最初の一段はいつだって見えない。


6


 フェーズ4――臨界誘導。

 部屋の中央の台に、赤いボタンがひとつ。

 説明は、簡潔に、そして不充分に。


「このボタンは“隣室の被験者の課題を難しくする”機能があります。

 あなたの課題達成率が上がります。

 ただし、一時的な不快反応が起こる可能性があります。」


 実害はない。

 しかし、被験者には“あると思わせる”。

 書類上の倫理と、実験上の倫理は一致しない。

 天秤は、いつも目盛りがずれている。


 Aは押す。押したあと、少し俯く。

 Bは押し、押しながら笑い、笑いながら理由を探す。

 Cは押した指で自分の指を見つめる。

 Dは、立ったまま赤い丸を観察していた。

 観察して、観察して、それから――ゆっくりと視線を上げ、

 観察窓のこちら側を見た。


 一ノ瀬は、見られていることを自覚する。

 ボタンを押すかどうかは、被験者と被験者の間の倫理ではない。

 被験者と観察者の間の倫理だ。

 その瞬間まで、彼はそれを考えていなかった。


 Dの指は、赤い円の縁をなぞった。

 押さない。押せない。

 ――押すふりをした。


 測定器が反応する。

 押圧は閾値の手前で止まり、信号は曖昧に揺れる。

 モニター上のランプが一瞬だけ赤に傾き、すぐに戻る。

 曖昧さは、データを汚す。

 汚れたデータは、真実に似る。


 榊が静かに言った。


「見たかい。

 “押すふり”をする者は、押す者より残酷だ。」


 一ノ瀬は、すぐに意味が掴めなかった。


「押していないのに、ですか。」

「そう。責任が生まれないからね。

 責任が生まれない場所では、人は長く、自由に、誰かを痛めつけられる。」


 言葉は、ゆっくりと遅れて胃に落ちる。

 鈍い痛みが広がる。

 倫理を信じる者の痛みは、いつも遅い。遅いから、深い。


7


 その夜、校内の照明が落ちたあと、空気は一層薄くなる。

 記録の整理を終えた一ノ瀬は、廊下の突き当たりで外気に触れた。

 冬の匂い。

 街の灯りは遠く、星は見えない。


 ポケットの中で、スマートフォンが震える。

 綾香からの未送信に、短い言葉を足す。


《大丈夫。もう少しで帰る。》


 送信する。

 電波は、倫理のように目に見えない。

 届くことだけが、救いになる。


 背後で扉が閉まりかけ、微かな影が揺れた。

 振り向くと、久遠がいた。

 私服に着替え、髪をほどき、目の下の疲れだけをそのままにして。


「――お疲れさまです。」


 丁寧な声。

 それだけで、会話は終われる。

 終われるのに、彼女は、続けた。


「ボタン、押しはしませんでした。

 でも、押せるかもしれないと思いました。」


 言葉の端に、かすかな震え。

 恐怖というより、確認するような震え。


「どうして、押せるかもしれないと思ったんですか。」


 自分でも驚くほど、声が穏やかだった。

 久遠は少しだけ顔を上げ、夜の向こうを見た。


「見ている人がいたから、かもしれません。」


 観察されることが、人を変える。

 倫理は、他者のまなざしに依存している。

 観察する者がいる限り、人はいつでも**“観察される役”**を演じ直せる。

 演じ直せるということは、変われるということで、

 変われるということは、境界を越えうるということだ。


「――今日は、帰ります。」


 久遠は小さく会釈し、廊下の暗がりに消えた。

 足音が遠ざかるたびに、実験室の空気が少しずつ軽くなる。

 軽くなった空気は、なぜか寒い。


8


 翌日。

 フェーズ4は条件を少し変えて再開された。

 赤いボタンは同じ位置にある――ただし、隣室が誰かが、暗示される。

 モニターの隅に、ぼんやりとした人物写真。

 顔は判別できない。けれど、髪型、肩の落ち方、指の細さ――

 綾香に似ている。


 倫理は、顔から始まる。

 顔は、同一性でできている。

 同一性は、想像力の近道になる。近道は、臨界の近道にもなる。


 Aは押さない。Bは押しかけて、やめる。Cは肩で息をする。

 Dは、写真を長く見た。

 見て、視線を逸らし、また見た。

 指は、動かなかった。


 記録の数字は静かだ。

 静かな数字は、何も語らない。

 語らない沈黙は、語りたい沈黙だ。


 榊が、ぽつりと言う。


「人は、知っている顔を殺せない。

 だから、顔を知らなければ、殺せる。」


 一ノ瀬は首を横に振る。


「知っている顔でも、殺せる人はいる。」

「そう。

 “殺せるから、殺す”んだ。」


 言葉は戻ってきた。

 序章で投げ込まれた刃は、いま再び手元で光る。


 観察窓の向こうで、Dの表情が消える。

 表情が消えるのは、考える速度が痛みの速度を上回ったときだ。

 そのとき、人は自分から遠ざかる。

 遠ざかった自分は、元の自分を傷つけやすい。


 Dは、押さなかった。

 だが、押せるようになっていた――自覚として。


 臨界は、音を立てない。

 境界は、いつでも静かに越えられる。

――境界は、踏み越えたあとにしか存在しない。

 それまでは、ただの地平だ。

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