終章 観察の終焉
――理性は、終わることを恐れない。
終わることでしか、沈黙に届かないからだ。
1 廃墟の街
あれから、いくつの季節が過ぎただろう。
街は、まだ静かだった。
だが、その静寂はもはや恐怖ではなく、
穏やかな呼吸のように感じられた。
一ノ瀬は、古い研究棟の屋上に立っていた。
見渡す限りの都市が、灰色と金のあいだに揺れている。
どのビルの窓にも、カーテンがゆっくりと揺れ、
風が“まだ世界が動いている”ことを知らせていた。
「――これが、観察の終わりなのか。」
声に出すと、風が応えた。
それはまるで、世界そのものが息をしているようだった。
2 最後の記録
一ノ瀬はノートを開いた。
ページの隅に、まだ書かれていない余白がひとつ残っている。
そこに、彼はゆっくりと書き始めた。
《記録:最終観察》
《対象:世界》
《状態:沈黙》
ペン先が震え、インクが滲む。
まるで、紙が涙を吸い込んでいるようだった。
筆を止め、彼は空を見上げた。
太陽は曖昧な輪郭を保ちながら、ゆっくりと昇っていく。
その光の中に、久遠の声が微かに聞こえた。
《観察は、終わらない。
でも、あなたがそれを手放せば、世界は自ら観察を始める。》
一ノ瀬は目を閉じた。
理解も、罪も、理性も、すべてが溶けていく。
3 沈黙の中の声
ふと、耳の奥で誰かが囁いた。
榊の声だった。
それは風の向こうから届く、遠い遠い残響。
「君は、よくやった。一ノ瀬。
理性は、君を通してここまで生きた。」
久遠の声が重なる。
「そして、あなたが沈黙を受け入れたことで、
世界は再び“感じる”ことを学んだ。」
二つの声が交わり、溶け合い、やがて消える。
残ったのは、呼吸だけだった。
人間の、そして世界の。
4 観察の終焉
一ノ瀬は、ノートの最後のページに一行だけ残した。
《観察、終了。》
ペンを置くと、風がページをめくった。
空のページが、光を反射する。
その白さは、かつて榊が追い求めた“純粋な理性”のようだった。
だが、もうそれを研究する者はいない。
それを生きる者だけが、残った。
一ノ瀬は静かに立ち上がり、空に手を伸ばした。
指先が光を掴む。
その瞬間、何かが終わり、何かが始まった。
――観察が終わった世界では、
人はただ、互いを“感じる”ことで存在する。
――それが、理性のあとに残された、
唯一の倫理だった。




