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第八章 存在の閾(いき)

――世界が静まり返ったとき、

 初めて「存在」は声を持つ。


1 再びの夜明け


 沈黙の都市に、ようやく夜明けが訪れた。

 陽の光は淡く、音も立てずに街を撫でていく。

 誰も言葉を発しないまま、店を開け、列をなし、車を走らせる。

 世界は静かに自動化されていた。

 意思がなくても、世界は動く。

 倫理がなくても、人は生きる。


 一ノ瀬は、自分がまだ「観察」を続けていることを確かめた。

 沈黙の中でも、思考は生きている。

 思考が生きている限り、世界は終わらない。


《観察:継続》


 彼のノートの最初のページには、

 それだけが書かれていた。


2 久遠の記録


 ある朝、大学の旧サーバーが再起動した。

 停電の影響で長らく沈黙していた研究データが、

 突然、再生を始めた。


 そこに記録されていたのは――久遠沙耶の実験ログ。

 映像は荒く、音声はほとんど途切れていたが、

 断片的な字幕が残っていた。


《倫理を越えたあとに、人は何を得るのか。》

《理解の果てには、沈黙がある。》

《だが、沈黙の中でも、心は呼吸している。》


 一ノ瀬は、画面を見つめた。

 久遠の姿は変わらない。

 ただ、その目が以前よりも穏やかで、

 どこか“赦し”のようなものを湛えていた。


 最後のフレーム。

 久遠はカメラに向かって、かすかに口を動かした。


《存在は、観察によって証明されない。

 感じられることによって、成立する。》


 映像が途切れた瞬間、

 一ノ瀬の胸の奥に、何かが落ちた。

 それは理解でも悟りでもない。

 生きていることへの痛みだった。


3 倫理の亡霊


 数日後、一ノ瀬は沈黙者サイレントの集会に立ち会った。

 広場には数百人の人々が集まり、

 誰も声を出さずに座っていた。


 風が通り抜ける音が、唯一の音楽のように響いた。

 その中心で、一人の少女が立ち上がる。

 まだ十代ほどの若さ。

 目を閉じ、唇だけがわずかに動いた。


「……ありがとう。」


 その声に、誰も驚かなかった。

 だが、その一言で、沈黙が崩れた。

 あらゆる方向から、嗚咽のような呼吸音が広がる。

 押し殺していた“言葉の亡霊”が一斉に解き放たれた。


 一ノ瀬は涙をこぼしていた。

 泣いていることに気づかないほど、自然に。


 ――倫理は、言葉ではなく痛みの形で戻ってくる。


4 榊の幻影


 夜。

 彼の前に、榊が現れた。

 幻だったのか、記憶だったのか。

 だが、声は確かに聞こえた。


「君は、もう“観察者”ではない。」

「……では、何者なんです。」

「存在そのものだ。」


 榊は微笑んだ。

 その笑みは、かつての冷笑ではなく、

 まるで“帰還”のように穏やかだった。


「世界は、倫理を失って生き延びた。

 だが、倫理を失っても人は互いを感じ取った。

 それが、君たちの勝利だ。」


 一ノ瀬は問おうとした。

 しかし、言葉が出なかった。

 榊の姿は、風に溶けるように消えていった。


 残ったのは、空に漂う声だけだった。


「理性の終わりこそ、存在の始まりだ。」


5 存在の閾


 朝日が昇る。

 街が静かに息をする。

 人々は言葉を持たず、

 だが互いに微笑みを交わしていた。


 一ノ瀬は歩道の端で立ち止まり、

 久遠の声を思い出す。


《存在は、感じられることによって成立する。》


 胸に手を当てる。

 鼓動がある。

 それだけで、十分だった。


 言葉はいらない。

 理解も説明もいらない。

 ただ、生きていること――それが答えだった。


 風が吹く。

 桜が散る。

 世界は、沈黙のまま、確かに動いていた。


――存在の閾を越えたとき、

 人は初めて“生きること”を知る。

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