第七章 沈黙の信仰
――臨界とは、壊れることではない。
壊れたあとにも“形が残っている”ことだ。
1 沈黙都市
世界は、静かになりすぎていた。
テレビは無音で報道を続け、アナウンサーの口だけが動いている。
街では人々が会釈だけで会話を済ませ、
公共の場からはすべてのスピーカーが撤去された。
それは秩序の崩壊ではなかった。
むしろ、秩序の最終形だった。
誰もが他者の言葉を恐れていた。
言葉が意味を持つことが、暴力に等しくなっていたからだ。
一ノ瀬は、その静寂の中を歩いていた。
交差点の信号の色だけが、まだ世界に残された“意思”のように見えた。
「……榊の言った通りだな。」
理性の崩壊は、無秩序ではなく沈黙を生んだ。
理解が極限まで進んだ先で、人々はようやく“理解しない自由”を選んだ。
2 沈黙の教団
“沈黙者”と呼ばれる人々が現れた。
彼らは言葉を捨て、瞑目し、互いの呼吸だけで意思を通わせた。
その姿は、宗教の儀式にも似ていた。
だが、そこに神は存在しない。
ただ、「語らないこと」そのものが信仰になっていた。
一ノ瀬は、彼らを取材する政府研究班の一員として再び観察を始めた。
ノートの表紙に「沈黙行動心理調査」と印字されている。
その文字列が、かつての“倫理実験”と同じ匂いを放っていた。
被験者たちは静かだった。
表情も変えず、ただ互いを見つめ続ける。
何も語らないのに、涙を流す者もいた。
脳波は安定し、ストレス反応は極端に低い。
「……幸福、なのか。」
一ノ瀬は独りごちた。
幸福の定義が、再びわからなくなっていた。
3 久遠との再会
調査の帰り、地下鉄のホームで久遠に再び出会った。
彼女は群衆の中で、ただ静かに立っていた。
目を閉じ、手を胸に当てている。
まるで祈りの姿勢だった。
「――君も、信じているのか。」
声をかけても、彼女は目を開けなかった。
その沈黙が、答えのようだった。
「言葉をやめた世界で、まだ人間は残ると思うか?」
久遠はゆっくりと目を開けた。
その瞳には、かつての理性も、感情もなかった。
代わりに、“受け入れ”だけがあった。
「残りますよ。」
「なぜ。」
「沈黙が、最後の会話だから。」
一ノ瀬は息をのんだ。
久遠の声は微かに震えていた。
その震えが、人間の“まだ消えていない音”だった。
4 沈黙の街の子どもたち
数週間後、子どもたちが「言葉を持たない遊び」を始めた。
声を出さず、ただ指や視線だけで鬼ごっこをする。
彼らはそれを「静かごっこ」と呼んだ。
笑い声もない。
だが、その顔には確かな“生”があった。
一ノ瀬はその光景を見て、奇妙な安堵を覚えた。
沈黙は終わりではない。
言葉が消えたあとにも、伝達は続いている。
倫理が壊れたのではなく、
倫理が生存のための形式に還元されただけ。
それが榊の望んだ世界だったのかもしれない。
5 理性の祈り
夜。
一ノ瀬はノートを開き、最後の記録を書いた。
《理性は、声を失っても生きている。
倫理は、誰かを守るためではなく、
“自分を沈黙させるため”にあった。》
ペンの音だけが響く。
外では風が吹いていた。
その音は、言葉の亡骸のようだった。
ページの端に、彼は小さく書き添えた。
「――観察、続行。」
それはもはや、命令でも習慣でもなかった。
祈りだった。




