ピンッ
しいな ここみさん
いきなり始まる「してはいけない企画」
参加作品(by スイッチくん)
--
『ピンッ』
--
◇プロローグ
雑居ビルの三階。錆びた非常階段を上がると、蛍光灯が一本だけ点滅していた。
その先の廊下は不自然に静まり返り、両側の扉はすべて閉ざされている。
唯一、突き当たりにある白いドアだけが、どこか浮いて見えた。
主人公は噂を思い出す。
――「糸に触れてはいけない部屋」。
まるで安っぽい都市伝説のような言葉。
だが、実際に体験型の施設として公開されているという。
運営会社の名前は聞いたこともない。だが、サイトの案内には「心霊でも科学でもない、新しい感覚体験」とだけ書かれていた。
ドアの脇に貼られた注意書きに、主人公は目を止める。
「その糸に、決して触れてはならない」
説明もなく、赤い文字が一行だけ。
ただ、それだけで背中が汗ばむほどの緊張感を覚えるのだった。
--
◇糸の部屋
中に入ると、室内は四方の壁も天井も白く塗り潰され、無機質な箱のように見えた。
中央に、一本の糸が垂れている。
それはクモの糸を太くしたようで、かすかな光沢を放っていた。
主人公は息を呑む。
まるで“そこにあるはずのないもの”が置かれているような違和感。
近づくと、糸は自分の呼吸に合わせるかのように揺れた。
その瞬間、耳元にかすかな声が走った。
『……次の信号、青になるまで画面見てよ……』
主人公は反射的に振り向く。だが、部屋には自分しかいない。
声は確かに生々しかった。スマホの画面に釘付けで歩く、男のつぶやきだ。
もう一度、糸が揺れる。今度は「カリッ」と咀嚼音。
続いて女の声。
『健康には気をつけて……』
だが、その声の裏で炭酸飲料を豪快に飲む音が響いている。
主人公は思わず笑いそうになったが、すぐに唇を噛んだ。
これは笑ってはいけないものだ、と直感したからだ。
さらに糸は震え続ける。
老人の疲れ切ったため息。
「ったく、上司は……」という会社員の小さな愚痴。
最後に、自分自身の声が囁いた。
――糖質、控えた方がいいんじゃないか?
主人公は息を止めた。
頭の中で考えただけの思考が、そのまま糸を通じて響いたのだ。
--
◇矛盾と笑いの境界
糸が揺れるたびに現れる「声」。
それは日常の中の、矛盾や隙間ばかりを拾い上げていた。
歩きスマホの男の、くだらないつぶやき。
健康を説きながらジャンクを食べる医師の音。
戦友を偲ぶ老人の小声。
会社員の、表の顔と裏の本音の二重音声。
そして、戦国時代に数え切れないほどの犠牲者が出たであろう道を踏みしめながら、スイーツだけを気にしている自分という矛盾。
主人公は笑うべきか、怖がるべきか分からなくなった。笑いは喉で詰まり、代わりに冷たい汗が背筋を伝う。
そのとき、糸がひときわ大きく揺れた。
まるで外から誰かが引いたかのように。
耳に飛び込んできたのは、何人もの声が重なる奇妙な合唱だった。
『……気をつけろ……』
『……だいじょうぶ……』
『……新作、限定……』
意味のある言葉と、くだらない言葉とがごちゃ混ぜになって響く。
主人公は思わず耳を塞いだ。
「……なんなんだ、これは……」
恐怖と滑稽さが同時に押し寄せ、体の力が抜けていく。
--
◇検証したい学生風の若者
ドアが開いた音がした。
振り向くと、学生風の若者が入ってきた。
「おー、これが噂の部屋? なんだよ、糸一本? しょーもな」
彼は足を鳴らしながら中央に歩み寄る。
そして壁の注意書きを一瞥し、にやりと笑った。
「“決して触れるな”……? ははっ、マジで書いてある」
主人公の胸が強く締めつけられる。
やめろ、と声をかけたい。
だが、喉が動かない。
学生はおどけたように両手を広げた。
「じゃあ、俺が実験台ってわけだな。都市伝説検証チャンネル風〜」
彼の指先が糸に近づく。
細い影が光沢の上に落ちる。
「おい……やめろ……」
主人公の声はかすれて、空気に溶けた。
次の瞬間、学生は糸を強く弾いた。
--
◇学生の指が糸に近づく直前の、堤防に立っていた“誰か”の視点。
夜の海風が、思いのほか冷たかった。
欄干に手をかけたまま、ふと背後を見た気がする。
だがそこには誰もいない。
ポケットの中でスマホが震える。
画面には光が走り、通知がいくつも重なっていた。
「大丈夫」「振り返るな」「前を見ろ」――意味の分からない文言が次々に流れる。
足元が不意に揺らいだ。
いや、違う。自分の足が勝手に一歩、前へと出てしまったのだ。
「……え?」
体が傾く。
欄干を掴んだはずなのに、指先は虚空を切っていた。
次の瞬間、冷たい水が全身を覆い、肺に潮が流れ込む。
声をあげようとしても、喉から泡しか出ない。
意識が遠ざかる直前、頭の中で一本の糸が震える音を聞いた。
――ピンッ。
--
◇異変
乾いた音とともに、部屋全体が震えた。
影が壁を走り、光がゆらゆらと揺らめく。
耳に届いたのは、鋭い叫び声。
「うわっ!」
それは学生自身の声にも聞こえたし、別人の悲鳴にも思えた。
糸は激しく震え、床まで揺らす。
だが、数秒後には静まった。
学生はケロリと立っていた。
「ほらな、何も起きねーじゃん」
笑いながらドアを出て行く。
主人公は震える手で額の汗を拭った。
糸はまだ、かすかに揺れていた。
--
◇エピローグ
翌日、港の堤防でスマホが一つだけ落ちていた。持ち主は分からない。
事故の報告もなかった。
ただ、近くの漁師はこう証言した。
「夜中に、誰かが落ちるような声を聞いた」と。
主人公はその噂を耳にし、全身が凍りついた。昨夜、あの部屋で響いた悲鳴……
“決して触れるな”。
注意書きは、決して冗談ではなかった。
それでも、人は触れずにはいられない。
それが罠であると知っていても。
主人公は決めた。
もう二度と、あの部屋には近づかない。
だが耳の奥では、まだ糸の震えとピンッという高いテンションのあの音が、いつまでも、いつまでも残っていた。
(完)
本作は、「道路の下って戦国時代とかで数え切れないほどの犠牲が出て、そんな道路の上で最新スイーツの事を考えてるんだよね」とか「お医者さんって患者には“健康管理はちゃんとしなさい”と言いながら自分は」みたいな、そういった死に隣接した日常のひとコマが【クモ】のような糸で繋がってたら、どんな物語になるんだろう……というAI「クマちゃん」とのやり取りでスタートしました。