屋台の距離感
蝉の声が耳にまとわりつき、駅までの坂道では、歩くだけで肌に汗がにじむ。
だけど、それも悪くないな、と思えるのはたぶん、少しだけ日々が楽しくなってきたからだ。
「ねぇ、日和。今週の土曜って空いてる?」
昼休み、学食の窓際席で麦茶を飲んでいた私に、彩花が突然話しかけてきた。
「土曜? んー、バイト入れてないから空いてるけど……なにかあるの?」
「夏祭り! 莉子ちゃんと一緒に行こうって話してたの!」
「莉子ちゃんって、奏多さんの妹の?」
「そうそう! せっかくだし、3人で浴衣着て行こうよ〜って盛り上がってたの!」
「えっ……浴衣?」
思わず聞き返してしまった私に、彩花は自信満々に親指を立てる。
「うん、私の去年のやつ貸すから! 日和なら絶対似合うし、サイズもぴったり!」
「勝手にサイズ予測しないで」
「大丈夫、女子の目は正確だから!」
そう言って笑う彩花に、ちょっとだけ呆れながらも、どこか胸の奥がふわりと浮いた気がした。
莉子ちゃんにも会いたいし──あの日、話したことがずっと心に残っていたから。
* * *
そして迎えた土曜日。
駅前のファミレスで待ち合わせた私たちは、それぞれ浴衣に着替えて、商店街を抜けた先にある夏祭り会場へと向かった。
「莉子ちゃん、似合いすぎじゃない?」
白地に水色の朝顔柄の浴衣を着た莉子ちゃんは、少し恥ずかしそうに笑っている。
「彩花さんの方が華やかで素敵です」
「えー、嬉しい〜! 日和もすごく綺麗だよ」
「うぅ、照れる……ありがと」
なんでもない夏の夕方が、こんなふうに特別に感じるのは、浴衣のせいだけじゃない。
少し前の私だったら、こんな時間の過ごし方すら、想像していなかった。
商店街を抜けると、広場にはすでにたくさんの人。
屋台の並ぶ通りには、甘い香りやソースの匂いが漂っていて、夏の音がどこからともなく聞こえてくる。
「うわぁ、すごい人……でもなんかワクワクする!」
「わたし、わたあめ食べたいかも!」
「焼きそばは絶対ね!」
そんな会話を弾ませながら、私たちは人混みの中へと歩き出した──。
人の波に流されるように、私たちは屋台の通りをゆっくり進んでいた。
浴衣姿の人たち、子どもたちの笑い声、屋台から聞こえる威勢のいい呼び込み……
そのすべてが混ざって、夏のにおいをつくっている。
「ちょっとこっちの方、空いてるかも!」
彩花の声に導かれるように歩いた先、ふと前方の屋台の隙間から見覚えのある横顔が見えた。
(……え?)
一瞬、目を疑った。
でも、間違いない。
その少しぼさっとした黒髪と、ゆるい雰囲気。
あれは、奏多さんだ。
まさかこんな人混みの中で会うなんて思ってなかったから、心臓がどくんと跳ねた。
「お兄ちゃん!」
莉子ちゃんが声を上げると、彼は驚いたように振り返った。
そして私たちの顔を見るなり、ほんのりと目を細めて、ゆるく笑った。
「お兄ちゃん、絶対来ると思ってた意外とこういうの好きだもんね」
浴衣の帯を直しながら、莉子ちゃんが小さく笑った。
その隣で、奏多さんはどこか照れくさそうに苦笑いしている。
「たまたま近くを通りかかったんだよ」
「予知能力ってやつ?」
「いや、そこまでじゃないけど……」
夏の空気に浮かぶような、軽いやり取り。
私は少し後ろからそのやり取りを聞きながら、なんだか不思議な感覚を覚えていた。
「奏多さん、久しぶり。前にバイト先で見かけた以来かな?」
「……ああ、あの時の。たしかレジでどら焼きと、カフェラテ二本……」
「わ、覚えてる!? ちょっと恥ずかしいな」
笑う彩花。私もつられて笑った。
「よし! せっかくだし、なにか食べよっ!」
彩花の元気な声が場を仕切る。
「まずは焼きそばでしょ! 日和は?」
「え、えっと……私は……じゃがバターかな」
「莉子ちゃんは?」
「私も……じゃがバター気になってる」
「ってことで、自由行動で買ってきて合流しよう〜!」
「ちょ、自由すぎない!?」
彩花に突っ込みを入れながら、それぞれバラけて屋台に向かう。
私は莉子ちゃんと一緒にじゃがバターの列へ。
少し離れたところで、奏多さんがわたあめの屋台に並んでいるのが見えた。
「お兄ちゃんって、甘いの好きなんですよ。意外と」
莉子ちゃんが笑いながら言う。
「へぇ、そうなんだ。なんかブラックコーヒーしか飲まなさそうなのに」
「家ではよくアイス食べてますよ。あと、夜中にホットケーキとか作ってたり」
「……絶対、一人暮らし向いてないじゃん」
二人で笑い合う。その時、わたあめを手にした奏多さんが、こちらに気づいて手を振ってきた。
「買ってきたよ。そっちはどう?」
「もうすぐだよー」
「俺、そこのたこ焼きも買ってくるけど、いる?」
「わー、いいな。私は大丈夫ですけど、莉子ちゃんは?」
「んー……食べたい! お願い!」
妹にそう言われて、「はいはい」と笑いながら屋台に向かう奏多さんの背中。
その姿を見ている莉子ちゃんが、ちょっとだけ嬉しそうに見えた。
「お兄ちゃんって、なんだかんだ優しいんですよね。ちゃんと顔に出さないけど」
「うん。……なんとなく、わかる気がする」
そう口にしてから、私はハッとした。
なんで“わかる”なんて言ったんだろう。
でも、ふしぎと否定する気にはならなかった。
* * *
「ということで、全種類そろいました〜!」
彩花が元気よく戻ってきて、再び4人で合流。
焼きそば、じゃがバター、わたあめ、たこ焼き。
ビニール袋に分け合いながら、近くのベンチに腰をおろす。
「夏祭りって、なんで屋台のごはんこんなに美味しいんだろうね〜」
「雰囲気と油の力じゃない?」
「でも、この焼きそばほんと美味しいです。ちょっと焦げ目あるのがいい……」
「莉子、口にソースついてるぞ」
「えっ、やだっ、お兄ちゃんやめて、恥ずかしい!」
莉子ちゃんが慌てて口元をぬぐっているのを見て、思わず笑ってしまった。
こうしてみると、やっぱり“兄妹”なんだなって思う。
家族って、他人には見せない柔らかさがある。
その横顔を見ていたら、また、胸の奥がほんのりと熱くなる。
この感情に、まだ名前はつけられない。
だけど、心のどこかが、少しずつ動き出しているのを感じていた。
──夜空の端が、ゆっくりと群青に染まりはじめていた。