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夏、はじまりの音

季節は、気づけば夏に変わっていた。

 街路樹の葉は深く緑に染まり、空の青さに少しだけ眩しさを覚えるようになって、

 コンビニの冷蔵庫から冷たいペットボトルを取り出す手も、自然と早くなる。


 あの日、莉子ちゃんと話してから、私は少しずつ、奏多さんのことを意識しはじめていた。

 ――いや、たぶんそれ以前から、ほんのりと心に残っていたのかもしれない。

 ただ名前がつかないまま、胸の奥でふわふわ漂っていた気持ちが、あの出会いをきっかけに、すっと形をとったような気がした。


 でも、特別な何かが起きたわけじゃない。

 日々は淡々と過ぎていく。

 バイトに行って、授業を受けて、友達と笑って、ごはんを食べて。

 そのなかで、奏多さんとの会話が少しずつ増えていって──

 それだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。


 夏は、まだ始まったばかり。

 恋に名前をつけるには、たぶんまだ早い。

 でも、心のどこかで、何かがはじまろうとしている音だけは、確かに聞こえていた。


* * *


「日野さん、これスキャンする前にシール剥がした方が楽だよ」


「あっ、はい……すみません、またやっちゃいました」


「大丈夫、大丈夫。俺も最初、毎回レジ袋詰めるときひっくり返してたし」


「それは……ちょっと不器用ですね」


「否定はできないかも」


 クスッと笑う奏多さん。

 あくまで優しいトーンで、冗談みたいに指摘してくれるその空気に、少しだけ気が緩む。


 この人は、いつもこんなふうに、自然に距離を詰めてくる。

 それが心地よくて、時々、ちょっと困る。


「そういえば、最近シフト多くないですか?」


「夏休み近いし、旅行のために貯めたいんだって言ってた人がシフト減らしたからね。代わりにちょっと多めに」


「奏多さん、ほんと真面目ですよね」


「それは……微妙な褒め方じゃない?」


「え、褒めてますって!」


 笑いながらレジ袋に商品を詰める。

 その手がふと重なりそうになって、私はほんの少しだけ手を引いた。

 気づかれないように、さりげなく。でも、心臓は正直だ。


(なんで、こんなにドキドキしてるんだろ……)


* * *


 夕方、バイトが一段落したあと。

 店の裏手にある搬入口の扉を開けて、外の空気を吸った。


 熱がこもった空気に、少しだけ頭がぼうっとする。

 ふと隣に目をやると、奏多さんが缶コーヒーを2本持って立っていた。


「はい、これ。冷たいの」


「ありがとうございます。優しいですね」


「いやいや、自分も飲むから」


 毎回このやりとりになる気がする。

 そう思いつつ、プシュっと缶を開ける。


「日野さんって、ちゃんと寝てる?」


「え、急にどうしたんですか?」


「いや、今日ちょっとだけ目が赤かったから。アレルギーか、寝不足か……って」


 ……そんなとこまで見てたんだ。

 ちょっとびっくりして、でも悪い気はしなくて、むしろ。


「あ、昨日ちょっとだけ夜更かししてました。映画見てて」


「どのジャンル?」


「洋画の、ヒューマンドラマ系。ちょっとだけ泣きました」


「へぇ、意外」


「失礼な! 私だって感情あるんですよ?」


「ごめん、冗談。でも、日野さんの泣いてる顔、想像つかないな」


「……じゃあ、見ないでください。二度と」


 思わずふくれっ面をして、彼の笑い声が少しだけ近くなった気がした。

 この会話の距離感が、なんとなく、ちょっとだけ特別なものに思えた。


* * *


 帰り道。駅までの道を歩きながら、さっきのやりとりを何度も思い出してしまう。


「……あ、そうだ」


 急に立ち止まって、奏多さんが何かを思い出したように言った。


「来週、妹が日野さんにまた会いたいって言ってたよ。たぶん大学に行くって」


「莉子ちゃんが? なんで……?」


「さあ? なんか話しやすかったって言ってた。…」


「……そう、ですか?」


 思わずうつむく。



(嬉しい……けど、なんだろ、この感じ)


 夜風が頬をなでていく。

 ちょっとだけ汗ばんだ手に缶コーヒーの冷たさが残っていた。


 たぶんこれは、恋ではない。

 けれど、胸のどこかで少しずつ、芽みたいなものが膨らんでいる気がした。



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